2012年3月9日金曜日

Blog-(28), 「倫理亡失の日本社会」

Blog-(28)
9-3-2012
「倫理亡失の日本社会」
 ほんの4、50年前までの日本では、「そんな事は人倫に悖る・・・」とか「そんな事をしたら他人様に笑われる・・・」、「お天道様に顔向けできない・・・」或いは「そんな恥ずかしい事が出来るか・・・」等の言葉が、よく日常会話に出ていた。日本の古き良き伝統で、自分の行動を「他人の眼」で見て自己規制をする習慣が一般社会に浸透していたからである。この道徳律に基づいて「自己規制」する生活習慣が「不道徳な犯罪」を未然に防いでいたのだと思っている。この社会常識は、封建時代以前から培われていた日本古来の神道精神に加えて、多分に儒教思想が加わった伝来仏教の教えが合わさって日本独特の「倫理観」を形作り、民間に自然伝承したものであった。
 この倫理観は、明治維新以降、終戦まで、学校教育に「修身科目」として取り込まれて、児童たちの公徳心の涵養と共に、一般の「社会規範」として機能していた。従って、すべての日本人が「何らかの形」で社会共通の「自己規範」を身に付けていたから、貧しいながらも「人情味豊か」で「安泰な」社会生活が営まれていたのだと思う。
 しかし最近では、このような言葉を発する日本人がいなくなったのみならず、死語にさえなったのか、殆ど聞かれなくなった。戦後、学校で「修身科目」が教えられなくなったからであろう。先日、「公民」の教科書を見たが、所謂「公徳精神」の教えは無く、社会全般の極一部に辛うじて「家族関係」の重要性が無機的に述べてあるだけであった。現代の学校制度が「道徳教育」を無視している証拠であろう。戦後教育の最大欠陥は、「修身」教育の廃止による国民道徳の荒廃である。
 その結果と云うべきであろうが、信じられないような理不尽な事件が続いている。その最悪で、最も卑劣なケースが、身寄りのない老人を対象にした「振り込め詐欺」である。孤独に苛むお年寄りの弱みに付け込んで「金を騙し取る」などは、人間として最低の犯罪である。それに加えて、か弱き「幼児虐待」事件がある。いたけない無抵抗の幼児に暴力を振るう、想像しただけで身震いがするほどおぞましい行為を平然とする大人の存在。或いは自己本位の「モンスター・ピアレント」が学校に押しかけて、教師に無理難題をごり押しする、等々、すべて抵抗できない社会の弱者に対する犯罪である。以前は、お年よりや子供たちは、「社会全体で守ってあげる」存在であり、自分の個人的要求は「分をわきまえて」謙虚に、そして控えめにするものであった。 
 それにも増して最近頻発している企業ぐるみの事件がある。小は、レストランの「残り物」の使いまわし、「食肉偽称」、ビル建築の「強度偽装」、「インサイダー取引」、等々で、身勝手極まりない仕業である。大手ではオリンパス、大同製紙、マルチ商法、AJT事件と天下り厚生官僚の関与、東電原発事故後、明るみになった下請け企業、酷使の実態と、自分たちの過失で起こした大事故による損失を、電気料金の値上げで補うと発表したケースのように、「自らの過失」で発生した損害を被災者である一般市民に転嫁し、損害額を肩代わりさせる、という浅ましく、無責任極まりない姿勢である。これら一連の事件の頻発で、どのテレビニュースを見ても、毎日誰かが頭を下げて謝罪しているのが実情である。
 これら上に、国会と中央省庁の醜態がある。昨年、最高裁は、「一票格差」を違憲と判決したが、両議院はこの判決を一年間も放置したまま平気な顔をしていた。これは、彼ら衆参両議員たちの「憲法」と「三権分立」に対する根本認識の欠如であり、議員資格の欠落である。国政を審議するのが職務であり、義務であるはずの議員たちが、政党間の主義主張の相違で「審議拒否」をするために、審議が膠着して全く進展していないのに、臆面もなく、歳費と政党助成金だけは貪っている永田町族の浅ましい姿に通じている。
 中央省庁の官僚は、国家と国民に尽くすべく雇われた「公僕」のはずである。しかるに、官僚の本分を忘れて、「手抜き目的」の行政法人を乱立させた上に、お互いの「縄張り争い」と利己的な「天下り」を国益に優先させ、「省益目的」のため行政まで歪曲させている。
 これらの行為すべての原因は、自分の職責に対する「誇りと義務感」の欠如であり、彼らの精神の根底に流れているのが、人間としての「倫理感」と「責任感」の亡失が原因である。このような現象が出現し続けている現代の日本社会は、国民全体が共有すべき「道徳律」が失われた結果であり、日本社会の将来にとって、これほど重大な危機はない。
 これらの事件に関する詳細は、その都度マスコミで報道はされているが、「何故、こんな事件が起こるようになったのか・・・」と云う「日本社会の根源」に触れた記事に出会ったことがない。日本の将来に関する由々しき大問題であるから、今回はこの問題について私見を述べる。
 日本以外のほとんどの国が、何らかの宗教を「国教」として定め、その教典を生活規範として日常生活を営んでいる。仏教、イスラム、ヒンドー、カソリック、キリスト教、正教系、その他、諸々の原始宗教、等々、大小無数の宗教グループが「民族単位」、「国家単位」で存在しているが、その各々が、国内法と、独自の教理の両方に従って生活しているために、社会全般の均一性が保たれている。国民のすべてが、「同質」の思考と生活規範を共有しているために、精神的にも非常に安定した社会を構成している。
 しかし日本の場合はどうであろうか? もちろん、一部には熱心な信者がいて、彼ら自身の宗教コードに従って日常生活を律してはいるが、その比率は世界水準に比べるとゼロに近い。日本民族が「無宗教」と云われている所以であろう。こと宗教に関しては、日本人ほど「大らかな」というか「無関心」な民族は珍しい。 
 古来、日本には、自然信仰の「八百万の神」がいて、太陽信仰の神道があり、幾多の仏教系列と新参のキリスト教系、その上に新興宗教まであり、一見「多神教国家」に似ているが、他国からは「無神論国家」と見られている。理由は、例えば、我々の日常生活において、新生児の誕生に際しては「初詣」とそれに続く「七五三」でお宮参り、お寺で「法事」、「クリスマス」を祝い、「神前結婚式」を挙げて、死んだら「お寺」で葬式をした後、お墓に祀られる。中には、神前結婚式の後、外国へ新婚旅行に行って、再度「教会」で挙式するカップルさえいる。その上で、念入りにも「成田離婚」まで用意されている。このような状態であるから、宗教が日本人の「生活規範」になりえない。そんな理由から、歴史的に日本独自の「道徳規範」が自然発生して「社会生活」の潤滑油として機能し続づけてきたのだと思う。 
 それが敗戦により「修身教育」が廃止されたのみならず、子供たちが囲炉裏や火鉢を囲みながら祖父母から聞かされた「躾」や「身嗜み」或いは「公徳心」の話が、自然に人格養成に役立っていた。それらが核家族化や修身教育の廃止によって、日本人が寄って立つべき、共通の社会規範が消失してしまったと云えよう。
 オーストラリアの国教は、Anglican, 英国教会で、国勢調査によると人口の70% 近くが「アングリカン」と答えているそうだ。その次がカソリックで、その他の宗教は中近東からの移民たちが持ち込んだイスラム教が目に付く程度である。従って、国民の大半は、大なり小なり「新約聖書」が規範している規律の影響を受けて生きている。小筆は、三十才の時、香港のバプチスト教会で洗礼を受けたクリスチャンであるから、自覚はしていないが、日常生活も多分にバイブルの規範に制約されているのではないか、と思っている。従って、オーストラリア人たちとも、多分に共有している「生活規範」があるために、あまり日常生活での違和感はない。今では、むしろ日本人との思考の偏差に驚く機会が多いいために、想定思考との誤差、つまり日常生活における「常識的行動」の差異に戸惑うことが多々ある。
 戦後日本人は、軍国主義に懲りた占領軍の政策で「寄ってたつべき」道徳規範を亡失した。その結果、道徳心のみならず、国内、国外で「共同生活」をするのに必要な「社会共通の生活規範」まで失ってしまった。国旗掲揚、国歌斉唱の意味が分からない教師たちの存在が、その典型である。「日本再生」の第一歩は、「教育再生」であり、国民意識の改革から始めなければならない。現、永田町族の見識では、当然無理である。小筆、豪洲太朗が「維新の会」、「石原新党」に期待する理由がお判り戴けたと思う。
 豪州の気候、近年変調を来たしているが、地震を憂う日本へ19日から三週間弱訪問。発鰹と冷酒、それに「桜見物」が楽しみだ。その間、連絡は090-3008-7549.か、メールはkentokura@hotmail.com へ、「豪洲太朗のシドニー通信」もご通覧を請う。