2010年2月23日火曜日

「教育再生」-(2)  

 現在日本が直面している「教育環境の混迷」と「常軌を逸脱した社会現象」の原因は、過去の教師たちや生徒、彼らの親たちの責任ではなく、もちろん変容してしまった社会の責任でもなく、すべては戦後教育の基本軸を確定せずに放置してきた政府と文部省に帰するべきである。

 いかなる国にもその国家が持つ固有の文化と伝統があり、その民族の特性を形成していて、良くも悪くも、いわゆる「民族性」というものが滲みでているものである。

 戦前の日本には、諸外国が羨むほどの民族的特質があり良質な文化に溢れていた。だからこそ、多くの外国人が日本の風土を好み、日本人を崇拝していた。しかし、現代の日本は、そのすべてを失ってしまった。確かに他国が真似の出来ない高品質の商品やハイテク製品が世界市場で好まれ、特異な文化を供給し続けているが、それらを享受している彼らが、人間としての日本人を好み、尊敬している訳ではない。むしろ軽率な人間集団として蔑んでいる人たちも多く存在している。 

各国の政府高官が集まる国際会議などの代表たちの行動をみても判るように、日本代表の存在感が全く無いのである。何故か? 答えは簡単である、現在の日本には「日本特有の文化」がなくなって国民の心が離散してしまい、各個人に「日本民族としての確固たる自信」が無いために、影の薄い存在になっているからである。逆説的には「日本固有の文化」のバックボーンを亡失しているから「日本人としての誇りが持てない」のである。

 その原因は戦後教育にある。日本とはいかなる存在であるのか? 日本人が依って立つ根源は何か? 日本人としていかにして生きていくのか?  この民族の根幹に係わる重要な課題を子供たちに教えてこなかったことに起因している。民主教育も結構、機会均等も良い、しかし自分が生まれた国家の根源すら理解しないで、学力だけを詰め込んでも頭でっかち「人の形骸」でしかなく、無味乾燥、品格皆無な存在であるために、人としての魅力がなく、他人から、まして外国人から尊敬される訳が無い。

何故なら、 世界には祖国を離れて、他の文化圏、「外国」で生活している人間が無数にいるが、大部分の彼らの拠り所は「金銭」だけであり、自分さえ金儲けができれば人生満足とする心情で生きている者が驚くほど多くいる。彼らは、他人を騙してまでも平気で金に執着する人間たちである。彼らには、所属している国家の安全よりも金銭の多寡が人生保全の目安であるからだ。彼らにはコミュニティーに所属しているという感覚が無いから「所属社会に対する責務」を感じないボヘミアン的な存在になって、誰からも尊敬されず、むしろ軽蔑されていて各国で大きな社会問題になっている。

現在の日本は、国内に多数の永住外国人を抱える他に、「日本人のボヘミアン」、すなわち「虚無的生活者」、「政治的、社会的な無関心層」を無数に抱え込んでしまっている。自分の権利だけを主張するモンスター・ピアレントや家族のみならず他人の存在さえも無視する若者たちなどがその典型である。

日本の戦後教育の欠陥は、子供たち各個の「能力の差」を無視した事に起因している。基本的に人間には各自が持って生まれた特性があり、頭脳明晰な子供もいれば、当然何

事にも理解度の劣る子供もいるし、特殊な技能にのみ秀でた子供たちもいる。これら人間の本性を無視して、「一束ひとからげ」にする事が民主教育である、とした新憲法下の文部省の間違いが今日の惨状を招いている。

 優秀な生徒の能力を育て伸ばすことをしないで、程度の低い教程に押し留めることで、その子の持つ向上心を削いてきた結果であり、各家庭の経済状況の偏差を考慮せずに、同じ枠の中で教育をすることを最善とした事も間違いの原因であった。

優秀な子供たちで向学心に溢れる生徒だけを学力試験で集めた特殊学校「選良校」を作り、経済的に劣る家庭の生徒たちには奨学金を与えて就学させて、彼らの持つ能力を学年に関係なく際限なく伸ばしていく。その一方、程度の低い子供たちには彼らの特質に見合った技能を身に付ける技術学校へ進学させて社会に送り出す。経済的に恵まれた子弟には、親の経済力に見合った私立校に行かせるシステムが採用されるべきであった。   職業技術を身につけて社会にでた成人たちが、もっと高等な技術や管理能力を身につけたいと希望した時のために、年齢に関係なく通学できる「夜間教育」の場所を用意しておけば良い。このシステムを確立すれば財政難に悩む財務省も、遥かに少ない予算で教育目的が達成されるはずである。

今、民主党政権が打ち出している「高校無料化」なんていうものは無策の極にあり、形式だけ「高卒」の資格を与えても何のプラスにもならない愚策である。

 日本の「教育再生」の基本に、義務教育と高校大学を通して全生徒、全学生が学ばなければならない「必須科目」がある。その第一は、「祖国日本が依って立つ根源」を教えることである。第二は、日本国民として果たさなければならない「義務」を教えることであり、第三は社会の一員としての「責務」である。第四は、自分が属する「日本国についての知識」であり、五番目は、国際社会の構成国家として「国際関係」を学ばせることも大切である。六番目には、将来、国際社会で活躍できるために国際語である「英会話」くらいは身につけさせることである。

日本には、二千七百年にならんしする万世一系の皇室を中心に、絶えず斬新的な政治形態を創設して「新体制国家」が営まれてきた。神社仏閣に見られる独創的な木造建築や、織物、蒔絵、水墨、陶芸等も秀逸なものばかりで、その上、漢字、片仮名、平仮名という世界に類を見ない表現方法で、私小説のみならず短歌、俳句という豊かで繊細多彩な表現力を誇ってきた。これらのすべては、日本の伝統文化であり、それに加えた高高度技術国家である。どのひとつを取り上げても、他国の追従を許さぬものばかりで、日本国民として世界に誇れる知的財産ばかりである。

日本政府は、国防や治安のみならず、曲がりなりにも多くの社会的便宜性と社会保障制度、高度な文化生活を国民に与えている。縦横に網羅された交通網もメディアも通信網も、都市機能もすべてが有料とはいえ、最善の品質のものが供給されている。それらは、日本という国家があって初めて享受できる民族的な文明である。国民には、これらの歴史と伝統、国家機能と自分たちの生命財産を守る義務がある。自分たちの生活環境を安全に保つためには、公共道徳を守るのみならず、一旦緩急有る場合には、身命を挺して日本と国民を守る気概を持たせるべきである。これらを学ばせることが立派な人格形成に役立つ。

 明治政府は、国家の安全を守るために、国費で陸海軍の指導者を育てた。全国から集められた彼らは確かに優秀で、世界に通用する「軍事プロ」として育ち、短期間に世界有数の「軍事国家日本」を作り上げた。しかし、彼らを育てる教育過程に重大な欠陥があり、彼らは政府がコントロール出来ないモンスターに育ってしまった。 結果として彼らは、太平洋戦争の惨禍を引き起こして帝国日本を崩壊させたのみならず、三百五十万人余りの国民と将兵の生命を奪い、諸外国に算出不能の犠牲者をもたらした。

その欠陥とは、教育課程で「地政学」、今で云う「国際関係論」を教えなかったからである。近代史におけるいかなる国家も、自国の地理的な位置と近隣諸国との関係を地球規模の観点から理解し、判断出来る能力を備えていないと生存できない、というのが「国家存亡」の鉄則である。まして核兵器が充満し、長距離爆撃機やミサイルが飛び、遠距離から相手国を攻撃可能な現在、この学問はあらゆる国家指導者にとっても国民にとっても最も重要な必須科目である。

 この重要な教科を「軍事プロ」たちの卵に教えなかったために、モンスターに育った彼らは、国際環境下における「日本の位置」が理解出来なかった。確かに日清、日露戦争は止むを得ない防衛戦であったが、それ以後、敗戦までの戦闘は、すべて国家存亡に関係なく、モンスターたちの勲章のために引き起こされた惨禍であった。

 この誤った教科選択の教訓は、現下の「教育再生」を考える場合に、最も重要な課題であり、日本の将来を誤らぬためにも熟慮実施が必要である。「教育再生」なくして日本の将来は無い。

 次回、「教育再生」-(3)で、オーストラリアの実例を引き、教職者の理想像を紹介したい。

2010年2月9日火曜日

「緊急発信」民主党の命運も尽きた・・・

二月八日夜、小沢幹事長は総理との会談後の記者会見で「幹事長続投」を表明した。この発表を聞いた国民の大部分が唖然としたはずである。理由は、二人の政治資金疑惑に対する姿勢にある。総理は、政治資金報告書の虚偽記載で秘書を解雇し税金の未納分を後払い、幹事長は秘書三人が起訴されて公判待ち、本人は「嫌疑不十分」で不起訴、とはいえ二度にわたって検察から事情聴取をされている。その上での続投表明である。

 そこには、お二人の「道義的責任」のかけらも感じられない。

 幹事長への国民の疑惑と不信は、(1) 有罪で受刑中の建設会社幹部が贈賄を告白している、(2) 三度にわたる新党設立と解党時、累計20億円とも推定される「政党助成金」の処理が不明である、(3)10億円をこえる幹事長個人名義、13件の不動産の存在、(4)現在起訴中の三人の秘書は、誰のために虚偽記載をしなければならなかったのか? (5) メディアの世論調査で「辞任すべき」が70%前後、内閣不支持が支持率を上回り、(6)メディアは、小沢疑惑と民主党政権存続についての報道で沸き返るに到った。これらの疑惑と不信と大騒動を抱えたままの幹事長職の続投決定である。

  幹事長にはこれ以外にも重大な問題がある。それは、北京訪問時に「自分は人民解放軍の参謀長である」と胡主席の歓心を買い、習副主席の天皇表敬時の「天皇の政治利用」とも思われる会見強要と宮内庁長官への食言、韓国訪問時、「竹島不法占拠」問題には一言も触れずに、天皇訪韓や天皇家に朝鮮半島人の血液が流れていると迎合としか思えない発言した上に、永住外国人参政権の問題に触れるなど、日本の国会議員としてあるまじき発言を繰り返してきた。 

 鳩山総理は、これだけ多くの問題を抱えている幹事長を続投させた。その上、良識があるはずの民主党党員からは、ごく一部を除き何ら批判の声が一切聞こえてこない。

 日本人の常識として、「部下の責任」は上司が負い、部下を庇うのが本来の姿であり、男の美徳でもある。ひと昔前までは、「誠」を持つ大和武士は部下の犯した罪を恥じて切腹したものであった。それを、秘書三人の行為を「知らなかった」と責任転嫁をして罪を逃れる浅ましい姿には、政治家としての資質を疑わせるものであり、人間として卑怯極まりない恥ずべき行為である。

小沢一郎民主党幹事長は、政治家としてよりも人間として、これらの疑惑にたいする「説明責任」と「道義的責任」を如何に考えているのか、この説明は政権与党の幹事長職にある者の責務である。その責務を果たさなくて良いと考えている理由があるのなら知りたいと思っているのは小筆だけではないであろう。

 検察の小沢追及は必ず継続されるものと信じている、それこそが「日本の正義」だからである。しかしその前に、日本国民が小沢疑惑と民主党の姿勢、それにも増して鳩山内閣の存続に審判を下すはずである。

今回は「緊急発信」につき、「教育再生」―(2) は、次回にします。