2010年12月5日日曜日

若者が消えた国

近年、訪日する度に「何かが違っている・・・」と感じることが多々ある。勿論、バスや電車の中に高齢者が溢れている風景もそのひとつかも知れないが、一番大きな違いは、どうも「若者の数が圧倒的に少ない」ことから来ているらしい。勿論、青年男女、大学生らしい姿も見えるのだが「精神的に溌剌とした若者」が消えてしまったのだ。
 この現実は、日本の将来に関わる重大な問題であるからトピックにした。

現代に生きる若者たちからは、小筆が学生時代、神田周辺に満ち溢れていた若者たちの「燃え上がるような覇気」が全く感じられないのである。当時は、真面目な学生も、バンカラな奴等も頭が空っぽの体育会系の連中も、等しく漂わせていたのが、眼をギラギラさせた、野獣を思わせるような若者特有の「覇気」であり「熱情」であった。
この現象は、学生のみならず、政界にも、会社人間にも、建設現場で働くアンちゃんたちにも、繁華街で働く姐ちゃんたちも、すべての若者たちが発していた殺気のようなものであった。彼らのすべてが、何か気に入らない事でもあれば、所構わず「取っ組み合いの喧嘩」も辞さないという、日本人若者たち独特の気概を持っていたからであろう。だから、酔っ払いの喧嘩などは日常茶飯事で、誰も驚かなかった。

 国民の40%が65才以上という現代日本。それでも「若者たち」は30%以上いるはずなのに、あの懐かしい「覇気満々」、「野生むき出し」の若者の世界が、全く消え去っているのだ。折に触れて、大学生や高校生、若い社会人と話す機会があるが、彼らは一様にこぢんまりしとした紳士淑女であり、多分インテリで優等生なのであろう。しかし、彼らの世界からは野性味が消えただけではなくて、「人生への夢」まで聞こえてこない上に、「大目標」に向ってひたすらに驀進していく覇気が感じられないのだ。 多分、現状に満足しきっていて、それ以上の世界を望んでいないのではないか・・・、と心配である。要するに、ほとんどの若者が「無気力」なのである。
 
戦後も戦前も、いや徳川末期の頃から、日本には自分の信念に従って縦横に働き、死力を尽くした若者が沢山いた。そして、野獣のような彼らの活気が現代の日本を育ててきた。徳川末期、歴史に登場した坂本竜馬や吉田松陰、新撰組や勤皇の志士たちも、すべての若者たちが自分の信念に従って祖国のために生命を賭して戦い、新しい日本を切り開いてきた。明治維新以降の若者たちも「国家のために」、日清、日露戦争で戦い、祖国を守るために戦場で生命を捨てた。太平洋戦争でも、多くの若い兵士たちが、欧米列強の搾取に喘いでいた「アジア植民地の解放」に燃えて戦い、そして死んでいった。日本の敗戦後も、インドネシア独立のために二千名以上の日本人将兵が残留して、インドネシア独立軍を助けてオランダ軍と戦い、その半分以上の日本人若者たちが生命を捧げた。日中戦争と太平洋戦争中、海外で戦った日本人将兵は620万人におよび、散華した将兵の数は240万人を超えている。 

そして敗戦後の日本人若者たちは、国内の「戦後復興」のために瓦礫の中から立ち上がり命がけで働いた。町工場の若者たちは、進駐軍が捨てた空き缶を叩き伸ばして玩具を作り輸出さえした。若き商社マンたちは、外貨を稼ぐために安月給に喘ぎながら、命がけで世界中を駆け巡り、市場開拓に命を捧げて今日の日本経済の基礎を作った。
 日本経済の基盤が整うと、若者たちは国家権力との闘争にのめり込んで行った。「警職法反対」、「安保反対」、「大学紛争」、「全学連」、「革マル」、「赤ヘル」、「安田講堂事件」、等々、何が理想で、何が不満であったのか、さっぱり解らないが、彼らは「自分たちの主張」のために「官権との闘争」に挑み、エネルギーを発散させた。国会議員とてしかり、彼らの幾人かは、今でこそ政界の長老格として乙に澄ましているが、若い頃には「青嵐会」などと称して徒党を組み、国会内で暴れ回ったのである。下町工場の若者たちは、日中は黙々と働き、夜の訪れと共に「暴走族」に変身、夜中の道路を我が物顔で疾走して憂さを晴らした。
しかし彼らのすべてが、一様に自分の本分を守り、学生は勉強を、工場の兄ちゃんたちは技術の修得に、社会人たちは各々の会社で懸命に働いていた。その上での「憂さ晴らし」であったが、彼らの「エネルギー」が日本の国力と経済の底力になった。当時は、社会全体が手を焼く「若者たち」が山ほどいたのである。
この若者たちのエネルギーが沈静化すると、次世代の若者たちは挙って海外放浪に出かけて行った。これもまた、日本人若者のエネルギーの噴出現象であったのだろう。
 
 若者の行動力は、国家将来のバロメーターである。アメリカの若者たちは、人種差別政策を変え、ベトナム戦争を中止させ、ドイツの若者は「ベルリンの壁」を打ち砕き、イスラエルの若者たちは、アラブからの祖国防衛に生命を捧げ、エンテべ国際空港から奇蹟の人質奪回を敢行した。ロシアの若者は「共産主義連邦」を崩壊に導き、韓国の学生は「独裁主義」から民主国家を導き出し、中国の若者たちは「共産党独裁政府」最大の脅威になっている。それに反して、若者の姿が全く見えない北朝鮮は、すでに「死に体」であり、金王朝の崩壊も時間の問題である。
しかし現在の日本には、このように元気な若者はすでにいなくなり、何か悟り澄ましたような、まるで羊のように大人しい「若者の形骸」のみが彷徨しているような社会になってしまった。一体全体、日本の若者たちは、何処へ消えてしまったのか?

 現在、日本を取り巻く政治環境は危機的な状況にある。国内では、打ち続く民主党政権の体たらくも、野党の不甲斐なさも、沖縄の米軍基地の問題も、小沢一郎の資金疑惑も、官僚の無駄遣いも、中井議員の皇室不敬問題もあり、国際的には、北朝鮮の拉致と核開発、続発する南鮮への暴挙も、中国の尖閣諸島への野心も、ロシアの北方領土不法占拠も、韓国が占拠する竹島問題も、不逞の輩が繰り返す捕鯨妨害もあり、若者たちの怒りの対象になって然るべき社会問題が山積している。
しかるに、これらの重大問題に怒りをぶちまける若者の姿が見えない。若者たちが社会の不条理に義憤を感じなくなったら、その国の未来は消滅したのも同然である。
何故、現代の若者たちは、これらの問題に対して「危機意識」をもって抗議し、デモらないのか? 若者たちの政治無関心と抗議行動の沈滞は、民族衰亡の兆候であり、怒りを忘れた若者たちは国家の滅亡を招く。
 
その原因が、昨今の政治に由来するとしたら、これは日本民族の将来に関わる重大問題である。
小泉内閣以降、歴代内閣の無能ぶりは国民の夢を奪い、集票と政治資金集めに汲々としている国会議員たちの浅ましい姿、公約を平気で覆す政党、国際社会で恥も外聞もなく平気で法螺を吹き回った首相たちが続き、その尻拭いさえしない後任首相たちの無責任さ、沈船から逃げ出したネズミたちが、次々と作った新政党が、何ら画期的な新指針も政策も提示できず、全くの無策を露呈したまま、議員歳費のみを貪っている現状、これらに加えて、不法進入漁船問題で大局を見失った小細工で取り繕うとした政府、どのひとつを取り上げても、日本国民の信頼を失ったのみならず、国際社会での信用まで失墜させてしまった。これらのすべてが、若者たちの政治への無関心を招いた主因になっている。国政選挙があっても「投票すべき政党も立候補者もいない・・・」、これほどの悲劇があるだろうか? 現在の日本は、この重大な社会問題に直面しているのに、事態に頬被りしたまま、無策ぶりを繰り返す現政府を憂いている。
この醜態ぶりでは、若者に「夢を抱け」と云うのが、どだい無理なのは充分承知しているが、肝心の政府に危機意識が無く、重大事に鈍感であり、対策さえ打ち出せない現実を何と理解したら良いのであろうか?

時、すでに師走、今年も日本からの明るいニュースを待ち望んだ11ケ月間であったが、国民栄誉賞ものの「はやぶさ帰還」の快挙以外、不幸にも暗いニュースばかりで、特に民主党内閣の無策ぶりには、大いに落胆し続けであった。だからと云って、他の政党が頼りになる訳ではなく、暗澹たる憂鬱さに困惑している。

若者たちよ、元気を出して立ち上がれ、さもなければ「日本の未来は闇だ」。
「俺が行かずば誰が行く・・・」、戦国武将、片倉小十郎、白石城主の言葉を添える。

2010年11月1日月曜日

ハバロスク墓参

 10月18日、三泊四日のハバロスク訪問を終えて成田空港に戻ってきた。すでに冬景色で荒涼としたシベリア上空を飛び、日本海を越えて上空から緑豊かな牡鹿半島が望見できた時はほっとした気分になった。「父の終焉の地」訪問の事のみならず、街全体の後進性が著しく、貧しい住民の姿、特に治安が極度に悪いと云われている極東ロシアでの四日間の生活に緊張していたからであろう。飛行時間、たったの2時間半なのに、なんと遠い国であろうか・・・。改めてシドニー生活に感謝した次第でもあった。
 
 今回の訪ロは、10年前にモスクワまで行って捜し求めたが不明であった「父の埋葬場所」が「ほぼ確定」出来た、という元ソ連邦平和基金、ハバロスク支部書記長、ガリーナ・ポタポバ女史からの連絡が契機であった。

 父、戸倉勝人は、享年46才で昭和24年11月3日、ハバロスクで死亡した事は、モスクワの「歴史文書保存センター」で見つけた父の個人資料とそれに添付されていた検屍報告書で確認出来ていたが「埋葬場所」の記載がなく、その追跡調査をポタポバ女史に依頼していたのだ。それが10年後の今年初頭、女史からメールで「消去法でいくと、ハバロスク第二市民墓地、日本人地区しか無い・・・」とのメールを受けたので、父の「61年忌」にも当たる今秋、墓参を決めたのであった。

 父は、日露戦争の翌年、姫路酒井藩馬廻り番頭(260石、10人扶持)、藩校「好古堂」肝煎り役(事務局長職)、兼漢文教授職を6百余年継承する戸倉家の長男で、明治維新で士族を解かれた祖父勝淑の長男として大連で生まれた。以後、満鉄勤務の勝淑の下で小学校三年生の時まで大連で育ち、青島に移転して青島日本人小学校、青島中学校の二期生として卒業、上海にあった東亜同文書院を卒業後、小倉第12師団歩兵14連隊で「一年志願制度」により「将校教育」を受けて予備少尉になった後、上海に戻り満鉄に就職した。その後、大連本社の調査部に配属されて「満州建国」を研究する「大雄峰会」に所属、関東軍との連携で「自治指導部」を結成後、満州国建国を成しどけた時の基幹メンバーの一人であった。建国後は満州国政府交通部の要職に就き奉天、ハルピン、牡丹江、吉林、新京、海城、等々、高級官僚として各地を巡る中、姉と小筆、妹が生まれた。やがて父は、日、満、漢、朝鮮、蒙古民族等、5民族の調和を図り、王道楽土建設を目的とした官民一体の国民教化組織、「満州国協和会」の幹部となって吉林、承徳、終戦の年は、首都新京(現在の長春)の協和会本部調査第一部長の要職にあった。

昭和20年6月、関東軍の「根こそぎ動員」で軍籍に戻り、鮮満国境の街、延吉で終戦を迎えた。その後、ソ連軍の捕虜となり牡丹江に移され、11月末、極寒のシベリア鉄道を貨物列車に乗せられて、一ヶ月近い旅の末にモスクワ近くのタンボフ州ラーダに移送、6ヶ月後に中央アジア、カザン近くの「エラブカ将校捕虜収容所」に移送されて23年6月末まで収容された。その後、日本への帰還途中、ハバロスクで降車を命じられて16収容所14分所に抑留されて翌年11月3日に死亡した。
モスクワで入手した父の「検屍報告書」によると、死亡2時間前に1893特別病院に運び込まれ、「急性心臓欠陥で死亡」とされ、死体解剖の結果報告が添付されていたが、症状は素人眼にも判る完全な栄養失調による過労死であった。

 当時のシベリアは、ソ連に洗脳された日本人捕虜が組織する「民主委員会」が各収容所の実権を握り、戦前の高級官僚や高級将校の前歴を持ち、洗脳を拒んだ同胞捕虜たちを「極反動分子」として、毎夜の「吊るし上げ」、「反動ノルマ」という過重な「重労働」と過少な「反動食」を与えて嗜虐していた。洗脳、自己批判を拒絶した父もその中の一人にされ、それが原因で死亡した。
青島中学校時代、剣道部主将として日本へ遠征、京都武徳会中等学校剣道大会で全国制覇をなした剣道四段、大学時代も野球、陸上等スポーツで鍛え抜かれた壮年の父が、ハバロスク移送後たった1年3ヶ月間で過労死させられたのだから、想像を絶する過酷な扱いを受けたことは明白であり、小筆が調べた生還者の手記や母への挨拶状等にも、それらしい事情が記載されていた。

 終戦の翌年、我々家族が北朝鮮鎮南浦の疎開先から38度線を徒歩で越えて、母の里、山口県花岡に引揚げて来た時は、父の生死は不明であった。やがて父から「捕虜通信用」とロシア語と日本語で印刷された往復はがきが届き、父の生存が確認できた時の喜びは、未だに忘れられない快事であった。その後、父からの葉書は全部で11通届いたが、どの葉書にも居住地の記載は無かった。父からの葉書はしばらく途絶えていたが、昭和25年5月、下松市役所経由で父の「死亡公報」が届き、「陸軍少尉戸倉勝人氏は、昭和24年10月23日、ソ連、シベリア、ハバロスク14分所にて戦病死を確認」と記された「死亡公報」が届けられ、我々家族は悲嘆の底に叩き込まれた。
その後、母は女手一つで、幼かった姉と小筆、そして妹を育て上げてくれ、寡婦のまま81才で父の元に身罷った。

 母の死後、小筆は父の経歴とソ連抑留時の足取りを調べるために、母や親戚、父の友人たちからの話と自分自身の記憶を辿り、国会図書館の保管資料、一般出版物等を読み漁り、6年余りの追跡調査と裏付け資料で確認出来た結果を「朔北の影」と題して自費出版した。その中で、シベリアにおける日本人捕虜間で発生した醜い葛藤を知り、吹き荒れた「赤い嵐」に巻き込まれ、「極反動」とされた父たちの神々しくも惨めな生活と、「民主化運動」の美名のもとに利己的な醜態を繰り広げた浅薄な日本人捕虜の姿も垣間見ることで、やるせない想いに駆られたものであった。
 ソ連抑留中の父に関する事情は、20代後半までにはかなり理解していたつもりであったが、母の苦悩を思いやって意識的に父への言及は避けていた。しかし、実際に詳細を調べ始めてシベリア移送後の「民主委員会」とその手下のアクチブたちの「反動者」に対する理不尽で卑劣な取り扱いに憤りを感じ、「奴等に何とか復讐してやりたい・・・」と思い、古い新聞のコピーを調べた結果、彼らのほとんどが、昭和24年10月31日に舞鶴に引揚げていた。彼ら6百人余りは、「日本新聞」編集部員、各収容所で威を張った「民主委員」と「アクチブ」たちで、彼らの姓名と引揚げ先も調べた。

スターリンは、一方的に日ソ中立条約を破棄して参戦し、ポツダム宣言に違反して、満州、樺太、千島列島に居留していた日本軍人と民間人男性、60万人余りのすべてをソ連邦各地に拉致して強制労働に従事させ、五年余りの抑留期間中に6万人余りの日本人捕虜を死亡させる大惨事を起した元凶であった。
彼は、日本軍の降伏とともに、日本人捕虜を洗脳し、共産主義教宣のためにソ連政府国際部副部長イワン・コワレンコ赤軍中佐に日本語紙「日本新聞」を発行させた。この新聞は、教育程度が低くて世間知らずの若い捕虜たちの心を捉え、彼らの洗脳に役立った。それを利用したのが、戦前「治安維持法」で検挙されたり、特高に「ぱくられた」経験を持つ左翼思想嫌疑のインテリ兵士たちであった。彼らは、このレッテルをコワレンコに売り込み、日本新聞の編集部にもぐり込んで、同胞が苦しんでいる最中に飢餓と強制労働から逃避した。彼らはソ連に媚びるために「共産主義礼賛」と「スターリン崇拝」の記事を書き続けた。その上、自分たちの忠誠心を見せるために「前歴者批判」と称して、同胞捕虜の前歴を暴き、非道のリンチを加えて多くの同胞を死に追いやり、抑留中の将兵死亡に少なからぬ責任を有している。

彼らの中には、「チタの帝王」として日本人捕虜に君臨した袴田陸奥夫がおり、日本新聞編集長でシベリア天皇と恐れられた浅原正基、日本人捕虜たちに「スターリンへの感謝状」への署名を強制した日本新聞宣伝部長の高山秀夫がおり、編集部員、宗像肇、吉良金之助、土井裕助、矢波久雄、小針延次郎たちと彼らに躍らされた多くの若いアクチブたちがいた。彼らのすべては、この「24年10月末帰還グループ」に前後して日本に生還しているが、あれほど彼らが煽った「日本の共産主義化」実現への努力もせず、安穏とした庶民生活に戻った。日本政府は、彼らのシベリアでの非道を問罪していないが、残された遺族の怒りは決して消えるものではない。「父の死亡日」記録相違の謎も、10月21日にハバロスクを出発した彼らグループの「見越し報告」であり、父を死節に追い込んだ下手人たちである、とみている。

 生前、母が「あの人たちは、生き残るために自分をソ連に売り渡したのでしょうが、お父様は、我が家に相承する清和源氏以来の武士道貫徹のために、師道に殉じられたのだから、誰も恨んではいけませんよ・・」と諭された事があった。
 小筆、齢70を超えた現在、シベリアの扇動者たちを恨む心も癒え、憎かった彼らが幸せな人生を過ごしてくれただろうか・・・、と思えるようになった事を喜んでいる。

2010年10月3日日曜日

国難と憲法九条

やっとシドニーにも春らしい気候が戻ってきた。日本の酷暑に比べて今年の冬は、史上まれなる大降雨と蝗害、強風に襲われた一冬であった。オーストラリアの春九月、何が楽しみといっても、恒例の「カウラの桜祭り」に尽きる。
 22年前、日本庭園の完成により始まった二千本の「桜並木道」建設と「桜祭り」は、年毎に盛大になり、桜木は千本近く、桜祭りには毎年三千人近い参列者が集ってくれて、日本から寄贈された桜木と満開の桜花、それに加えて各種日本文化の紹介を多くのオーストラリア人たちが楽しんでくれている。小筆も日本からの来訪者と共に桜祭りを堪能して来た。

 この素晴らしい「桜祭り」に比べて、日本では憂鬱な事件が連続して、おちおちしていられない暗い気持ちでいる。その第一は、民主党の党首選であった。第二は、証拠改竄隠滅での主任検事、地検幹部の逮捕、その上外交問題にまで介入する検察への不信、第三は勿論、尖閣諸島海域への中国漁船侵犯船長の釈放問題と中国政府の対応である。

民主党党首選での小沢一郎敗北はグット・ニュースで大歓迎であった。彼のような皇室不遜、独断狭量、媚中、媚韓外交を臆面も無く繰り返し、日本の安全保障に関する国際感覚が全く欠如した上に、政治資金疑惑に塗れた人物が「日本国首相」に就任したら、日本の信用はおろか国家滅亡に繋がる舵取りをするに違いない、と確信していたからである。
公金である「政党助成金」累計29億円余りを長年にわたり巧妙に私用し続けてきた小沢一郎への疑惑は、素人の小筆でさえ充分に犯罪性を感じているのに、天下の検察が何故これを「立件起訴」しないのか、未だに疑問に思っている。その推測として、小沢の資金疑惑の「事情聴取」をした検事の一人に、元厚労省局長起訴時の証拠改竄と隠滅容疑で逮捕された元主任検事がいた事実である。四度にわたる事情聴取時に、検察と小沢議員の間で、何か「裏取引」があったのではないか、と疑問視している。それにも増して、70%以上もの国民に疑惑を抱かれている小沢一郎自身が、未だに公職である議員を続けていられるのか、本人の人格と良識も疑っている。東京第五検審の判定に期待する事、大である。

この小沢事件も頭痛の種であるが、それにも増して、国際法を無視した中国政府のアグレッシブで貪欲な「ごり押し」と領海拡大政策が心配の種である。
 近年中国の無法ぶりは目に余るものがある。チベット、新疆ウィグル、台湾、南シナ海の南沙諸島、西沙諸島、東シナ海の海底ガス田問題に加えて、「領海法」という国内法を勝手に定めて、他国の主権に属する「海域」を自国の領海としてしまう非常識と厚顔さが、今回の尖閣諸島海域での密漁問題に対する外交姿勢で顕著になった。中国は、政府までが「パクリをするのか?」と云うことである。中国は、始皇帝の漢民族統一以来、内政が安定すると、一貫して周辺諸国を侵攻してきた。「中華思想」の正体とも云える。現在の中国共産党もその例に漏れず、絶えず周辺諸国への侵略を繰り返してきた。

尖閣諸島海域は、江戸末期から島津藩の支配下にあり、明治12年に「沖縄県」が設置された上に、台湾割譲時に清国が「琉球の日本帰属」を承認して以後も、中華民国も、現在の中国政府も「日中共同声明」発表時に周恩来首相が承認し、鄧小平の訪日時にも、その帰属討議を棚上げせざるを得なかった海域で、250余年にわたり国際的に日本の実効支配が認知された日本固有の領海である。
その海域での中国漁船の違法操業で逮捕された船長の釈放を、こともあろうに外交儀礼を無視して深夜に日本大使呼び出して、再三にわたり釈放を求めるなど、とても国際常識では考えられない態度をとった事は、中国の国家的常識を疑わせるのに充分であるのに、それにかまけて、両国首脳の合意事項であった閣僚交流、青年交流のキャンセル、その上、日本人駐在社員の報復的な逮捕まで加えると、中国が自国の経済力と伸張しつつある軍事力を背景にした圧力で周辺諸国のみならず日本まで恫喝し始めた、としか思えない。
なにしろ、共産党政権を樹立するために三千万人余り、権力闘争のために文革を起こし二千万人以上、自由を求めて天安門でストを張った学生集団に「人民解放軍」の戦車部隊を投入して、平気で自国民を殺戮し、友邦であったはずのベトナムに武力侵攻さえしてきた中国政府である。「何を仕出かすか分からない・・・」と云うのが正直な話である。
小筆は、第二次世界大戦直前、ヒトラーが英国のチェンバレン首相を三度も自国に呼びつけ、チェコに属するズデーデン地方のドイツ併合を認めさせた上、ポーランド侵攻に踏み切った史実を思い出さざるを得なかった。
「中華思想」を信奉する中国人の本性は、「弱者へは居丈高に威圧し、強者には遜る」のが歴史上繰り返してきた民族の性癖である。日本政府は、彼らの民族性を良く理解して対応する必要がある。

 そこで小筆の心配事は、憲法九条の「不戦条項」である。この条項は、日本国から発動する「戦争放棄、軍備および交戦権の否認」であって、他国からの主権侵害から「国家主権と日本国憲法を守る」ことは「平和の内に生存する権利」の範疇であって、「崇高なる理想と目的を達成する責務」の中に存在しているものである。
この不戦条項の前提として、憲法前文二項に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」、「平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と記されているが、この九条はあくまでも「周辺諸国の国際法遵守」を前提としたもので、決して日本国への「主権侵害」を黙視する条項ではない。
日本国政府も日本国民自らも「国家の主権」と「国民の安全」を守る崇高な義務があり、他国からの主権侵害には当然武力を行使しても断固として立ち上がる「権利」がある。「自らは、決して対外侵略はしないが、日本への主権侵害には戦争も辞さない・・・」、この決意表明と体制、それを支える「軍備の充実」に努めることが、すなわち「第九条、不戦条項」を守ることである。

 我々日本国は、第一次世界大戦以後、太平洋戦争の敗北まで「軍部独走」という苦い経験を得て、この九条の「不戦条項」に到った経緯を持つ。しかし、戦後65年間の「国際法遵守」と「国際貢献」は、日本と日本人の「平和遵守国家への変身」を充分に表明し、証明してきたと確信している。
 それに反して日本の周辺諸国は、この日本の自浄努力を認めるどころか、九条の「不戦条項」を良いことに、日本国の「主権」を侵し続けている。ロシアの北方領土、韓国の竹島、北朝鮮の日本国民拉致、中国の尖閣諸島の領有権と大陸棚領有説を理由にした経済領域拡張、台湾の尖閣諸島の領有主張、等々、彼らにとって、日本の「不戦条項」はまたとない「安全弁」である。ただ彼らの主張が拡大、実行されないのは「日米安全保障条約」と「米軍基地」が沖縄を含む日本各地に存在しているからであって、日米安保はまさに「日本の生命線」である。

 近年中国の異常な軍拡と自国権益への主張は、日本が自らに課した第九条の「武力による威嚇」と「国際紛争を解決する手段」としての「武力行使の否定」に抵触し、憲法前文三項の「自国の主権を維持し、他国と対等な関係に立とう」とする日本の責務にも対立する行為である。
 戦後日本は、「太平洋戦争の贖罪意識」から自らの主権の意義を亡失し、因って立つ「国家主権防衛」の責務さえ消失してしまった。
 今回の「中国のごり押し」事件を契機に、日本国民全員が「国家主権の意味」と「国防意識の貫徹」を再認識して、国家防衛のために「生命を捧げる国民」、すなわち自衛隊に憲法上の「正当なる地位」を与えるべく憲法九条二項の改正をして、「日本国家」の安全と持続のために何をしなければならないか、と云う「重要主題」を国家的争点として盛り上げ、万機公論を尽くす必要に迫られている。

 小筆は、シベリアで非業の死を遂げた父の「61年忌供養」のために、今月15日から18日まで、三度目の「ハバロスク墓参」をする。墓石もない荒涼とした墓地跡に日本酒、線香、ローソクと肴を捧げて一人で座り込み、久々に父との「心の交感」を楽しみにしている。日本が太平洋戦争さえ起こさなければ、「父も死ぬことは無かったのに・・・」と、未だに「悔恨の思い」を持ち続けている。

2010年8月14日土曜日

8・15の憂鬱

6月26日から一ヶ月、酷暑の日本へ行って来た。所用を済ませた後、JR Passを使って四国を一周した。
四国南西端の宿毛湾沖は、69年前、太平洋戦争勃発の直前、日本海軍の空母群がハワイの真珠湾に停泊している米国海軍の主力戦艦群を殲滅するため、艦載機の猛訓練をした場所であり、南東端の甲浦は、戦争末期、日本列島東岸の太平洋を我が物顔に遊弋した米軍機動部隊から飛来した艦載機群とサイパン、グアム島を飛び立った「空の要塞、B29」が、日本全土で無差別爆撃と機銃掃射を繰り返した時の通過地点であった。そんな理由で、以前から一度は眼にしたいと願っていた土地であった。 
平和で長閑な四国巡りの随想とは、前大戦のことであり、戦後日本の姿であった。

 昭和14年9月、欧州での第二次世界大戦はドイツ軍の攻勢で始まり、それに刺激された日本陸軍は「バスに乗り遅れるな・・・」とばかりに、なんら国力への配慮もなしに、16年12月8日、対米英蘭豪との開戦に踏み切った。日中戦争の帰趨も不明な折に新たな戦線を開くなどという事は、素人にも判る不条理で理解不能な「戦理」であった。しかし「緒戦の勝利」に、陸海軍首脳のみならず、日本国民までが酔い痴れて、果てしない戦線の拡大に没頭していった。17年6月、海軍は虎の子の空母4隻をミッドウェー海戦で失い太平洋での覇権を失った。しかし海軍は「不沈空母」という不可解な名目で、南太平洋諸島に陸戦隊を上陸させて、次々と航空機基地を建設していった。陸軍も補給さえ困難な遠隔地の無数の島嶼群に部隊を派遣して守備に当たらせた。
しかし攻勢を取り戻した米機動部隊は、日本軍の島嶼守備隊の頭越しに戦線を押し進め、19年7月にはサイパンを落してB29の基地を建設し、日本全土の「焦土作戦」を開始した。
 太平洋を北上してくる米軍を防ぐ手立てを失った日本軍は、「特攻作戦」という「邪道作戦」を採用して、6千人に近い若者を死に追いやった。20年4月には沖縄が陥落したが、軍部首脳は「本土決戦」を呼号して本気で竹槍まで用意した。しかし、8月6日と9日の原爆投下は日本の継戦意欲を奪い去り、天皇の聖断により降伏した。

 これが開戦から敗戦に到る惨禍の過程であるが、小筆が四国周回で考えた事は「なぜ日本人は、軍部の独走を抑えられなかったか・・・」という疑問と、戦後、未だに展開されている「言葉のまやかし」と「融通無碍の非常識」とであった。

 「私見を述べずに、強弁に迎合する」、「長い物には巻かれろ」等が、日本民族の特性で、重大な欠陥である。開戦に到るまでの国民の「軍部支持と熱狂」がそれであり、敗戦を契機に、国民全体が「反戦思想」に傾き、戦時中、軍部に迎合した人たちまでもが「職業軍人」のみならず「召集兵」にいたるまで、すべての参戦者を「戦犯」扱いにして差別したことであった。シベリアに強制収容された日本軍捕虜の一部は、ソ連軍に迎合して「意識的に洗脳」されて捕虜収容所内の権力を握り、同調を拒否した日本人同胞を「反動分子」として過酷なまでの扱いをして多くの死者をだした。
 戦後の日本政府は、連合軍の「押付け憲法」を何の批判もせずに受け入れた。それが「第九条の不戦条項」である。世界の何処に「自国の防衛」を自ら放棄している国家があるだろうか? その上、「軍隊を持たない」はずの日本が、世界でも上位九番目に入る強力な自衛隊を保持している。
国軍を自衛隊、歩兵連隊を普通科連隊、砲兵を特科、工兵を施設科、将兵の階級でさえ「大佐を一佐、少尉を三尉」と国語辞典にも出てこない日本語を使っている。
「非核三原則」なるものを議会決議しながら、平気で米軍の「核の傘の下」で安逸を貪っているのみならず、国際法に則って合法的に締結された被占領国との「和平条約」と、膨大な「戦時賠償金」を支払って清算したはずの「太平洋戦争の傷痕」を、戦後歴代の首相や国会議員たちがアジア各国を訪問する度に、前大戦時、たった四年間弱の占領期間を「日本の侵略」として謝罪し続けてきた。その後も何か問題が発生する度に、地元政府が驚くほどの経済援助を提供し、外務省はODAなる「開発支援資金」を無制限といえるほど与え続けている。中国などは、今までの援助総額が一兆円を遥かに越えているのに感謝の言葉ひとつ無く、国家に殉じた将兵を慰霊する「靖国神社参拝」を批判し続けて、未だに政府主導と思われる反日活動は止まる所を知らない。

欧米のアジア植民地支配は350年近くに及んだが、どの国の首相が自国の植民地支配を謝罪したであろうか? 良い例が香港返還時に、バッテン総督が「英国は、香港住民に近代文明を伝授した・・・」と誇らしげに発言したと云われている。
 欧米社会では、「謝罪」とは自らの罪悪を認める事であり、その謝罪には当然、金銭的な「補償」や「処罰」が付随している。だから英国もフランスもオランダ、スペイン、ポルトガル、アメリカでさえも、自分たちの植民地支配を絶対に謝らないのである。
先日、広島の原爆慰霊祭に出席したルース・アメリカ大使が「謝罪」しなかったのは「けしからん」とマスコミが記事にしていたが、彼は当然の事として、自国の「原爆投下」に罪悪感を持っていない。従って「謝罪する」気持ちなど微塵もないのであろう。それが世界の常識であって、日本人の「謝罪癖」が異常なのである。

テレビのニュースでは、毎回どこかの会社の首脳陣が雁首を揃えて謝罪する姿が映し出されるが、誠に不思議な光景である。それが証拠に、JR宝塚線の脱線事故で謝罪したトップたちが、唇が乾く間もなく、事故調査委員を篭絡しようとさえした、と報道されていた。要するに、日本人の「謝罪」とは、その場逃れの便法に過ぎないのである。

 先日のニュースには驚かされた。管首相が、日本の「韓国併合百年」にあたり談話を発表した内容であった。新聞記事によると、その内容は「多大な損害と苦痛を与えたこと」と「国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけたこと」に「痛切な反省と心からのお詫びを表明する」と公表した。管直人が個人的に遺憾に思うことは自由である。しかし「日本国首相」としての発言は、全く意味が違う。日韓の間では1965年に「日韓基本条約」が締結され、「無償、有償、民間借款」等で、当時の韓国国家予算の三倍近くにも及ぶ合計8億ドル余りの賠償金を支払ったことで、両国間に横たわる問題の「すべては解決済み」であった。
36年間弱の日本の朝鮮半島支配は、五世紀以上にわたった清国支配と帝政ロシアの半島侵略意図に起因する。当時の半島は、現在の北朝鮮以上の惨状にあり、積年の陋習で疲弊しきった李王朝から朝鮮民族を救済する目的もあった。併合後、日本の半島への投資は、国内の法整備、インフラ建設のみならず一般教育の普及から公衆衛生の充実、税制、農政改革から産業投資にまで及び、半島全域の様相を一変させた。台湾の行政と共に、人類史上最も成功した異民族統治であった、と見ている。

確かに「異民族の支配」を受けた人たちの屈辱感には同情出来るが、「併合」以前、李朝が抱えていた「国家的危機と国民の惨状」との比較なしに「日本の植民地支配」のみを論じても意味が無いし、それ以上に、現時代の「社会常識」をベースに百年前の事象を批判したり謝罪したりする事こそ無意味である。
敗戦後の日本は、韓国との国交回復以来、莫大な経済援助を続けて韓国の経済的自立を支援した。その支援には、当然のことながら「植民地時代の無言の贖罪」の意味が含まれている。その解決済みの問題を、管首相は自ら蒸し返そうとしている訳である。「謝れば済む」との考えは、諸外国の常識からすれば、将に「詭弁を弄して、相手を愚弄する・・・」ことに他ならない。

 太平洋戦争の功罪は、積年の「アジア植民地の解放」と「それらの国の独立達成」であり、他方では、今まで彼らが手にした事もない多額な戦時賠償金を日本から貰ったことにより、新興国、政権首脳部の涜職を招いた事実であった。
 以前、村山首相がマレーシアを訪問した際に、マハティール首相に謝罪をしたら、「日本は悪いことばかりした訳ではない・・・」と云われてびっくりしていた、との記事を読んだことがある。日本人は、前大戦のトラウマから脱却し、「まやかし言葉」の乱用を廃して、確個たる自信を持って国際社会と対面する必要がある。
 日本では8月15日を「終戦記念日」と他人事のように呼び慣わしているが、外国では、すべてこの日を「対日戦勝記念日」と呼んでいることを付記しておく。

2010年6月20日日曜日

太平洋戦争について

今、カウラを中心にした日豪関係史を「カウラの桜」と題して執筆している。
大航海時代の末期から始まったオーストラリアと現代に到る日本の関わりが中心である。これを書くにあたっては、どうしても避けて通れないのが日清、日露戦争以降、太平洋戦争の敗戦に到る日本人軍事官僚の思考過程である。
 
明治維新を成し遂げた近世日本は、欧米列強に飲み込まれないように最大の努力をしてきた。いわゆる国政の近代化であり富国強兵政策であった。よちよち歩きの日本が最初に係わった外征が「台湾出兵」であった。宮古島の島民60余人が沖縄への航海途上で台風に遭遇して台湾北部に漂着した。牡丹社部落の原住民が彼らを虐殺したので、日本軍が遠征して処罰した事件であった。その後、朝鮮半島の独立を巡って、清国との勢力争いが拗れて日清戦争が起きた。下関での講和条約締結の結果、日本は台湾、澎湖諸島と遼東半島を手に入れたが、露独仏による三国干渉により遼東半島の割譲を放棄させられた。その理由は、「東アジアの平和のため云々・・・」であった。彼らに抗する力が無かった日本は、涙を飲んで臥薪嘗胆し、国力、軍事力の蓄積に努めた。
しかし三年も経ずして、この三国と干渉を傍観した英米は、清国から遼東半島、威海衛、九竜半島、広州湾、等々をそれぞれが租借していった。
その後日本は、朝鮮半島まで飲み込もうとしたロシアと開戦、南満州と日本海で激戦を繰り広げて、辛うじて勝利を手にした。日露戦争の戦果としては、樺太の南半分と満州での権益を手にした。
この戦争までは、どう見ても「日本の国運」を賭けた自衛戦争であったが、期待以上の「おまけ」が付いたと云える。それが理由かどうかは判らぬが、その後は、太平洋戦争に負けるまでは、どう贔屓目に見ても日本の「侵略戦争」であった、としか云いようがない。

日露戦争までの日本の政治家と各軍司令官たちは、すべて明治維新戦争の体験者であり、欧米列強からいかに祖国を守るかと脳漿を搾った人たちであったが、彼らをサポートした若い参謀たちは、維新後に近代軍事学を修めた秀才たちで「日本の国益」に対する思考に温度差があった。
 この後、日本は朝鮮を併合したが、5年後に起こったのが第一次世界大戦であった。連合国の一員となった日本軍は、青島、膠州湾のドイツ軍と交戦して占領、山東半島とドイツ領中部太平洋諸島を併合した。この大戦の最中、日本政府は中華民国に対して「対華21カ条文書」になるものを突きつけて、ドイツ権益の継承のみならず中華民国の主権に関わる無体な要求を突きつけて山東半島全域に進駐した。
 
どうも、この頃から日本の対外政策が怪しくなってきた。明治維新の苦労を知らない新世代の軍人たちの登場に関係があると思われる。
 彼らの頭の中には、「日本は戦争をすれば必ず勝てる」という誤った信仰のようなものが生まれていたらしい。台湾外征、日清、日露戦争、北進事変、第一次大戦、シベリア出兵、と一連の戦勝ムードが続き、その度に日本の版図を広げてきたために、高級軍事官僚たちが日本の軍事力を過信したに違いなかった。その過信と天皇のみが持つ「統師権」を軍事官僚が乱用することで、満州事変を起こし、北支事変、日中全面戦争、そして米英豪蘭相手の太平洋戦争に負けるまで続いた。 いわゆる「軍部独走」が始まり、政府が陸海軍をコントロール出来なくなったのである。満州事変も日中戦争の理由も、「暴支よう懲」(生意気な中国人を懲らしめる)であった。その後も、中国大陸侵攻に反対された天皇に「今、兵を引けば、今日までに戦死した英霊に申し訳が立たぬ・・・」と云うものであった。他人の国に勝手に攻め込んで行って、相手が反抗したから生意気であり、軍を引けば、戦死した自軍の将兵に申し訳がない・・・、というのであった。

中支那派遣軍司令官、松井石根大将は、士官学校次席、陸大首席で卒業した優秀な軍人であり、蒋介石の友人で中国通としても知られた人物であった。彼でさえ、「南京を陥落」させれば蒋介石は降参すると確信していた。しかし実際は、南京陥落の後、蒋介石は重慶に移り抗日戦を続けた。「何処で矛を収めるか・・・」と云う判定基準もなく、勢いに任せて奥地へ奥地へと兵を進めたのが日中戦争であった。 同じことが太平洋戦線でも起こった。何処まで占領したら休戦交渉に入るのか? と云う「戦の原則」を軍首脳が理解していなかったのだと思う。戦争開始に当たり、彼ら軍幹部に確固たる「国家戦略」があった訳ではなく、ただただ勝ち戦さにのって「戦術的」にだらだらと軍を進めて行ったに過ぎなかった。
陸軍参謀総長であった杉山元陸軍大将が対米開戦の意図を天皇に奉呈した時、「中国相手に苦戦しているのに、その上アメリカまで相手にして勝算はあるのか?」と下問されたらしい。常識として、当然の下問であった。杉山は、「中国大陸は奥が深こうございますのて゛・・・」と応答したら、陛下はすかさず「太平洋はもっと奥が深いではないか・・・」と怒りをあらわにされた、との記録を読んだことがある。戦勝に奢った陸軍の常識とはこの程度のものであったのだ。

 緒戦の華々しい勝利に、大本営のみならず国民全部が酔いしれて、戦争の本質を見失った。「聖戦完遂」、「アジアの植民地解放」を掛け声に、果てしなく戦線を拡大し、貧弱な装備しかない将兵を、補給も困難な太平洋各地に散在する諸島やアジアの遠隔地に送り込んだ。
 政府は、頭脳明晰でもっとも優秀な青少年たちのみを選んで陸軍士官学校と海軍兵学校で学ばせ、その中でもっとも優秀な生徒を陸大、海大で学ばせて、超優等生に戦争全般の指揮を取らせた。その彼らの中でも、せいぜい15名か16名の選らび抜かれた作戦参謀たちが東京の大本営作戦本部で、満州と中国、アジア諸国、南太平洋全域、アリューシャン列島にまで展開した6百万人に近い将兵を動かした。
「将兵の本分」は戦うことにある、しかし彼らの作戦地の決定と軍需物資、食糧等の補給は、当然大本営の責任であった。充分な食糧と豊富な銃砲弾があってこそ将兵の奮戦が期待できるのであって、その補給が続かない地域に軍隊を投入することは狂気の沙汰であった。その作戦を司ったのがエリート中のエリートたちであったのだから何をか云わんや、である。彼らにとって、「将兵の生命」はいかほどの価値があったのか? 彼らの思考方法は、今では想像することも出来ない。

ガダルカナル作戦では、3万6千余の将兵を投入し、戦死が2万5千6百人を数えている。その内、餓死と病死が1万5千人を超えていた。 インド侵攻を目的としたインパール作戦には、厳しい熱帯山岳地帯に9万2千人余りの将兵を投入したが補給はゼロであった。その結果、7万8千人以上の戦死者を出した。もっと酷いのは、作戦目的さえ不明な北部ニューギニアに投入された40万人以上の将兵は、一度の補給も受けることなく、昼なお暗い熱帯のジャングルを彷徨させられたあげく、3万人余りの生存者を残して消滅した。サイパン、硫黄島、その他の諸島では玉砕が続いた。国内は空襲で焼け野原にされ、とどのつまりが広島と長崎の原爆の投下であった。 

満州事変から太平洋戦争の敗戦までの14年間、日本は八百万人以上の将兵を動員、六百万人余りの将兵を海外に派遣して、その内、約240万人が戦死した。その間、国内への空襲、艦砲射撃等で死亡した民間人は、80万人を超えている。 人口9千万人といわれた当時の日本人の内4%近くが犠牲になった。敗戦直前の政府は、国家財政の9倍に近い借金を抱えていた。 国内の主要都市のすべてが空襲で破壊されて焼け野原になり、国内の産業はすべて破壊され、経済活動のすべてが停滞していた。
この惨禍の原因を作り出したのが、「最優秀」であったはずの日本軍高級官僚たちの「恣意」であった。

 敗戦後、最初の国会で、最後の陸軍大臣下村定大将が、敗戦まで暴走し続けた帝国陸軍を代表して、国家と国民に謝罪した。連合国は、ABC級戦犯裁判で日本軍人と民間人若干の「戦争犯罪」を追及し、千余名の刑死者と7千余人の有刑者を出して「日本の戦争責任問題」に決着をつけた。しかし日本は、国家としても国民としても、この凄さましい惨禍をもたらした一部軍人官僚の責任を問わなかった。 彼らは戦後も生き残り畳の上で天寿をまっとうした。この残滓が現代日本の官僚、特に高級官僚の無責任で独善的な体質に継承されているに違いないと思っている。
 奇しくも、現在の日本国の借金が年次予算の9倍で、あの凄惨な大戦争を遂行した時の借金と同じ倍率である。平和時にこれだけの借金を作って平気な顔をしている政府と政治家たちは、まさにA級戦犯なみの罪科を犯しているのではないだろうか?

 戦後65年、あの太平洋戦争を体験した日本人も年々減少、歴史上の事件としてしか捕らえられなくなってきている。8 月15日の終戦記念日をまじかに控えて、また訪日する。今回も靖国神社に参拝するが、改めて前大戦の意味を考えて見たいと思っている。

2010年5月27日木曜日

誰が日本を守るのか?

 明治24年6月、清国の北洋艦隊6隻が長崎、馬関(下関)、神戸と横浜に来航して、日本全土を騒然とさせた。彼らの旗艦「定遠」と二番艦「鎮遠」は7,144トンの姉妹艦、主砲は共に30.5センチ口径2門。当時、日本の最大軍艦は、巡洋艦「高千穂」と「浪速」で、共に3,600トン, 主砲は26センチ砲2門、日本唯一の艦隊であったが、清国は同じ編成の艦隊を4セット所有していた。往時の各国海軍の戦力は、「装甲の厚さ」で決まるトン数と主砲の口径が、「防御力」と「破壊力」を意味していて、その艦隊の絶対的な威力を現していた。トン数の少ない軍艦は、重装甲の敵艦には絶対に「勝てない」というのが世界の常識であり、超ど級戦艦は「砲艦外交」の主役でもあった。
清国は50年前、「アヘン戦争」で英国に敗北して以来、欧米列強の侵略を受けて、沿岸部は彼らの植民地でズタズタに蚕食され、国内は反政府運動で騒然としていたが、日本から見ると「とんでもない大国」であった。
明治維新を成し遂げた日本は、未だに欧米列強の侵攻の外側に位置していたとはいえ、貧乏極まりない「小さな新興国」であった。その日本が、李王朝が五百余年にわたって支配していた「大韓帝国」の宋主権を巡り清国と紛糾していた。清国はこの日本を威嚇する目的で北洋艦隊を派遣した。上陸した水兵たちは、傍若無人の限りをつくして、制止に入った日本人の巡査には死者さえでた。
日本では、維新の戦乱を潜り抜けた伊藤博文総理も含めて国民全部が、艦隊の威容と水兵たちの狼藉に接して恐慌をきたした。しかし、東郷平八郎を始め海軍幹部は、清国艦隊の幹部士官がお雇いの英国人であることと、乗員たちの「規律と志操」の緩み、「錬度の低さ」を見抜いて日本艦隊の勝機を予測した。

三年後に勃発した日清戦争は、明治日本の国運を懸けた最大の賭けであった。しかし、日本海軍はこの弱小艦隊群を率いて、不屈の練成結果と知略に長けた戦術をもって北洋艦隊を破り、陸軍は北朝鮮、満州各地で連勝し、最後は陸海軍が連携して北洋艦隊の母港である威海衛を陥落させて勝利を収めて世界を驚かせた。
北洋艦隊の司令官であった丁汝昌提督は、この敗戦と腐敗しきった母国、清朝の末路を悲観して毒を仰いで自決した。提督は文武両道に秀でた高潔な軍人として日本海軍にも多くの盟友を持っていたために、多くの日本人からも哀悼の意が表された。

さて、現在の日本の防衛に関してである。第二次大戦で敗北した日本は、「牙を抜かれた狼」になっただけではなく、世界が見えない「羊」になってしまった。
この牙とは、「物理的な力」ではなく「精神的な力」である。「世界が見えない」とは、「平和ボケ」であり「国防意識の亡失」を意味する。戦後教育の欠陥、「自虐史観」から、日本人は「自国の防衛」について考える力を失ってしまった。「平和憲法があるから日本は安全である」とする的外れな考えは、周辺国にとってはこの上もなく都合の良い憲法ではあるが、日本にとっては危険極まりない国家基本法である。
多くの日本人が「日米安全保障条約」は、米国のための安全保証であって、この条約が双務協定であるという現実を考えていない。その証拠が、今回の沖縄の米軍基地の問題である。ようするに「集団的自衛権」の意味を理解してないのである。米軍基地の県外移転、国外移転等を標榜する日本人グループは、日本を取り巻く危険な国際環境を意識していない。沖縄の米軍基地は日本の安全のみならず、東アジア、インド洋、アフリカ、中近東の安全と平和に貢献している。
イランの核装備は、日本経済の生命線である中東石油資源の供給を脅かしている。中国の果てしない軍拡は、海洋戦術にしか用の無い潜水艦隊の拡充と戦略目的不明の空母さえ建造中であり、もちろん性能を向上させた各種ミサイルの保有量は自国防衛の範囲を遥かに超えている。その中国が、世界各地のエネルギー資源と鉱物資源の占有を目指して膨大な外貨を投入していて、尚且つ尖閣諸島と東シナ海の海底資源までを独占しようとしている現実を考えると、「日本の防衛」のあり方が当然理解出来るはずである。   
オーストラリアも例外ではない。現在、中国企業の豪州最大の鉄鉱石開発会社の株の買占めで、政府を含めて大揉めである。しかし問題はこれだけでは無い、より危険な兆候は、中国共産党の独裁政権が過激な軍事官僚群に乗っ取られようとしていることである。かつて日本が体験した「軍部独走」の可能性さえ予測できる。チベットや西域の少数民族を呑み込み、植民地化してきた中国が、次に何をしようとしているのか?日本人の誰が、この問題を真剣に考えているだろうか? 友愛精神しか持ち合せていない鳩山首相は、総理になって初めて「米軍海兵隊の抑止力」を覚ったようであり、連立政権の社民党は、未だに沖縄に置かれた「米軍基地」の意味さえ理解してないのである。
以前、米軍基地を撤退させたフィリピンが、数年を経ずして自国領であった「南沙諸島」を中国に掠め取られた現実を知るべきである。

 日本は、「日米安全保障条約」の絶対的継続と「自主防衛力の拡充」、それに加えて国民の「国防意識の涵養」に早々に着手すべきである。そのためには、国家の基本法である「憲法改正」も必要であり、自衛隊を明確に国防軍に昇格させると共に、緊急事態に備えた国内法の整備も併せて早急に実行する必要がある。
 そのためには、小中高校から大学を通じて、一貫した「国防教育」と「軍事教練」の実施が必要であり、徴兵制度の導入と予備自衛官の増員も必要であろう。その上で、「核兵器」以外の究極兵器の開発を推し進め、兵器産業の振興を図るべきである。わが日本は、かつて下瀬火薬やゼロ戦を、戦後は、エザキダイオードや新幹線を、今は「ハヤブサ」を宇宙の果てに送り出して回収する最先端技術を持っている。これらの技術力と日本人の頭脳を最大限利用すれば「国家防衛の最新兵器」の開発が出来ない訳がない。要は政府首脳の決断次第である。各種兵器のコスト低減を図るために、「武器輸出」を政府許認可制度の下に認める必要もある。世界各国が精巧で高性能な日本製武器を求めているので、これらの輸出により国防費削減は、必ず実現するはずである。徳川幕府の鎖国が日本の軍事力の近代化を著しく阻害した事実と、日本の敗戦後、連合軍による「航空機製造禁止」が戦後65年経過した現在まで日本の航空機産業の立ち遅れを招いている現実を知るべきである。
 「民族自治」と「自主独立」は国際社会の常識であり、各国が等しく認めるところである。日本が「専守防衛」を前提とした国防力の充実を図って悪いはずが無い。

 この政策転換には、近隣諸国からの反撥は当然起こる。しかしこれは、あくまでも「日本の内政」問題であり、国家の安全を守るために絶対に必要な改革である。日本が「海外侵略の意思」を持っていないことを近隣諸国に納得させれば済む問題である。日本が「専守防衛」に徹しながら「抑止力の増強」に努めるのは、イランの核武装、中国の軍拡、北朝鮮の暴挙が予測される現在、当然採るべき手段であり、仮想敵国との「戦力均衡」これこそが平和維持の根本でもある。今、日本政府が「国防問題」に真剣に取り組まないと、近い将来、日本が中国に飲み込まれてしまう可能性さえある。
 「非核三原則」も「平和憲法」も理想としては結構だが、それよりも何よりも「日本が生き残ること」が大前提であり、自主防衛が確立されていてこそ「意味のある」制度となり得よう。

 今回の北朝鮮の魚雷攻撃事件で、李明博大統領のコメントを聞いた。「不当な国権侵害には、自衛権を発動する」と、朝鮮戦争で多くの犠牲者を出した上に、国土全部を焦土化された韓国民の血の滲んだ体験からの発言には、感動さえ覚えた。
果たして、今の日本にこれだけ明確に「国土防衛」について確固たる発言が出来る総理の出現を期待出来るであろうか?
 日本の安全は、他国に頼るのではなく、我々日本人自身で確立する覚悟が必要である。

 シドニーは秋、今日も冷たい雨が降り続いている。その雨を眺めながら、遠い祖国の安泰を祈らざるを得ない。頼りない政府が、母国に与える災難を如何に排除できるか・・・と、心休まらない日々が続いている。

2010年5月7日金曜日

どうする日本!!

 一ヶ月間の訪日を終えてシドニーへ戻ってきた。日本では、東北、中国地方、九州を歴訪、各地の美しい自然とその中で暮らす人々の豊かな生活を垣間見て、これほど美しい国があるだろうかと、ほとほと感心した。鹿児島を初めて訪問したのも「知覧特攻隊基地」跡に興味があったからである。記念館には、日本の未来を信じて散華した436名の殉死将兵の写真と遺書、遺品等が展示されていた。全員若い将兵ばかりで、彼らに特攻出撃を下命したと思われる高級将校たちの遺影はなく、多分彼らは戦後も生存し続けたのであろう。この事実に思い至った時、民主党の党首と幹事長が、自分の秘書たちの有罪が確定しても、「知らぬ、存ぜぬ」で頬被りをしたまま今日に至っていることを思い出して、卑しい人間のエゴを覗いたような厭な気分になった。英語世界で使い分けされている、[Statesman] (理想の政治実現のみに専念する真の政治家)と、[Politician] (自分の利害だけを追求する政治屋)の違いをまざまざと見せ付けられた思いがした。

今回は、「日本の常識」が「世界の非常識」であることについて述べる。

 現在の日本は、まさに政治的な危機状況にある。国家主権が侵され、末期症状的な財政赤字を抱え、教育の荒廃に直面し、少子化問題解決の糸口さえ見えず、国防問題が危機に直面し、食糧の自給自足率の低下が心配され、その上、毎年三万人を越える自殺者が続出している。これらの異常な「非常識」的な現実が、日本では「常識」として安閑と看過されている現状を憂いている。

小筆が観るところ、前政権も現政権もこれらの「非常事態」とも云える「非常識」な現況を認識する様子が全く見られず、何ら具体的な対策を講じようともしていないのみならず、「危機感」さえ感じていないらしいのが最大の「国家の危機」かも知れない。能天気に高給を食み続け、票田持続に汲々としている722人の衆参両議院議員たちと内閣閣僚たちは、一体全体何をしているのか? 我が祖国、日本には真の「ステーツマン」はいないのだろうか? 心配の種は尽きることがない。

「国家主権の侵害」とは、ロシアによる北方四島、韓国の竹島の不法占拠であり、北朝鮮の日本人拉致である。それに加えて、中国と台湾による尖閣諸島への触手と日本の経済水域に属する東シナ海の海底ガス田の不法採掘準備がある。どの一つを取り上げても、重大なる国権侵害であり、これに勝る国難はない。これらのすべてが、国家を挙げて解決に当るべき事態ばかりで「憲法第九条」に拘る以前の問題であり、「国家存続」に関係する重大事である。
戦後の歴代政府が国家主権の尊厳を自覚して、この問題に明確な危機意識と問題解決への真摯な対応を続けていれば、関係各国も日本の決意を覚り何らかの応対をしていたはずであつた。ロシアに関しては、不法占拠を訴えるばかりではなく、利害をもって説得する方法もある。 たとえば、欧露で貧困に喘ぐロシア国民を東部シベリアに移住させて、朝鮮半島、中国東北地方(旧満州国)と日本全域を含めた「環日本海経済圏」構築を提案してロシアの財政危機を緩和してやり、その代価として北方四島の返還を求める方法だってある。竹島を自国領と主張している韓国には、経済断交をしてでも「国際司法裁判所」に引っぱり出すくらいの断固たる態度で臨むべきであり、北朝鮮には「偉大なる首領様を戴く人民の楽園」に、総連系在日朝鮮人全員をお返しして、その代償として拉致被害者全員の送還を要求する。東シナ海問題に関しては、止めなく軍拡に邁進する共産党独裁中国は、政府役人の汚職と利己主義に走る人民の貧富の差によって重大な難局に直面している。中国の民族的本質である「中華思想」は、弱小少数民族の併呑と搾取によって成り立っている。「相手弱し」と見た場合は、歴史的にもいつも居丈高になり、絶えず侵略を繰り返してきた。それに対応する唯一の手段は、強力な「非核兵器」を開発して「主権侵害には断固とした対応策」を取る、という強固な姿勢を示ことである。これくらいの度胸のある太っ腹で知略に富んだ首相がいてしかるべきあった。しかし、日本政府の軟弱で曖昧模糊とした事なかれ主義的な態度が、「現状の固定化」を促進してきた事実は歪めない。この政府の対応に国民までもが惑わされ、現在では「国家主権」の何たるかの意識さえ亡失してしまって、未来展望が全く見られない日本に成り下がってしまったままでいる。これこそ世界の「非常識」であり、天を仰いで嘆息する以上に悲しむべき現実である。
「財政赤字」は国家としての最大の危機である。この問題に関して国民の誰もが等しく危機感を抱いているのに、歴代政府の放漫財政と人気取りの「ばら撒き支出」とに歯止めが掛らない。この結果責任を一体誰に取らせるつもりなのか?「入るを計り、出ずるを制す」、この簡単な「家計簿の原則」を平気で無視して、赤字補填策として消費税増額を平気で口にするポリティシャンたちの安易な思考には驚かされる。この財政破綻状況にあっても、国政、県政、自治体レベルで高給を食み続ける議員たちは、議員定数削減と議員歳費、議員報酬の改定に無関心である。衆参722議席、都道府県議員2,784議席, 地方議員62,024議席のすべてを半分に削減するだけで天文学的な経費削減が可能である。各級議会の政策審議などは、議員数半分でも充分に機能するはずである。議決の後は、掃いて捨てるほどいる官僚たちにその実施を任せれば良い。「財政赤字のつけを子孫に廻す」、この破廉恥厚顔な行為を「常識」として通してきた歴代政府とポリティシャンたちの無責任な態度に憤懣を覚えざるを得ない。民主党の「事業仕分け」も「議員定数の削減」と「歳費と政務調査費」の仕分けから始めれば、内閣支持率も1%くらいは上昇していたかも知れない。因みに、オーストラリアの市町村議会議員は、すべて議員報酬はなく、「時間給」で議員として働いた時間にのみ手当てが支給されている。人口6万人余りのある市議会の議員定数は、市長、副市長を含めて15人、全員自分自身の職業を持っていて、昼間は自分の職場で働いているので、議会はすべて夜間に招集されているのが実情だが、みんな立派な行政を行っている。
日本のある人口4万人弱の市は、市長の他に25名の市議会議員がいて、全員月給制でボーナス、政務調査費まで支給されていて、その上「議員年金」まで用意されている。彼らの仕事の大半は、年五回の定例議会に出席して居眠りをするくらいしかないのにだ・・・。衆参両議会、都道府県議会も同じようなものであろう。
「教育の荒廃」は、すでに二度にわたり私見を述べてきたが、問題の根源をなす日教組の不当で理不尽な主張を、確固たる「国家教育、百年の大計」で押さえ込むだけの度量と決意が政府になければ、決して改善することは期待出来ない。教育は国家将来の根幹、教育の確立なくして国家の将来はない。政府の覚醒とその重責を担う教職者たちの使命感に期待すること大である。
「少子化への歯止め」は、すでに人口減少が始まっている日本の将来にとって重要な緊急課題である。人間の幸福は「家庭を持ち、子供を育てて、子孫を残す」ことによって達成され、その実現こそが「人類本来の使命」である、という基本的な倫理観への理解力を失っている青年男女を覚醒させることにある。そのためには、何よりも「雇用の安定」した環境を作り、早期成婚の奨励と育児環境の整備、特に託児所の保育、育児サービス等を完備する事で、共稼ぎ夫婦の収入が確保できるような社会を作る必要がある。これらを完備するだけでも、かなりの部分が解決可能であり、第二子、第三子の誕生も期待出来るはずなのに、それも未だに実施されていない。
オーストラリアも長年出産率の低減に苦しみ、移民による人口増加に頼って来た。 しかし近年、出産奨励金、母子手当て拡充制度の導入に加え、託児所の充実、小学校への保育施設併設、等の政策実施により、短期間で著しい出産率の向上に成功している。
「自殺者防止策」に到っては話題にも上がっていない。阪神・淡路大地震の犠牲者は6,500人に近かった。あの大騒ぎをした大事件の五倍を上回る自殺者が毎年派生しているのに、政府は何らかの対策を立案していない。この現状放任は「非常識」極まりなく、まさに政府自身による自国民の「大量殺人」の容認である。
「食糧自給率の向上」は国家生存の基本である。それなのに政府は、米価調整目的とやらで、国内水田の30%以上を休耕田に指定して「休耕補償金」まで支払っているのだ。その結果、国民は国際米価の5倍近くも高い米を買わされているのが現状である。農耕者年令の高齢化と継承者の不足から、この休耕田への補償金支払い政策が歓迎されていて、長年政権与党と族議員の格好な票田になっているようだが、日本将来の「食糧自給力の涵養」を考えると、これほど馬鹿らしい政策は無い。農業経営の企業化を推し進め、美味な有機耕作米を大量に生産して、せめて国民に国際米価で提供出来るようにすると共に、海外への輸出を奨励して、早急に大規模農業経営が可能にできる法整備をすべきであろう。世界では、「日本米の美味さと食の安全性」はハイテク製品と同じくらい評価されているのだから、米の輸出は必ず成功するはずである。

これら羅列した数々の悲しむべき現況を見る時、日本人が常識として受容している現実が、実は世界の非常識である事が理解できるであろう。戦後の「日本政府は、何を国政の基準におき、国家経営をしてきたのか・・・」疑問に思わざるを得ない。「55年体制」に安穏としてのさばって来た自民党の崩壊は当然の結末であった。しかし、現政権、民主党に、果たしてこれらの「非常識」を憂う志士がいるであろうか? 小筆には大きな「疑問符」を付けざるを得ないのが現状である。 

豊かな自然の中で羊のように大人しく慎ましやかな生活をしている同胞たち、その上に胡坐をかいて安座している政府と議員たち、しかし我々日本を取り巻いている国際環境は厳しく、安閑と過ごしている時期では無いことを国民全部に理解して欲しいと願っている。

2010年3月19日金曜日

「教育再生」-3. オーストラリアの教育事情

 オーストラリアの教育制度を述べる。面積で日本の二十二倍、人口はたったの二千二百万人余り、まさに過疎大陸である。各州によって制度が多少異なるので、シドニーがある人口四百三十万人、面積で四倍のニュー・サウス・ウェールズ州を例にとる。

 学制は、小学校(6-7年間,幼稚園にあたるプレ・スクールを含む)、中高学校、ハイスクール(4-6年間)、大学(3年以上)と専門学校(TAFE,州立技術補習専門学校、夜間部もある)で成り、小-1から高-3までの学年を「通し」で呼ぶ。すなわち小-1 Year-1(Y-1),-1Year-7(Y-7)で、高-3 Year-12(Y-12)である。義務教育期間は、小学校一年生から10年間(Y-10)ないし、落第があるので年令16才までで打ち切り。組織は、高校までは州立(70%)と私立(30%)が並列し、大学は宗教系特殊校,1校を除いてすべて州立のみである。州立のハイスクールには「Selective School(選良学校)があり、州内を15学区にわけて41(5千人分)があり、毎年約15,000人の優秀な生徒たちがこの難関に挑戦している。もちろん学費は無料である。学費は、州立はY-12まで無料、私立は宗教系の経営で、それぞれの学費をとっているがカソリック系は安く、プロテスタント系は高い。約20年前に息子と娘が通った英国教会系の名門私立ハイスクールは、Year-12 時の年間学費が約$9,000.だったが 現在は$24,000.とのこと。優秀な生徒には教科ごとに奨学金を支給しているが、オーストラリアの40代サラリーマンの年間平均所得が税込みで$40,000.余りであるから決して安くは無い。しかし、名門私立校は、どこも満席である。学力のみならず情操教育面で州立をはるかに凌駕しているからで、それだけの学費を払う価値があるからであろう。

 教育方式の特色は、一般教育の早い時期から職業訓練を織り込んだ学科が選択できることである。生徒たちはY-4ころから自分の将来を決める傾向があり、進学意図の生徒とは精神的にも異なった心理状態で授業を受け、ハイスクールに進学するとこの傾向がはっきりと分かれる。大学以上に進学を意図する生徒たちは、Y-11Y-12で一般必須科目以外に、大学の各学部が要求する選択科目を専修する。大学独自の入試は無く、州内一律のHSC (High school Certificate)という一斉試験を受けて、その成績により希望する大学の入学が決まる。TAFEは、一旦就職した社会人が自分の仕事に必要な専門技術を習得するために設けられているもので、各種技術、コンピューター、経営学、法律関連等、多岐にわたり、教科ごとの履修が可能である。年令に関係なく低額の学費で専門技術を学べる制度で、昼間部と夜間部があり修了者には「ディプロマ」が与えられる。

 小筆も41才の時、貿易関連の勉強のために、NSW大学内に設けられたディプロマ・コースに二年間通った。週三日、18:00-21:00で仕事を終えた後からの三時間の授業と論文形式のテストは特に大変であった。開講当初70 人いた生徒が卒業時には27人に減り、英語圏以外の生徒は小筆一人だけ、お陰で卒業式では連邦政府総督から手渡しでディプロマを頂戴して貴重な人生経験をした。これも学生時代に経済的な理由で叶わなかった海外留学の夢を実現したかったからでもあった。

 息子が通学したのは[Trinity Grammar School]のハイスクール部で、シドニー郊外にある120年余りの歴史をもつ英国教会系の男子校、Y-1からY-12まであり生徒数は約千九百人。遠隔地と海外からの生徒たちのために「寄宿制度」も備えている。

 入学試験は、Y-5 の時、国語(英語)と算数の試験があり、Y-6時に将来希望する進学方向により、文系理系の選択科目の試験と家族を含めた面接、家族の通う教会の牧師からの内申書が求められた。

学校は、キリスト教の教理に基づいて、将来のオーストラリア社会を指導できる「紳士育成」を目標に教育を施している。校内には教会堂があり週一時間の宗教学習は必須科目である。入学時、ロドニー・ウエスト校長の訓話は、「諸君は本校において、キリスト教徒として学識を磨き、立派なオーストラリア人として国家に尽くすために修学するのである。社会においては公徳心を以って一般人の指導者にならなければならない・・・」と確固たる修学目標とエリートたるべき精神を述べ、厳しい校則と礼譲が教え込まれることを覚悟させた。まず生徒たちの「オージー・イングリッシュ」を英国貴族が使う「クィーンズ・イングリッシュ」へ矯正すること「上品でウイットに富んだ会話術」の修得から始まった。生徒たちは、男性教師には[Sir・・・」、女性教師には[Mam,・・]の敬称を付け、必ず姿勢を正して受け答えをすることを躾けられ、国歌斉唱と国旗掲揚時には、全員起立して「気を付け」の姿勢をとることが義務づけられている。 学校を訪問すると、必ず誰か生徒が飛んできて、案内を申し出るのが常であった。

学内には、Y-7生から Y-12生までを縦割りにした[House]と名づけた生徒組織があり、各学年約20人、計120人前後で構成されていて、上級生が下級生の躾から校内生活順化や校則指導等に当たり、スポーツ競技のみならず学識競技等も、このハウス対抗で行われていて、「同窓生意識」強化の役割を果たしていた。

一般教科の他に、選択科目には「軍事教練」があり、もちろん実弾射撃や砲撃訓練、夜間演習などもあり、在校中に所定の訓練を終えた生徒は、オーストラリア陸軍「予備伍長」の階級が与えられている。

卒業生は全員、国内か外国の大学に進学し、息子のようにNSW大学を卒業した後、働きながら他の大学で学士、修士、MBA等を取った後、米国の銀行から奨学金を貰ってハーバード大学で国際金融を学び、38才になった現在、英国教会の「牧師」をしながら、ボストンの神学校の博士課程を通信教育で受講している者もいる。

ウエスト校長は、毎朝正門脇に立ち、登校してくる生徒たちに必ずファースト・ネームで呼びかけ、一言二こと本人や家族の近況を尋ねるのが日課であった。九百人近い全生徒の名前と家族構成をすべて記憶しておられ、優しく言葉を掛ける校長に「真の教育者」の姿をみて「良い学校に進学させた・・・」と感激したものであった。この校長は、在校生のみならず卒業生からも神のように慕われていて、隠退された今でも各年度の卒業生たちが、五年に一度開く同窓会には、必ずウエスト校長の臨席を仰ぎ、近況報告をするのが慣わしで、海外居住の同窓生たちもほとんどが参加しているそうである。

 現在は「複合移民国家」なったオーストラリアの教育制度は、基本的にはイギリスの制度をベースに組み立てられていて、上流社会層と庶民階層の子弟が自然に「落ち着く所に落ち着く」ように仕組まれているように思える。家庭環境と親からの遺伝子は当然彼らの子供たちに引き継がれているので、無理に高等教育を施しても吸収しきれない子弟が当然出てくるものである。学歴が低くても、社会に出たあとどんどん能力を伸ばす子弟もいれば、自分の分野で頑張る者も沢山いる。能力のある子弟には、社会が奨学金を出して彼らの持つ潜在力を伸ばしてやり、将来その成果を社会全体が享受する、という考え方には意味があると思える。

小筆の子供たち二人の学費負担はハイスクール卒業までで、後はすべて自分たちで奨学金を貰って高等教育を受けている。息子は六種類の学位を持ち、娘はロンドン大学の大学院の修士号を含めて三つの学位を持っている。彼らの州立小学校時代の友人の多くは義務教育を終えたあと社会に出ているが、彼らの殆どが、いわゆる「庶民階層」として幸せな生活を送っている。

現代日本の学校制度の欠陥は、誰もが一律に高等教育を受けるのが当然である、としていることにある。学校の勉強だけでは希望校に進学出来ないので、幼年時から「塾通い」をして「丸バツ式解答」の記入方法を補習して当然だと思っている。それだけの努力をしても日本児童の学力は世界のトップにランクされていない。教育行政に何か欠陥があることは間違いない。その上問題なのは、学校の教師がこの現状を当然として受け止めているらしい事である。彼らは一体、日々の授業で何を教えているのか、プロの教師として「自分の教え子の塾通い」を恥ずかしいと思わないのか、不思議な現象である。      

オーストラリアにも「塾」はある。しかし、ほとんどの塾が国語である英語での「論文」の要点のとらえ方と書き方を教えている。HSCの試験が大部分「小論文」での解答方式を採用しているからである。

このブログは、小筆の日本出張のため四月はお休み。何かあれば日本の携帯電話、

090-3008-7549. に連絡されたし。 豪洲太朗

2010年2月23日火曜日

「教育再生」-(2)  

 現在日本が直面している「教育環境の混迷」と「常軌を逸脱した社会現象」の原因は、過去の教師たちや生徒、彼らの親たちの責任ではなく、もちろん変容してしまった社会の責任でもなく、すべては戦後教育の基本軸を確定せずに放置してきた政府と文部省に帰するべきである。

 いかなる国にもその国家が持つ固有の文化と伝統があり、その民族の特性を形成していて、良くも悪くも、いわゆる「民族性」というものが滲みでているものである。

 戦前の日本には、諸外国が羨むほどの民族的特質があり良質な文化に溢れていた。だからこそ、多くの外国人が日本の風土を好み、日本人を崇拝していた。しかし、現代の日本は、そのすべてを失ってしまった。確かに他国が真似の出来ない高品質の商品やハイテク製品が世界市場で好まれ、特異な文化を供給し続けているが、それらを享受している彼らが、人間としての日本人を好み、尊敬している訳ではない。むしろ軽率な人間集団として蔑んでいる人たちも多く存在している。 

各国の政府高官が集まる国際会議などの代表たちの行動をみても判るように、日本代表の存在感が全く無いのである。何故か? 答えは簡単である、現在の日本には「日本特有の文化」がなくなって国民の心が離散してしまい、各個人に「日本民族としての確固たる自信」が無いために、影の薄い存在になっているからである。逆説的には「日本固有の文化」のバックボーンを亡失しているから「日本人としての誇りが持てない」のである。

 その原因は戦後教育にある。日本とはいかなる存在であるのか? 日本人が依って立つ根源は何か? 日本人としていかにして生きていくのか?  この民族の根幹に係わる重要な課題を子供たちに教えてこなかったことに起因している。民主教育も結構、機会均等も良い、しかし自分が生まれた国家の根源すら理解しないで、学力だけを詰め込んでも頭でっかち「人の形骸」でしかなく、無味乾燥、品格皆無な存在であるために、人としての魅力がなく、他人から、まして外国人から尊敬される訳が無い。

何故なら、 世界には祖国を離れて、他の文化圏、「外国」で生活している人間が無数にいるが、大部分の彼らの拠り所は「金銭」だけであり、自分さえ金儲けができれば人生満足とする心情で生きている者が驚くほど多くいる。彼らは、他人を騙してまでも平気で金に執着する人間たちである。彼らには、所属している国家の安全よりも金銭の多寡が人生保全の目安であるからだ。彼らにはコミュニティーに所属しているという感覚が無いから「所属社会に対する責務」を感じないボヘミアン的な存在になって、誰からも尊敬されず、むしろ軽蔑されていて各国で大きな社会問題になっている。

現在の日本は、国内に多数の永住外国人を抱える他に、「日本人のボヘミアン」、すなわち「虚無的生活者」、「政治的、社会的な無関心層」を無数に抱え込んでしまっている。自分の権利だけを主張するモンスター・ピアレントや家族のみならず他人の存在さえも無視する若者たちなどがその典型である。

日本の戦後教育の欠陥は、子供たち各個の「能力の差」を無視した事に起因している。基本的に人間には各自が持って生まれた特性があり、頭脳明晰な子供もいれば、当然何

事にも理解度の劣る子供もいるし、特殊な技能にのみ秀でた子供たちもいる。これら人間の本性を無視して、「一束ひとからげ」にする事が民主教育である、とした新憲法下の文部省の間違いが今日の惨状を招いている。

 優秀な生徒の能力を育て伸ばすことをしないで、程度の低い教程に押し留めることで、その子の持つ向上心を削いてきた結果であり、各家庭の経済状況の偏差を考慮せずに、同じ枠の中で教育をすることを最善とした事も間違いの原因であった。

優秀な子供たちで向学心に溢れる生徒だけを学力試験で集めた特殊学校「選良校」を作り、経済的に劣る家庭の生徒たちには奨学金を与えて就学させて、彼らの持つ能力を学年に関係なく際限なく伸ばしていく。その一方、程度の低い子供たちには彼らの特質に見合った技能を身に付ける技術学校へ進学させて社会に送り出す。経済的に恵まれた子弟には、親の経済力に見合った私立校に行かせるシステムが採用されるべきであった。   職業技術を身につけて社会にでた成人たちが、もっと高等な技術や管理能力を身につけたいと希望した時のために、年齢に関係なく通学できる「夜間教育」の場所を用意しておけば良い。このシステムを確立すれば財政難に悩む財務省も、遥かに少ない予算で教育目的が達成されるはずである。

今、民主党政権が打ち出している「高校無料化」なんていうものは無策の極にあり、形式だけ「高卒」の資格を与えても何のプラスにもならない愚策である。

 日本の「教育再生」の基本に、義務教育と高校大学を通して全生徒、全学生が学ばなければならない「必須科目」がある。その第一は、「祖国日本が依って立つ根源」を教えることである。第二は、日本国民として果たさなければならない「義務」を教えることであり、第三は社会の一員としての「責務」である。第四は、自分が属する「日本国についての知識」であり、五番目は、国際社会の構成国家として「国際関係」を学ばせることも大切である。六番目には、将来、国際社会で活躍できるために国際語である「英会話」くらいは身につけさせることである。

日本には、二千七百年にならんしする万世一系の皇室を中心に、絶えず斬新的な政治形態を創設して「新体制国家」が営まれてきた。神社仏閣に見られる独創的な木造建築や、織物、蒔絵、水墨、陶芸等も秀逸なものばかりで、その上、漢字、片仮名、平仮名という世界に類を見ない表現方法で、私小説のみならず短歌、俳句という豊かで繊細多彩な表現力を誇ってきた。これらのすべては、日本の伝統文化であり、それに加えた高高度技術国家である。どのひとつを取り上げても、他国の追従を許さぬものばかりで、日本国民として世界に誇れる知的財産ばかりである。

日本政府は、国防や治安のみならず、曲がりなりにも多くの社会的便宜性と社会保障制度、高度な文化生活を国民に与えている。縦横に網羅された交通網もメディアも通信網も、都市機能もすべてが有料とはいえ、最善の品質のものが供給されている。それらは、日本という国家があって初めて享受できる民族的な文明である。国民には、これらの歴史と伝統、国家機能と自分たちの生命財産を守る義務がある。自分たちの生活環境を安全に保つためには、公共道徳を守るのみならず、一旦緩急有る場合には、身命を挺して日本と国民を守る気概を持たせるべきである。これらを学ばせることが立派な人格形成に役立つ。

 明治政府は、国家の安全を守るために、国費で陸海軍の指導者を育てた。全国から集められた彼らは確かに優秀で、世界に通用する「軍事プロ」として育ち、短期間に世界有数の「軍事国家日本」を作り上げた。しかし、彼らを育てる教育過程に重大な欠陥があり、彼らは政府がコントロール出来ないモンスターに育ってしまった。 結果として彼らは、太平洋戦争の惨禍を引き起こして帝国日本を崩壊させたのみならず、三百五十万人余りの国民と将兵の生命を奪い、諸外国に算出不能の犠牲者をもたらした。

その欠陥とは、教育課程で「地政学」、今で云う「国際関係論」を教えなかったからである。近代史におけるいかなる国家も、自国の地理的な位置と近隣諸国との関係を地球規模の観点から理解し、判断出来る能力を備えていないと生存できない、というのが「国家存亡」の鉄則である。まして核兵器が充満し、長距離爆撃機やミサイルが飛び、遠距離から相手国を攻撃可能な現在、この学問はあらゆる国家指導者にとっても国民にとっても最も重要な必須科目である。

 この重要な教科を「軍事プロ」たちの卵に教えなかったために、モンスターに育った彼らは、国際環境下における「日本の位置」が理解出来なかった。確かに日清、日露戦争は止むを得ない防衛戦であったが、それ以後、敗戦までの戦闘は、すべて国家存亡に関係なく、モンスターたちの勲章のために引き起こされた惨禍であった。

 この誤った教科選択の教訓は、現下の「教育再生」を考える場合に、最も重要な課題であり、日本の将来を誤らぬためにも熟慮実施が必要である。「教育再生」なくして日本の将来は無い。

 次回、「教育再生」-(3)で、オーストラリアの実例を引き、教職者の理想像を紹介したい。

2010年2月9日火曜日

「緊急発信」民主党の命運も尽きた・・・

二月八日夜、小沢幹事長は総理との会談後の記者会見で「幹事長続投」を表明した。この発表を聞いた国民の大部分が唖然としたはずである。理由は、二人の政治資金疑惑に対する姿勢にある。総理は、政治資金報告書の虚偽記載で秘書を解雇し税金の未納分を後払い、幹事長は秘書三人が起訴されて公判待ち、本人は「嫌疑不十分」で不起訴、とはいえ二度にわたって検察から事情聴取をされている。その上での続投表明である。

 そこには、お二人の「道義的責任」のかけらも感じられない。

 幹事長への国民の疑惑と不信は、(1) 有罪で受刑中の建設会社幹部が贈賄を告白している、(2) 三度にわたる新党設立と解党時、累計20億円とも推定される「政党助成金」の処理が不明である、(3)10億円をこえる幹事長個人名義、13件の不動産の存在、(4)現在起訴中の三人の秘書は、誰のために虚偽記載をしなければならなかったのか? (5) メディアの世論調査で「辞任すべき」が70%前後、内閣不支持が支持率を上回り、(6)メディアは、小沢疑惑と民主党政権存続についての報道で沸き返るに到った。これらの疑惑と不信と大騒動を抱えたままの幹事長職の続投決定である。

  幹事長にはこれ以外にも重大な問題がある。それは、北京訪問時に「自分は人民解放軍の参謀長である」と胡主席の歓心を買い、習副主席の天皇表敬時の「天皇の政治利用」とも思われる会見強要と宮内庁長官への食言、韓国訪問時、「竹島不法占拠」問題には一言も触れずに、天皇訪韓や天皇家に朝鮮半島人の血液が流れていると迎合としか思えない発言した上に、永住外国人参政権の問題に触れるなど、日本の国会議員としてあるまじき発言を繰り返してきた。 

 鳩山総理は、これだけ多くの問題を抱えている幹事長を続投させた。その上、良識があるはずの民主党党員からは、ごく一部を除き何ら批判の声が一切聞こえてこない。

 日本人の常識として、「部下の責任」は上司が負い、部下を庇うのが本来の姿であり、男の美徳でもある。ひと昔前までは、「誠」を持つ大和武士は部下の犯した罪を恥じて切腹したものであった。それを、秘書三人の行為を「知らなかった」と責任転嫁をして罪を逃れる浅ましい姿には、政治家としての資質を疑わせるものであり、人間として卑怯極まりない恥ずべき行為である。

小沢一郎民主党幹事長は、政治家としてよりも人間として、これらの疑惑にたいする「説明責任」と「道義的責任」を如何に考えているのか、この説明は政権与党の幹事長職にある者の責務である。その責務を果たさなくて良いと考えている理由があるのなら知りたいと思っているのは小筆だけではないであろう。

 検察の小沢追及は必ず継続されるものと信じている、それこそが「日本の正義」だからである。しかしその前に、日本国民が小沢疑惑と民主党の姿勢、それにも増して鳩山内閣の存続に審判を下すはずである。

今回は「緊急発信」につき、「教育再生」―(2) は、次回にします。  

2010年1月28日木曜日

教育再生(1)

 学校では学級崩壊、校内暴力、いじめ、登校拒否、家庭では幼児虐待、閉じこもり、自閉症、自殺、モンスター・ピァレント等々、シドニーで流れ聞く日本の教育界と家庭で発生している諸問題は、国家危機にも値する異常事態としか思えなく唖然としている。

 現在の日本人は、世界諸国から比べると遥かに教養があり、民度も高く、より豊かな文化生活を享受しているのに、何故このような社会現象が発生しているのか? そして日本政府はこの惨状をいかに理解し、いかなる対策を考えているのか、果たしてそこには教育行政再生の対する「百年の大計」があるのか? この祖国の悲惨な現状を「国家最大の危機」と見て心配する毎日が続いている。

 かつて自分が育った子供時代の日本は、戦後間もない昭和20年代。当時日本には何も無かった。街は米軍の空襲で焼け野原、大人たちは栄養失調で痩せ細った体を貧しい服で包みながら仕事や食糧を求めて闇市を徘徊する毎日であった。どの家庭にも、お金も食糧も生活物資も無く、焼け残った学校では、教材はおろか教科書、文房具さえ満足に無く、ましてや玩具や電化製品なぞは夢にも浮かばなかった時代であった。しかし、大人も子供たちも欲しい物は山ほどあってもそれに耐え、「明日の日本」を信じながら懸命に働き、あるいは勉強に熱中していた。貧しくて何も無い家庭でも、溢れるほどの愛があり、隣近所からの隣人愛がこれらの困窮生活に耐える力を分け合っていた。

 しかし、今からは想像も出来ない貧困生活が克服され、日本は未曾有の経済大国になり、「豊饒の社会」が出現した。収入が増え社会保障が実施されて、インフラの整備と共に国民の生活が向上した。大部分の国民が快適な住宅に住み、車を乗り回す街にはすべての品物が溢れ、子供も大人も欲しい物すべてを手にできる社会になった。しかし「精神の荒廃」としか云いようの無いこの惨状の出現である。

訪日する度に日本社会の変調の兆しは見えていた。最初に気になったのは、若者たちが自己中心の行動を取り始めたことである。若い娘が電車の中で夢中になって化粧や携帯電話に専念し、お年寄りが目の前に立っていても席を譲ろうとしない事、それを叱りもせずにただ傍観する大人たち。学校からの帰宅途中と思われる男女生徒たちが大声で傍若無人に話し合い、奇声を上げているかと思うと、男の子が通学用の鞄から鏡とブラシを取り出して、無心に自分の髪型を直し続ける、少しだけ席をずらせば、もう一人座れることにも気づかない様子、等々、自分たちが「社会の一員」であることの自覚が全く見られないことである。社会人になったばかりに見える若者たちが、バックから分厚い漫画雑誌やマンガ本を取り出して読み耽ける姿、どのテレビ局も、ゴールデン・アワーの馬鹿騒ぎとしか見えないバラエティー番組の氾濫、無意味としか思えない料理番組、タレントを集めただけで低質なニュース解説、どの局も揃って同じような低俗な番組を終日流し続けている、等々、全く異常な姿が当然としてまかり通っている日本社会にしばしば愕然とさせられている。

江戸末期、日本人は西欧列強の侵略から国を守る手段として明治維新を断行した。国家統合の頂点に天皇を戴き、議会政治と教育行政を整備して義務教育制度を採った。さらに国政近代化のために「高等学校」と「帝国大学」を設立して官僚を育て、国防を担わせるために陸海軍士官学校を設立して、ともに全国から優秀な青年を集めて国費で育成した。その一方、江戸時代からあつた職人育成のための「徒弟制度」を残して社会を支える技術者群を確保し、彼らの質的向上のために小学校への登校を義務化した。

学校では学問のみならず、天皇の名前で教育勅語を発し、日本人としての矜持と社会規範を教え、日常生活を潤滑化させるための公徳心を醸成する徳育教育「修身」とその実践を点検する「操行」を必須科目とした。さらに政府は、全国民に「普遍の愛国精神」を求めて皇室崇拝、国歌、国旗への忠誠心を教えるために、神代から綿々と続く「日本史」を教えた。青年男子には徴兵制を敷き、自分たち自身で国防をまっとうさせるために「軍人勅諭」を発して軍人としての在るべき姿を示した。

家庭では、祖父母、両親、兄弟が日常生活を共にしながら「躾」と「惻隠の情」(老幼への労わり)を身につけさせて、これらの制度を補っていた。

このようにして明治、大正と昭和前期の日本は、「国家形成」と「日本人育成」に「国家が望む国民の姿」を大前提とし示し、その実行に努めてきた結果、日本は世界一識字率が高く、清廉潔白な国民を持った上に、最も安全な国であるという評価を得た。

日常生活は貧しくても、社会の安寧秩序は維持され、国民のすべてが「日本人としての誇り」を持ち、国家の将来に夢を抱き、自己の利益のみならず「国に尽くす」ことの喜びを感じながら日常生活を送ったために、家庭には常に家族愛と敬老精神が溢れ、巷にはいつも礼譲精神が行き渡っていた。

この日本固有の社会が変貌し始めたのは、日本の敗戦が契機であった。進駐してきた連合軍司令部は、軍国主義に走った「帝国日本」の牙を抜くために「新憲法」を押し付け、「民主教育」の美名の下に、戦前の教育方針の大転換を命じた。これに同調した左翼系政治団体が便乗して、教育の根本を覆して「反戦教育」を徹底し、天皇制と国歌、国旗さえも否定した上に、民主的自由教育として公徳心、修身科目も教科から外させた。「愛国精神の扶植」は侵略戦争に通じる、とした教育を実施しさせてきた。日本政府も文部省も一般大衆までもが、悲惨な敗戦体験から、「教育の本質」に立ち入ることなしに、この「新しい民主教育」を「善」として受け入れた。終戦初期には、戦前に教育を受けた教師たちが、新教育方針に戸惑いながらも公私に渡り生徒たちを指導してきたが、彼らが教育界を去り、戦後教育しか知らない教師たちが主流を占め始めてからすべてが変容してしまい、のちには「ゆとり教育」とかで、生徒への授業時間さえ短縮してしまった。その結果、教師たちは生徒をコントロール出来なくなり、親たちは子供の学力を補うために塾へ通わせねばならなくなった。

このような環境の中で育ったのが、現在日本の教師たちと問題児たちの親である。まともな教育環境を知らない彼らには、この問題の根幹が理解出来ずに、共にただオロオロしているだけで、お互いに責任の転嫁をし合っているのが現状である。

彼らと同様に政府も文部科学省も、この国家的危機状況にある「問題の根幹」が認識出来ないために、対処方法が見付からずに未だに「根本的な改善策」を示せないまま今日に至っている。

国際社会で公約した大言壮語を、口元が乾く前に政権を投げ出して反故にする宰相たちが続き、「トラスト・ミー」という「信用できない言葉」を平気で繰り返す首相を育ててきた戦後の教育行政の欠陥を「日本将来の問題」として真剣に考える時期が到来している。

次回、その解決策について私感を述べたい。

2010年1月9日土曜日

「民主党政権の怪」 9-1-2010.

 昨年九月の衆院選では、民主党が予想以上の大勝をした結果、国民は新しい政治の始まりに大いなる期待感と多少の不安感を懐きながら百日余り新政権を見守ってきた。

 戦後60余年続いた自民党政権の果たした役割は、敗戦の灰燼の中からの「奇跡の復興」を成し遂げ、「日米同盟」の確立と「世界第二の経済大国」を創造して、それなりに政権与党としての役割を果たして来た。しかし、過去数年間の自民党の体たらくは、国民全体に限りない閉塞感と政治への諦観を植え付けたのみならず、国民の審判を仰がない総理大臣職のたらい回しと無責任な投げ出しの連続で、国民の徹底的な不審と批判を買った結果が民主党政権の出現であった。民主党の大勝は、決してマニフェストへの共感でも指導部への期待感でもなく、ただ「嫌自民票」の集積の結果であった、と見ている。

 そして新政権が発足したが、国民はまず最初に、鳩山首相の優柔不断な態度と曖昧な指導力、それに加えて意味不明の「友愛精神」とやらを奉じている姿に不安を抱かされた。それに加えて小沢幹事長の「数の力」を絶対視した姿と、強引ともいえる政策介入と党員の引き締め、漏れ聞こえてくる党内の言論統制の実態、等々に「はてな?」との疑問符を感じた。それに加えて、民主党の枢軸たる党主と幹事長に共通した政治資金疑惑、共に公設秘書が起訴される異常事態を招いている現実は、国民の期待を完全に裏切った。その上、この最高幹部二人に対する疑惑について、民主党議員団はおろか地方党員からも何ら批判の声も聞かれないという異常事態をどう判断したら良いのであろう。優秀な若手議員や党員が当然いるはずの党内から、この党幹部の異常事態に抗議や批判のの声が聞こえてこない状態は、民主国家日本にあっては、まさに異常としか表現出来ない状況である。

 国民は「新鮮で清廉潔白な政権党の誕生」を期待して民主党に投票したはずであった。しかしその期待は、すでに百日余りで裏切られようとしている。特に幹事長が率いる六百人余りの訪中団の胡主席表敬は、朝貢外交と比喩される醜態であったし、その直後に来日した習副主席の天皇陛下表敬訪問の強要が発覚し、それを批判した宮内庁長官への生半可な憲法論を振りかざした幹事長の発言は、政治を超越する天皇に対する不遜不敬の表明であり、与党幹事長としての品性のかけらも見られず、皇室崇拝を国是と考える国民の顰蹙を買った。

 外交面では、日本自立の基盤である「日米同盟」に対する鳩山政権の曖昧な姿勢は、米国の対日不信感を醸成し、日本経済の生命線である中近東シーレーンを守るインド洋給油活動の中止は、その理由さえ意味不明であった。その対価として決定されたのが、アフガン政府に対して4千5百億円にものぼる民生中心の経済的支援をする、という決定には唖然とさせられた。これも鳩山総理のみが唱える「友愛精神」の発露なのかも知れないが、汚職疑惑にまみれたカルザイ大統領のみならず閣僚の六割近くが国民から不信視されているアフガニスタン政府に、どうして公正な支援が可能なのか・・・、その辺の説明も無いままである。

 沖縄の米軍基地に関しても、軍備強化に邁進する中国と核装備を進めつつある北朝鮮の危険性が消えた訳ではなく、まして彼らの脅威に対抗出来るだけの抑止力が日本に装備された訳でもないのに、駐留米軍の移転を求めている政治感覚を心配せざるを得ない事態が到来している。
 沖縄と日本各地に駐留している米軍の存在は、いまだに台湾併合を目指す中国と南侵攻の野心を捨てていない北朝鮮軍への抑止力であり、米軍の存在が東南アジア、中近東、アフリカの平和維持に貢献している現実を認識するならば、日本国内の事情、まして連立政権与党の反対論に耳を貸して、国際政治の大局を見誤っていること自体が異常であると云わざるを得ない。筆者は決して自民政権の再登場を望んでいる訳ではない。しかし、この民主党政権の異常性にだけは、より多くの日本人に注目して欲しいと願っている。

 新年早々の「明るくあるべきブログ」が不満たらたらの内容になってしまったが、南十字星の下、ワインを楽しみながら祖国日本を心配し続けている豪州太朗の小言に、「このような意見もあるのか・・・」と一考して戴ければ幸甚に存じる次第。皆様からの賛否両論の意見をお聞かせ下さい。

2010年1月2日土曜日

日本の皆様、謹賀新年。

 本日、平成二十二年元旦より私のブログを開設、シドニーから日本の皆様に、オーストラリアから見た日本の社会現象、特に政治に関する色んなコメントを定期的にお送りしたいと思っております。
 海外在住40年、シドニーではすでに31年目に入りました私には、日常の日本に関する情報に接して、日本の皆様が「常識」として感じていられる社会、政治現状に多々「異常性」を感じることがあります。中には日本独特の、日本ならではの良い点も沢山ありますが、どうしても理解不可能な不思議な現象を大部分の皆さんが常識として認められている事が沢山あります。それらの相違点を述べると共に、皆様が不感症になっていられるポイントを、私個人の意見として述べさせて戴くと共に、皆様のご意見を伺いながら意見の交流の場所にさせて戴きたいと思っております。私見を大いに述べさせて戴くと共に、皆様の盛大なご意見を拝聴させて戴きたく存じております。私の職業は国際交流関連、年齢は壮年過ぎ、身分はバツ一、一人暮らし17年目の独身です。では、宜しく、豪洲太朗(ペンネーム)