2015年3月21日土曜日

Blog-49 戦後70年を迎えて、

Blog-49 「戦後70年に際して」  今年8月15日、日本は70年目の「敗戦記念日」を迎える。小筆が「敢えて敗戦」と云う言葉を使うのは、日本人全体が74年前の12月8日に開始された帝国日本の「対米英蘭」戦争開戦について、複雑な思いに駆られ、未だにその「呪縛」から解放されていないからである。その「複雑さ」とは、この大戦が「祖国防衛戦争」であった、「東南アジアの植民地解放戦争」であった、いや「軍国主義日本の侵略戦争」であった考える人たちに加えて、「日本弱体化継続」を意図する「外国勢力」の手下となったグループが混在しているからである。  この「大戦終結」に当たり、昭和天皇は「終戦の詔勅」を宣下され、他に帝国陸海軍の最高責任者であられた「大元帥命令」として、全軍に戦闘中止と各々現地の敵軍への降伏と武装解除後の帰順を命じられた。その結果、帝国日本陸海軍は、「戦闘を中止」して敵対国の捕虜となった。日本軍の中には、中国戦線のように、未だに「優勢を保っていた」地域もあれば、対米戦線のように「抗し難い」敵軍の攻撃に晒され、壊滅寸前であった戦線もあり、満州戦線のように、「日ソ中立条約」を破って進撃してきたソ連軍のように、完全な「国際法違反」の敵軍に降伏した戦線もあった。いずれの日本軍も「ポツダム宣言」の受諾で、武装解除の後は、それぞれの故郷へ戻り、「平和な市民生活」を送る事が「保障されている」と信じたからこその「無条件降伏」であった。しかし実際は、戦犯裁判が開始され、一千余名の刑死者と5,600人余りの長短期受刑者を出した上に、ソ連のように「65万人余の在満将兵」をソ連領各地に連行して「重労働」に就かせ、6万余の死亡者を出したケースもあった。これらの行為すべては、降伏を受諾した日本政府の「想定外」の行為であり、むしろポツダム宣言に違反した「復讐行為」でさえあった。  帝国日本は、米国の「陰謀」によって対米開戦を強いられた、とする説と、それを「裏付ける」数々の証拠が、時と共に暴かれている。この「米国の陰謀説」は、ほぼ正論であろう、と云うのが一般論になりつつある。その嚆矢の第一は、フランクリン・ルーズベルト大統領の「極端な日本嫌い」であった。彼の嫌日感情が、日中戦争時の「援蒋物資」の無償提供であり、米空軍の退役飛行士による志願航空隊「フライイング・タイガー」の中国戦線への派遣であり、日本への石油、鉄材の禁輸、、在米資産の凍結、日系移民の迫害、等々で、対日開戦への強い意志があった、と云われている。第二は、日本占領軍の最高司令官であったマッカーサー元帥が、解任1年前、ウェーキ島でのトルーマン大統領との会談時、「極東軍事裁判は違法であった」との発言と、解任帰国後、ワシントンの上下両院議会、「軍事外交委員会」での「開戦直前の日本ほど経済的に追い込まれたら、誰であろうとも開戦せざるを得ない」、たとえ自分が「東条であっても、開戦したであろう・・・」とまで発言した、と記録されている。これらの証言から見ても、日本の開戦には「正当性」があり、そこまで「日本を追い込んだ」のは、欧米列強側の陰謀であったと覗わせるものであった。その他、ルーズベルトの個人的な友人であったアメリカの鉄道王、エドワード・ハリマンが、日露戦争後、日本に「満州鉄道」の共同経営を申し出て「断られた」遺恨が、ルーズベルトの「反日感情」にも影響を与えた事や、彼を支えたホワイトハウスのスタッフの中に、ソ連のコミンテルンから送り込まれたスパイが多数いて、「日米開戦」を煽ったとの話もある。これも戦後70年の時間が解いた「謎」であるとも云えよう。  この陰謀説の信憑性の「鍵」は、米国が独立戦争で英国を破り、独立を果たした後、現住民インデアンたちの領地を次々と収奪した後、北米南部を占めていたスペインとの戦いで、テキサス、カリフォルニアを領有し、対仏戦争でカナダにフランス勢力を閉じ込める事に成功した。その後はカリブ海を支配下に置き、ハワイを傘下に加え、キューバで問題を起こした後、対スペイン戦争勝利の結果、フィリピンとグアム島を領有して太平洋の覇権を握った。その後は、混迷する中国大陸とその北方に位置する「満州大陸」を傘下に治めれば、中国大陸の南方で、フランスとイギリス、オランダとの「植民地の住み分け」を確定する事が可能で、アメリカの「アジア覇権」は有終の美に輝くはずであった。  ところが、300年近くも「鎖国」をしていた日本が「明治維新」という大政変を実施して、目覚しい勢いで「近代化」を成し遂げた後、新興日本が、米国の予想に反して、日清、日露両戦役において勝者となり、台湾と朝鮮半島を入手したのみならず、その「植民地経営方法」は、16世紀以降、欧米列強が採り続けてきた「有色人種国」の搾取ではなく、「領民同化と生活向上」の施政を始めた。この日本式行政は、四百年にならんとしていた「欧米列強の植民地経営」を根底から揺るがす大事件であったから彼ら列強は、「何としても」これ以上の日本の「進出」を許す訳にはいかなかった。その結果が、米国西部への「日系移民制限」であり、在米日系人への各種迫害となって表面化してきたのみならず「日本潰し計画」の根幹であったようだ。  1905年1月、厳冬のセント・ぺテルスブルグでの農民暴動「血の日曜日」は、ロシア帝国崩壊の初動となった。有史以来ロシア各地で虐げられてきた多数の農奴たちと労働者たちが「待遇改善デモ」に参加した。デモ頻発の初期は、農奴や労働者たちの「自然発生的な集団要求」であったが、ドイツ亡命から戻ってきたレーニンたち「共産主義者」が穏健なデモを暴動を煽り立てると、「革命の火の手」はロシア全土に広がり、瞬く間に「共産主義ソ連邦国家」が成立した。後継者スターリンは、500年近くも続いた「ロシア帝政」を共産主義武力革命で破り、共産党支配の「ソ連邦」を確立した経験を元に、彼の野望は、全世界を自分の独裁下に置き、支配することに燃え上った。共産党国際同盟を意図した「コミンテルン」の支部を各国に設置しようとした結果、欧米諸国のみならず、日本を含むアジア諸国、特に混迷を続けていた「中国大陸」にまで、活動を浸透させて行った。その中でアメリカは、宗主国イギリスに対する「革命達成」で独立国になり「アメリカ合衆国」を形成した遺伝子があったために、ロシア的な「共産主義的思想基盤」を必要としなかった。その鉄壁にスターリンが挑むには、何としてもホワイトハウスに「スパイ」を潜り込ませて「オルグ活動」を活発化させる方法しかなかった。そこで、コミンテルンは、一説によると、アメリカ議会とホワイトハウスに、百数十人のオルグを潜り込ませ、合衆国政府を篭絡させようとした。これは、第二次大戦の終結後、米国で吹き荒れた「マッカーシー旋風」として知られる「アカ狩り」で、かなりの数の「共産主義者」と「共産主義同調者」が槍玉にあげられ、中には自殺に追い込まれた者たちもいたことでも明らかである。そのコミンテルン運動が、スターリンの思い通りに機能しない「帝国日本」を、米国のオルグを使い、「日本潰し」に掛かったという話も、この「陰謀説」には含まれている。結果として、日本は「大東亜戦争」には完敗したが、アジアの植民地総てを解放させたのみならず、「戦時賠償金」の支払いで、彼ら総ての「独立資金」まで用立てした。  日本は、70年前の敗戦によって「何を」失ったのか? 小筆が最も痛切に感じ、忸怩たる思いに駆られている事は、日本人全体が「アメリカの戦後教育方針」によって「日本精神」を失い、「無責任人間」に成り下がった事である。国家に対する責任、行政に対する責任、他人に対する責任、要するに、戦前は「誰も」が暗黙の内に美徳として身につけていた「個人的責任」の総てを失ってしまい、母国日本を「身勝手な社会」にしたことである。日本の安全を誰が守るのか? いい加減な政党を支持した結果の責任は? 自分の子供の不始末の責任や沖縄の米軍基地に「反対」して、基地が無くなった後をどう考するのか? 「憲法九条」が本当に日本を守ってくれるのか? モンスターピアレントたちは子供への「躾義務」を感じないのか? 外国人労働者に無制限にビザを発行して、国内治安に責任を感じないのか?  等々、戦後70年を経た社会現象として噴出してきた問題の総てが、「終戦」ではなく「心の敗戦」の結果、「現在の日本社会」の混迷の始まりであった。日本は戦争に負けただけではなく、大切な「日本精神」まで失ってしまったのではないのか? これらが、今小筆が痛切に感じている「最大の痛恨事」であり、安倍内閣の「日本再生」に期待する所以である。それにしても、70年度の「安倍談話」が待ち遠しい昨今である。  来週火曜日から、2週間余り訪日する。「冷酒と鰹の叩き」もさる事ながら、4月4日、午後、桜満開下の「靖国参拝」と「軍歌を歌う会」に参加して「愛国精神」に陶酔する楽しみが待っている。この間の連絡は、090-3008-7549. まで、豪州太郎