2010年1月28日木曜日

教育再生(1)

 学校では学級崩壊、校内暴力、いじめ、登校拒否、家庭では幼児虐待、閉じこもり、自閉症、自殺、モンスター・ピァレント等々、シドニーで流れ聞く日本の教育界と家庭で発生している諸問題は、国家危機にも値する異常事態としか思えなく唖然としている。

 現在の日本人は、世界諸国から比べると遥かに教養があり、民度も高く、より豊かな文化生活を享受しているのに、何故このような社会現象が発生しているのか? そして日本政府はこの惨状をいかに理解し、いかなる対策を考えているのか、果たしてそこには教育行政再生の対する「百年の大計」があるのか? この祖国の悲惨な現状を「国家最大の危機」と見て心配する毎日が続いている。

 かつて自分が育った子供時代の日本は、戦後間もない昭和20年代。当時日本には何も無かった。街は米軍の空襲で焼け野原、大人たちは栄養失調で痩せ細った体を貧しい服で包みながら仕事や食糧を求めて闇市を徘徊する毎日であった。どの家庭にも、お金も食糧も生活物資も無く、焼け残った学校では、教材はおろか教科書、文房具さえ満足に無く、ましてや玩具や電化製品なぞは夢にも浮かばなかった時代であった。しかし、大人も子供たちも欲しい物は山ほどあってもそれに耐え、「明日の日本」を信じながら懸命に働き、あるいは勉強に熱中していた。貧しくて何も無い家庭でも、溢れるほどの愛があり、隣近所からの隣人愛がこれらの困窮生活に耐える力を分け合っていた。

 しかし、今からは想像も出来ない貧困生活が克服され、日本は未曾有の経済大国になり、「豊饒の社会」が出現した。収入が増え社会保障が実施されて、インフラの整備と共に国民の生活が向上した。大部分の国民が快適な住宅に住み、車を乗り回す街にはすべての品物が溢れ、子供も大人も欲しい物すべてを手にできる社会になった。しかし「精神の荒廃」としか云いようの無いこの惨状の出現である。

訪日する度に日本社会の変調の兆しは見えていた。最初に気になったのは、若者たちが自己中心の行動を取り始めたことである。若い娘が電車の中で夢中になって化粧や携帯電話に専念し、お年寄りが目の前に立っていても席を譲ろうとしない事、それを叱りもせずにただ傍観する大人たち。学校からの帰宅途中と思われる男女生徒たちが大声で傍若無人に話し合い、奇声を上げているかと思うと、男の子が通学用の鞄から鏡とブラシを取り出して、無心に自分の髪型を直し続ける、少しだけ席をずらせば、もう一人座れることにも気づかない様子、等々、自分たちが「社会の一員」であることの自覚が全く見られないことである。社会人になったばかりに見える若者たちが、バックから分厚い漫画雑誌やマンガ本を取り出して読み耽ける姿、どのテレビ局も、ゴールデン・アワーの馬鹿騒ぎとしか見えないバラエティー番組の氾濫、無意味としか思えない料理番組、タレントを集めただけで低質なニュース解説、どの局も揃って同じような低俗な番組を終日流し続けている、等々、全く異常な姿が当然としてまかり通っている日本社会にしばしば愕然とさせられている。

江戸末期、日本人は西欧列強の侵略から国を守る手段として明治維新を断行した。国家統合の頂点に天皇を戴き、議会政治と教育行政を整備して義務教育制度を採った。さらに国政近代化のために「高等学校」と「帝国大学」を設立して官僚を育て、国防を担わせるために陸海軍士官学校を設立して、ともに全国から優秀な青年を集めて国費で育成した。その一方、江戸時代からあつた職人育成のための「徒弟制度」を残して社会を支える技術者群を確保し、彼らの質的向上のために小学校への登校を義務化した。

学校では学問のみならず、天皇の名前で教育勅語を発し、日本人としての矜持と社会規範を教え、日常生活を潤滑化させるための公徳心を醸成する徳育教育「修身」とその実践を点検する「操行」を必須科目とした。さらに政府は、全国民に「普遍の愛国精神」を求めて皇室崇拝、国歌、国旗への忠誠心を教えるために、神代から綿々と続く「日本史」を教えた。青年男子には徴兵制を敷き、自分たち自身で国防をまっとうさせるために「軍人勅諭」を発して軍人としての在るべき姿を示した。

家庭では、祖父母、両親、兄弟が日常生活を共にしながら「躾」と「惻隠の情」(老幼への労わり)を身につけさせて、これらの制度を補っていた。

このようにして明治、大正と昭和前期の日本は、「国家形成」と「日本人育成」に「国家が望む国民の姿」を大前提とし示し、その実行に努めてきた結果、日本は世界一識字率が高く、清廉潔白な国民を持った上に、最も安全な国であるという評価を得た。

日常生活は貧しくても、社会の安寧秩序は維持され、国民のすべてが「日本人としての誇り」を持ち、国家の将来に夢を抱き、自己の利益のみならず「国に尽くす」ことの喜びを感じながら日常生活を送ったために、家庭には常に家族愛と敬老精神が溢れ、巷にはいつも礼譲精神が行き渡っていた。

この日本固有の社会が変貌し始めたのは、日本の敗戦が契機であった。進駐してきた連合軍司令部は、軍国主義に走った「帝国日本」の牙を抜くために「新憲法」を押し付け、「民主教育」の美名の下に、戦前の教育方針の大転換を命じた。これに同調した左翼系政治団体が便乗して、教育の根本を覆して「反戦教育」を徹底し、天皇制と国歌、国旗さえも否定した上に、民主的自由教育として公徳心、修身科目も教科から外させた。「愛国精神の扶植」は侵略戦争に通じる、とした教育を実施しさせてきた。日本政府も文部省も一般大衆までもが、悲惨な敗戦体験から、「教育の本質」に立ち入ることなしに、この「新しい民主教育」を「善」として受け入れた。終戦初期には、戦前に教育を受けた教師たちが、新教育方針に戸惑いながらも公私に渡り生徒たちを指導してきたが、彼らが教育界を去り、戦後教育しか知らない教師たちが主流を占め始めてからすべてが変容してしまい、のちには「ゆとり教育」とかで、生徒への授業時間さえ短縮してしまった。その結果、教師たちは生徒をコントロール出来なくなり、親たちは子供の学力を補うために塾へ通わせねばならなくなった。

このような環境の中で育ったのが、現在日本の教師たちと問題児たちの親である。まともな教育環境を知らない彼らには、この問題の根幹が理解出来ずに、共にただオロオロしているだけで、お互いに責任の転嫁をし合っているのが現状である。

彼らと同様に政府も文部科学省も、この国家的危機状況にある「問題の根幹」が認識出来ないために、対処方法が見付からずに未だに「根本的な改善策」を示せないまま今日に至っている。

国際社会で公約した大言壮語を、口元が乾く前に政権を投げ出して反故にする宰相たちが続き、「トラスト・ミー」という「信用できない言葉」を平気で繰り返す首相を育ててきた戦後の教育行政の欠陥を「日本将来の問題」として真剣に考える時期が到来している。

次回、その解決策について私感を述べたい。

2010年1月9日土曜日

「民主党政権の怪」 9-1-2010.

 昨年九月の衆院選では、民主党が予想以上の大勝をした結果、国民は新しい政治の始まりに大いなる期待感と多少の不安感を懐きながら百日余り新政権を見守ってきた。

 戦後60余年続いた自民党政権の果たした役割は、敗戦の灰燼の中からの「奇跡の復興」を成し遂げ、「日米同盟」の確立と「世界第二の経済大国」を創造して、それなりに政権与党としての役割を果たして来た。しかし、過去数年間の自民党の体たらくは、国民全体に限りない閉塞感と政治への諦観を植え付けたのみならず、国民の審判を仰がない総理大臣職のたらい回しと無責任な投げ出しの連続で、国民の徹底的な不審と批判を買った結果が民主党政権の出現であった。民主党の大勝は、決してマニフェストへの共感でも指導部への期待感でもなく、ただ「嫌自民票」の集積の結果であった、と見ている。

 そして新政権が発足したが、国民はまず最初に、鳩山首相の優柔不断な態度と曖昧な指導力、それに加えて意味不明の「友愛精神」とやらを奉じている姿に不安を抱かされた。それに加えて小沢幹事長の「数の力」を絶対視した姿と、強引ともいえる政策介入と党員の引き締め、漏れ聞こえてくる党内の言論統制の実態、等々に「はてな?」との疑問符を感じた。それに加えて、民主党の枢軸たる党主と幹事長に共通した政治資金疑惑、共に公設秘書が起訴される異常事態を招いている現実は、国民の期待を完全に裏切った。その上、この最高幹部二人に対する疑惑について、民主党議員団はおろか地方党員からも何ら批判の声も聞かれないという異常事態をどう判断したら良いのであろう。優秀な若手議員や党員が当然いるはずの党内から、この党幹部の異常事態に抗議や批判のの声が聞こえてこない状態は、民主国家日本にあっては、まさに異常としか表現出来ない状況である。

 国民は「新鮮で清廉潔白な政権党の誕生」を期待して民主党に投票したはずであった。しかしその期待は、すでに百日余りで裏切られようとしている。特に幹事長が率いる六百人余りの訪中団の胡主席表敬は、朝貢外交と比喩される醜態であったし、その直後に来日した習副主席の天皇陛下表敬訪問の強要が発覚し、それを批判した宮内庁長官への生半可な憲法論を振りかざした幹事長の発言は、政治を超越する天皇に対する不遜不敬の表明であり、与党幹事長としての品性のかけらも見られず、皇室崇拝を国是と考える国民の顰蹙を買った。

 外交面では、日本自立の基盤である「日米同盟」に対する鳩山政権の曖昧な姿勢は、米国の対日不信感を醸成し、日本経済の生命線である中近東シーレーンを守るインド洋給油活動の中止は、その理由さえ意味不明であった。その対価として決定されたのが、アフガン政府に対して4千5百億円にものぼる民生中心の経済的支援をする、という決定には唖然とさせられた。これも鳩山総理のみが唱える「友愛精神」の発露なのかも知れないが、汚職疑惑にまみれたカルザイ大統領のみならず閣僚の六割近くが国民から不信視されているアフガニスタン政府に、どうして公正な支援が可能なのか・・・、その辺の説明も無いままである。

 沖縄の米軍基地に関しても、軍備強化に邁進する中国と核装備を進めつつある北朝鮮の危険性が消えた訳ではなく、まして彼らの脅威に対抗出来るだけの抑止力が日本に装備された訳でもないのに、駐留米軍の移転を求めている政治感覚を心配せざるを得ない事態が到来している。
 沖縄と日本各地に駐留している米軍の存在は、いまだに台湾併合を目指す中国と南侵攻の野心を捨てていない北朝鮮軍への抑止力であり、米軍の存在が東南アジア、中近東、アフリカの平和維持に貢献している現実を認識するならば、日本国内の事情、まして連立政権与党の反対論に耳を貸して、国際政治の大局を見誤っていること自体が異常であると云わざるを得ない。筆者は決して自民政権の再登場を望んでいる訳ではない。しかし、この民主党政権の異常性にだけは、より多くの日本人に注目して欲しいと願っている。

 新年早々の「明るくあるべきブログ」が不満たらたらの内容になってしまったが、南十字星の下、ワインを楽しみながら祖国日本を心配し続けている豪州太朗の小言に、「このような意見もあるのか・・・」と一考して戴ければ幸甚に存じる次第。皆様からの賛否両論の意見をお聞かせ下さい。

2010年1月2日土曜日

日本の皆様、謹賀新年。

 本日、平成二十二年元旦より私のブログを開設、シドニーから日本の皆様に、オーストラリアから見た日本の社会現象、特に政治に関する色んなコメントを定期的にお送りしたいと思っております。
 海外在住40年、シドニーではすでに31年目に入りました私には、日常の日本に関する情報に接して、日本の皆様が「常識」として感じていられる社会、政治現状に多々「異常性」を感じることがあります。中には日本独特の、日本ならではの良い点も沢山ありますが、どうしても理解不可能な不思議な現象を大部分の皆さんが常識として認められている事が沢山あります。それらの相違点を述べると共に、皆様が不感症になっていられるポイントを、私個人の意見として述べさせて戴くと共に、皆様のご意見を伺いながら意見の交流の場所にさせて戴きたいと思っております。私見を大いに述べさせて戴くと共に、皆様の盛大なご意見を拝聴させて戴きたく存じております。私の職業は国際交流関連、年齢は壮年過ぎ、身分はバツ一、一人暮らし17年目の独身です。では、宜しく、豪洲太朗(ペンネーム)