2010年11月1日月曜日

ハバロスク墓参

 10月18日、三泊四日のハバロスク訪問を終えて成田空港に戻ってきた。すでに冬景色で荒涼としたシベリア上空を飛び、日本海を越えて上空から緑豊かな牡鹿半島が望見できた時はほっとした気分になった。「父の終焉の地」訪問の事のみならず、街全体の後進性が著しく、貧しい住民の姿、特に治安が極度に悪いと云われている極東ロシアでの四日間の生活に緊張していたからであろう。飛行時間、たったの2時間半なのに、なんと遠い国であろうか・・・。改めてシドニー生活に感謝した次第でもあった。
 
 今回の訪ロは、10年前にモスクワまで行って捜し求めたが不明であった「父の埋葬場所」が「ほぼ確定」出来た、という元ソ連邦平和基金、ハバロスク支部書記長、ガリーナ・ポタポバ女史からの連絡が契機であった。

 父、戸倉勝人は、享年46才で昭和24年11月3日、ハバロスクで死亡した事は、モスクワの「歴史文書保存センター」で見つけた父の個人資料とそれに添付されていた検屍報告書で確認出来ていたが「埋葬場所」の記載がなく、その追跡調査をポタポバ女史に依頼していたのだ。それが10年後の今年初頭、女史からメールで「消去法でいくと、ハバロスク第二市民墓地、日本人地区しか無い・・・」とのメールを受けたので、父の「61年忌」にも当たる今秋、墓参を決めたのであった。

 父は、日露戦争の翌年、姫路酒井藩馬廻り番頭(260石、10人扶持)、藩校「好古堂」肝煎り役(事務局長職)、兼漢文教授職を6百余年継承する戸倉家の長男で、明治維新で士族を解かれた祖父勝淑の長男として大連で生まれた。以後、満鉄勤務の勝淑の下で小学校三年生の時まで大連で育ち、青島に移転して青島日本人小学校、青島中学校の二期生として卒業、上海にあった東亜同文書院を卒業後、小倉第12師団歩兵14連隊で「一年志願制度」により「将校教育」を受けて予備少尉になった後、上海に戻り満鉄に就職した。その後、大連本社の調査部に配属されて「満州建国」を研究する「大雄峰会」に所属、関東軍との連携で「自治指導部」を結成後、満州国建国を成しどけた時の基幹メンバーの一人であった。建国後は満州国政府交通部の要職に就き奉天、ハルピン、牡丹江、吉林、新京、海城、等々、高級官僚として各地を巡る中、姉と小筆、妹が生まれた。やがて父は、日、満、漢、朝鮮、蒙古民族等、5民族の調和を図り、王道楽土建設を目的とした官民一体の国民教化組織、「満州国協和会」の幹部となって吉林、承徳、終戦の年は、首都新京(現在の長春)の協和会本部調査第一部長の要職にあった。

昭和20年6月、関東軍の「根こそぎ動員」で軍籍に戻り、鮮満国境の街、延吉で終戦を迎えた。その後、ソ連軍の捕虜となり牡丹江に移され、11月末、極寒のシベリア鉄道を貨物列車に乗せられて、一ヶ月近い旅の末にモスクワ近くのタンボフ州ラーダに移送、6ヶ月後に中央アジア、カザン近くの「エラブカ将校捕虜収容所」に移送されて23年6月末まで収容された。その後、日本への帰還途中、ハバロスクで降車を命じられて16収容所14分所に抑留されて翌年11月3日に死亡した。
モスクワで入手した父の「検屍報告書」によると、死亡2時間前に1893特別病院に運び込まれ、「急性心臓欠陥で死亡」とされ、死体解剖の結果報告が添付されていたが、症状は素人眼にも判る完全な栄養失調による過労死であった。

 当時のシベリアは、ソ連に洗脳された日本人捕虜が組織する「民主委員会」が各収容所の実権を握り、戦前の高級官僚や高級将校の前歴を持ち、洗脳を拒んだ同胞捕虜たちを「極反動分子」として、毎夜の「吊るし上げ」、「反動ノルマ」という過重な「重労働」と過少な「反動食」を与えて嗜虐していた。洗脳、自己批判を拒絶した父もその中の一人にされ、それが原因で死亡した。
青島中学校時代、剣道部主将として日本へ遠征、京都武徳会中等学校剣道大会で全国制覇をなした剣道四段、大学時代も野球、陸上等スポーツで鍛え抜かれた壮年の父が、ハバロスク移送後たった1年3ヶ月間で過労死させられたのだから、想像を絶する過酷な扱いを受けたことは明白であり、小筆が調べた生還者の手記や母への挨拶状等にも、それらしい事情が記載されていた。

 終戦の翌年、我々家族が北朝鮮鎮南浦の疎開先から38度線を徒歩で越えて、母の里、山口県花岡に引揚げて来た時は、父の生死は不明であった。やがて父から「捕虜通信用」とロシア語と日本語で印刷された往復はがきが届き、父の生存が確認できた時の喜びは、未だに忘れられない快事であった。その後、父からの葉書は全部で11通届いたが、どの葉書にも居住地の記載は無かった。父からの葉書はしばらく途絶えていたが、昭和25年5月、下松市役所経由で父の「死亡公報」が届き、「陸軍少尉戸倉勝人氏は、昭和24年10月23日、ソ連、シベリア、ハバロスク14分所にて戦病死を確認」と記された「死亡公報」が届けられ、我々家族は悲嘆の底に叩き込まれた。
その後、母は女手一つで、幼かった姉と小筆、そして妹を育て上げてくれ、寡婦のまま81才で父の元に身罷った。

 母の死後、小筆は父の経歴とソ連抑留時の足取りを調べるために、母や親戚、父の友人たちからの話と自分自身の記憶を辿り、国会図書館の保管資料、一般出版物等を読み漁り、6年余りの追跡調査と裏付け資料で確認出来た結果を「朔北の影」と題して自費出版した。その中で、シベリアにおける日本人捕虜間で発生した醜い葛藤を知り、吹き荒れた「赤い嵐」に巻き込まれ、「極反動」とされた父たちの神々しくも惨めな生活と、「民主化運動」の美名のもとに利己的な醜態を繰り広げた浅薄な日本人捕虜の姿も垣間見ることで、やるせない想いに駆られたものであった。
 ソ連抑留中の父に関する事情は、20代後半までにはかなり理解していたつもりであったが、母の苦悩を思いやって意識的に父への言及は避けていた。しかし、実際に詳細を調べ始めてシベリア移送後の「民主委員会」とその手下のアクチブたちの「反動者」に対する理不尽で卑劣な取り扱いに憤りを感じ、「奴等に何とか復讐してやりたい・・・」と思い、古い新聞のコピーを調べた結果、彼らのほとんどが、昭和24年10月31日に舞鶴に引揚げていた。彼ら6百人余りは、「日本新聞」編集部員、各収容所で威を張った「民主委員」と「アクチブ」たちで、彼らの姓名と引揚げ先も調べた。

スターリンは、一方的に日ソ中立条約を破棄して参戦し、ポツダム宣言に違反して、満州、樺太、千島列島に居留していた日本軍人と民間人男性、60万人余りのすべてをソ連邦各地に拉致して強制労働に従事させ、五年余りの抑留期間中に6万人余りの日本人捕虜を死亡させる大惨事を起した元凶であった。
彼は、日本軍の降伏とともに、日本人捕虜を洗脳し、共産主義教宣のためにソ連政府国際部副部長イワン・コワレンコ赤軍中佐に日本語紙「日本新聞」を発行させた。この新聞は、教育程度が低くて世間知らずの若い捕虜たちの心を捉え、彼らの洗脳に役立った。それを利用したのが、戦前「治安維持法」で検挙されたり、特高に「ぱくられた」経験を持つ左翼思想嫌疑のインテリ兵士たちであった。彼らは、このレッテルをコワレンコに売り込み、日本新聞の編集部にもぐり込んで、同胞が苦しんでいる最中に飢餓と強制労働から逃避した。彼らはソ連に媚びるために「共産主義礼賛」と「スターリン崇拝」の記事を書き続けた。その上、自分たちの忠誠心を見せるために「前歴者批判」と称して、同胞捕虜の前歴を暴き、非道のリンチを加えて多くの同胞を死に追いやり、抑留中の将兵死亡に少なからぬ責任を有している。

彼らの中には、「チタの帝王」として日本人捕虜に君臨した袴田陸奥夫がおり、日本新聞編集長でシベリア天皇と恐れられた浅原正基、日本人捕虜たちに「スターリンへの感謝状」への署名を強制した日本新聞宣伝部長の高山秀夫がおり、編集部員、宗像肇、吉良金之助、土井裕助、矢波久雄、小針延次郎たちと彼らに躍らされた多くの若いアクチブたちがいた。彼らのすべては、この「24年10月末帰還グループ」に前後して日本に生還しているが、あれほど彼らが煽った「日本の共産主義化」実現への努力もせず、安穏とした庶民生活に戻った。日本政府は、彼らのシベリアでの非道を問罪していないが、残された遺族の怒りは決して消えるものではない。「父の死亡日」記録相違の謎も、10月21日にハバロスクを出発した彼らグループの「見越し報告」であり、父を死節に追い込んだ下手人たちである、とみている。

 生前、母が「あの人たちは、生き残るために自分をソ連に売り渡したのでしょうが、お父様は、我が家に相承する清和源氏以来の武士道貫徹のために、師道に殉じられたのだから、誰も恨んではいけませんよ・・」と諭された事があった。
 小筆、齢70を超えた現在、シベリアの扇動者たちを恨む心も癒え、憎かった彼らが幸せな人生を過ごしてくれただろうか・・・、と思えるようになった事を喜んでいる。