2010年8月14日土曜日

8・15の憂鬱

6月26日から一ヶ月、酷暑の日本へ行って来た。所用を済ませた後、JR Passを使って四国を一周した。
四国南西端の宿毛湾沖は、69年前、太平洋戦争勃発の直前、日本海軍の空母群がハワイの真珠湾に停泊している米国海軍の主力戦艦群を殲滅するため、艦載機の猛訓練をした場所であり、南東端の甲浦は、戦争末期、日本列島東岸の太平洋を我が物顔に遊弋した米軍機動部隊から飛来した艦載機群とサイパン、グアム島を飛び立った「空の要塞、B29」が、日本全土で無差別爆撃と機銃掃射を繰り返した時の通過地点であった。そんな理由で、以前から一度は眼にしたいと願っていた土地であった。 
平和で長閑な四国巡りの随想とは、前大戦のことであり、戦後日本の姿であった。

 昭和14年9月、欧州での第二次世界大戦はドイツ軍の攻勢で始まり、それに刺激された日本陸軍は「バスに乗り遅れるな・・・」とばかりに、なんら国力への配慮もなしに、16年12月8日、対米英蘭豪との開戦に踏み切った。日中戦争の帰趨も不明な折に新たな戦線を開くなどという事は、素人にも判る不条理で理解不能な「戦理」であった。しかし「緒戦の勝利」に、陸海軍首脳のみならず、日本国民までが酔い痴れて、果てしない戦線の拡大に没頭していった。17年6月、海軍は虎の子の空母4隻をミッドウェー海戦で失い太平洋での覇権を失った。しかし海軍は「不沈空母」という不可解な名目で、南太平洋諸島に陸戦隊を上陸させて、次々と航空機基地を建設していった。陸軍も補給さえ困難な遠隔地の無数の島嶼群に部隊を派遣して守備に当たらせた。
しかし攻勢を取り戻した米機動部隊は、日本軍の島嶼守備隊の頭越しに戦線を押し進め、19年7月にはサイパンを落してB29の基地を建設し、日本全土の「焦土作戦」を開始した。
 太平洋を北上してくる米軍を防ぐ手立てを失った日本軍は、「特攻作戦」という「邪道作戦」を採用して、6千人に近い若者を死に追いやった。20年4月には沖縄が陥落したが、軍部首脳は「本土決戦」を呼号して本気で竹槍まで用意した。しかし、8月6日と9日の原爆投下は日本の継戦意欲を奪い去り、天皇の聖断により降伏した。

 これが開戦から敗戦に到る惨禍の過程であるが、小筆が四国周回で考えた事は「なぜ日本人は、軍部の独走を抑えられなかったか・・・」という疑問と、戦後、未だに展開されている「言葉のまやかし」と「融通無碍の非常識」とであった。

 「私見を述べずに、強弁に迎合する」、「長い物には巻かれろ」等が、日本民族の特性で、重大な欠陥である。開戦に到るまでの国民の「軍部支持と熱狂」がそれであり、敗戦を契機に、国民全体が「反戦思想」に傾き、戦時中、軍部に迎合した人たちまでもが「職業軍人」のみならず「召集兵」にいたるまで、すべての参戦者を「戦犯」扱いにして差別したことであった。シベリアに強制収容された日本軍捕虜の一部は、ソ連軍に迎合して「意識的に洗脳」されて捕虜収容所内の権力を握り、同調を拒否した日本人同胞を「反動分子」として過酷なまでの扱いをして多くの死者をだした。
 戦後の日本政府は、連合軍の「押付け憲法」を何の批判もせずに受け入れた。それが「第九条の不戦条項」である。世界の何処に「自国の防衛」を自ら放棄している国家があるだろうか? その上、「軍隊を持たない」はずの日本が、世界でも上位九番目に入る強力な自衛隊を保持している。
国軍を自衛隊、歩兵連隊を普通科連隊、砲兵を特科、工兵を施設科、将兵の階級でさえ「大佐を一佐、少尉を三尉」と国語辞典にも出てこない日本語を使っている。
「非核三原則」なるものを議会決議しながら、平気で米軍の「核の傘の下」で安逸を貪っているのみならず、国際法に則って合法的に締結された被占領国との「和平条約」と、膨大な「戦時賠償金」を支払って清算したはずの「太平洋戦争の傷痕」を、戦後歴代の首相や国会議員たちがアジア各国を訪問する度に、前大戦時、たった四年間弱の占領期間を「日本の侵略」として謝罪し続けてきた。その後も何か問題が発生する度に、地元政府が驚くほどの経済援助を提供し、外務省はODAなる「開発支援資金」を無制限といえるほど与え続けている。中国などは、今までの援助総額が一兆円を遥かに越えているのに感謝の言葉ひとつ無く、国家に殉じた将兵を慰霊する「靖国神社参拝」を批判し続けて、未だに政府主導と思われる反日活動は止まる所を知らない。

欧米のアジア植民地支配は350年近くに及んだが、どの国の首相が自国の植民地支配を謝罪したであろうか? 良い例が香港返還時に、バッテン総督が「英国は、香港住民に近代文明を伝授した・・・」と誇らしげに発言したと云われている。
 欧米社会では、「謝罪」とは自らの罪悪を認める事であり、その謝罪には当然、金銭的な「補償」や「処罰」が付随している。だから英国もフランスもオランダ、スペイン、ポルトガル、アメリカでさえも、自分たちの植民地支配を絶対に謝らないのである。
先日、広島の原爆慰霊祭に出席したルース・アメリカ大使が「謝罪」しなかったのは「けしからん」とマスコミが記事にしていたが、彼は当然の事として、自国の「原爆投下」に罪悪感を持っていない。従って「謝罪する」気持ちなど微塵もないのであろう。それが世界の常識であって、日本人の「謝罪癖」が異常なのである。

テレビのニュースでは、毎回どこかの会社の首脳陣が雁首を揃えて謝罪する姿が映し出されるが、誠に不思議な光景である。それが証拠に、JR宝塚線の脱線事故で謝罪したトップたちが、唇が乾く間もなく、事故調査委員を篭絡しようとさえした、と報道されていた。要するに、日本人の「謝罪」とは、その場逃れの便法に過ぎないのである。

 先日のニュースには驚かされた。管首相が、日本の「韓国併合百年」にあたり談話を発表した内容であった。新聞記事によると、その内容は「多大な損害と苦痛を与えたこと」と「国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけたこと」に「痛切な反省と心からのお詫びを表明する」と公表した。管直人が個人的に遺憾に思うことは自由である。しかし「日本国首相」としての発言は、全く意味が違う。日韓の間では1965年に「日韓基本条約」が締結され、「無償、有償、民間借款」等で、当時の韓国国家予算の三倍近くにも及ぶ合計8億ドル余りの賠償金を支払ったことで、両国間に横たわる問題の「すべては解決済み」であった。
36年間弱の日本の朝鮮半島支配は、五世紀以上にわたった清国支配と帝政ロシアの半島侵略意図に起因する。当時の半島は、現在の北朝鮮以上の惨状にあり、積年の陋習で疲弊しきった李王朝から朝鮮民族を救済する目的もあった。併合後、日本の半島への投資は、国内の法整備、インフラ建設のみならず一般教育の普及から公衆衛生の充実、税制、農政改革から産業投資にまで及び、半島全域の様相を一変させた。台湾の行政と共に、人類史上最も成功した異民族統治であった、と見ている。

確かに「異民族の支配」を受けた人たちの屈辱感には同情出来るが、「併合」以前、李朝が抱えていた「国家的危機と国民の惨状」との比較なしに「日本の植民地支配」のみを論じても意味が無いし、それ以上に、現時代の「社会常識」をベースに百年前の事象を批判したり謝罪したりする事こそ無意味である。
敗戦後の日本は、韓国との国交回復以来、莫大な経済援助を続けて韓国の経済的自立を支援した。その支援には、当然のことながら「植民地時代の無言の贖罪」の意味が含まれている。その解決済みの問題を、管首相は自ら蒸し返そうとしている訳である。「謝れば済む」との考えは、諸外国の常識からすれば、将に「詭弁を弄して、相手を愚弄する・・・」ことに他ならない。

 太平洋戦争の功罪は、積年の「アジア植民地の解放」と「それらの国の独立達成」であり、他方では、今まで彼らが手にした事もない多額な戦時賠償金を日本から貰ったことにより、新興国、政権首脳部の涜職を招いた事実であった。
 以前、村山首相がマレーシアを訪問した際に、マハティール首相に謝罪をしたら、「日本は悪いことばかりした訳ではない・・・」と云われてびっくりしていた、との記事を読んだことがある。日本人は、前大戦のトラウマから脱却し、「まやかし言葉」の乱用を廃して、確個たる自信を持って国際社会と対面する必要がある。
 日本では8月15日を「終戦記念日」と他人事のように呼び慣わしているが、外国では、すべてこの日を「対日戦勝記念日」と呼んでいることを付記しておく。

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