2011年6月12日日曜日

カウラについて、


Blog-(20)
12-6-2011.
「カウラについて」
 現在の日本は、大震災と原発事故、不況の最中にあり、日本人のすべてがこの大国難を克服しようと懸命に努力している。しかし、永田町に住む「日本人亜種」は、国会という「井戸の中」で、国民そこのけの「共食い」に没頭している。餌は「国家権力」である。
 歴史上、日本は現在と同じような「末世現象」と、それを「国民の叡智」で克服した「国家回天、大再生」を経験している。大化の改新=古代国家の成立、建武の中興=元寇外圧による国政改変、関が原=幕藩体制(国内統一)、徳川末期、政治機能の老化現象=「黒船来航」で明治維新、昭和20年、軍閥末期、戦争で疲労困憊した国民を差し置いて、大本営という井戸の中で「陸海軍の選良たち」が共食いを始めた結果、「帝国日本」が惨敗=連合軍進駐で「国家再生」を果たした。すべて当時最大の「国難」が契機であった。
 さて現在、戦後66年、永田町の「懲りない面々」により、すでに末期症状を示している「政党政治」の危機、今回の大国難が「日本回天と大再生」の契機になるかどうか ?  次回のブログで所見を述べるが、このブログは、初回以来あまりにも「暗い話題」ばかり述べているから、今回は取って置きの「明るい話題」をシドニーから届けたい。
 カウラは、シドニーの西方320キロにある人口一万人余りの田舎町である。しかしこの町には、日本人戦没者墓地、日本庭園、日豪親善の桜並木道、長倉記念公園、日本人捕虜収容所跡、平和の鐘、そして先日完成した「カウラ平和の像」、等々、最も親日的で日本色が溢れている得意な町である。その理由は、前大戦末期、昭和19年8月5日未明、捕虜収容所にいた1千5百人弱の日本軍捕虜の内、9百名余りの捕虜が暴動を起こしてオーストラリア監視兵の銃撃に遭い、わずか10分余りの銃撃の結果、日本側、230名余りの死者と4百人余りの負傷者、豪軍側4人の犠牲者を出して終焉した暴動事件であった。
 ほとんどの捕虜たちは、南太平洋戦線で負傷して連合軍に救助された後、治療を受けてカウラに送られた将兵であった。しかし生き残った彼らの心中には、戦死した戦友たちへの悔悟と「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓への葛藤があり、それが暴動の契機であった。この事件は、大戦の最中であり、15万人近い連合軍捕虜が日本軍の手中にあったこともあって、連合国当局は報復を恐れて終戦まで事件発生を内密にした。
 第二次大戦勃発当初、オーストラリア軍は独伊枢軸軍との対戦のために欧州戦線に送られていた。しかし対日戦争勃発により欧州から太平洋戦線に戻されて、マッカーサーを総司令官とする米豪連合軍として3年8ヶ月の対日戦に従事した。その間、豪洲人青年男女60万人近くが、兵役、動員等、何らかの形で対日戦争の参加した。当時の人口が7百万人超であったから、国内の青年男女はすべて動員されたことになる。
 豪軍戦闘部隊は、マレー半島とシンガポール守備に当たっていた英連邦軍(16万余人)の傘下に入ったが、シンガポール陥落で1万9千人余りが日本軍の捕虜になった。太平洋戦争期間を通じて、日本軍管轄下にあった豪軍捕虜総数は、約2万2千人余り。その内、捕虜期間中の死亡者総数は7.964人であった。欧州戦線での戦死者総数が9.572人であったのに比べて、対日戦の戦死者総数が17.501名(捕虜中の死亡を含む)であったから、対日戦の激しさが想像できる。
 昭和17年末、日本軍はバンコックとラングーンを結ぶ415キロの「泰緬鉄道」の建設を開始した。ビルマからインド侵攻への物資輸送のためであった。マレー、ビルマ、ジャバ、シンガポールから民間人労働者18万人近くが集められ、豪軍捕虜13.004人を含む連合軍捕虜61.811人、日本軍の鉄道連隊1万2千余人が従事した大工事であった。完成まで1年3ヶ月の間に、豪軍捕虜2.802人を含む連合軍捕虜12.619人が死亡し、民間人労働者の死亡は85.400人余りであった。ほとんどの死因は、熱帯性疫病と栄養失調、それに加えた過酷な重労働にあったとされる。
 戦後、日本軍の管理下から解放されて帰国した豪軍将兵が、抑留中の非道な扱いと残虐な日本兵の姿を吹聴したために、オーストラリア国内の「反日感情」は燃え上がった。「名誉ある捕虜」を虐待した日本軍のみならず対戦国「日本全体」を憎悪したのだ。その主因は、「死ぬまで戦うのが軍人である」とする日本兵と、銃弾が尽きるまで戦った将兵は「名誉ある捕虜」になる、と考える白人兵の戦争観の相違が、日本軍の「捕虜蔑視」の潜在意識となり、虐待に繋がったのであろう。
 燃え上がる反日感情の中、カウラ出身の将兵たちが故郷に帰還してきた。出征兵士269名、戦死者47名であった。全員、南太平洋諸島で日本軍と死闘を繰り返し、辛うじて生き残った将兵たちであった。その中には、アルバート・オリバー准尉がおり、学徒動員で軍需工場で働いていたバーバラ・ベネットもいた。共に、後年カウラ市長や市議を務め、日本人戦没者墓地建立や日本庭園建設を通じて、日豪融和に貢献した人たちであった。彼らは、カウラの市民墓地の東側の「農地」に集団埋葬されたまま放置されていた「暴動時の死亡者たち」の存在を知り、「土に還った人間に敵味方は無い・・・」との人道的な見地から埋葬地の清掃を始めた。彼らの行動は、カウラ市民のみならずオーストラリア全国民が冷眼視する中で行われた。やがて彼ら帰還兵たちの崇高な人道的な行為が全国民に理解されるにつれて、オーストラリア人の反日感情の嵐も沈静化していった。
 「サンフランシスコ講和条約」締結で、日豪両国も平和を回復して、キャンベラの日本大使館も再開された。戦後初の西春彦大使は、カウラに埋葬されている暴動の犠牲者につき、オーストラリア政府と交渉、大戦中3年8ヶ月間にオーストラリア領土内で死亡した、民間人を含むすべての日本人の遺骨をカウラに集めて、昭和39年11月に「日本人戦没者墓地」が建立された。 埋葬された日本人慰霊は522柱、その慰霊祭の時、戦後初めて日本国旗が墓地内に掲揚された。
 以後今日まで、皇太子殿下時代の今上陛下ご夫妻や皇族を含む数多くの日本人慰霊者がカウラを訪れている。戦後もっとも「反日感情」が激しかった時期に、日本人埋葬地の清掃を始めてくれた帰還将兵たちへの「日本人としての恩義」のため、日本庭園建設には、日豪双方の政府、自治体、民間人たちの多くが協力を惜しまずに支援した。日本庭園の竣工時に、戦没者墓地から日本庭園までの一般道路5キロに「日豪親善の桜並木道」建設が発議されて実行に移され、九州電力長倉会長の名前を記した「長倉公園」が作られ、日本から「平和の鐘」も寄贈された。世田谷区にある成蹊高校とカウラ・ハイスクールは40年余り前から、直江津高校はラファエル・スクールと姉妹校を提携して毎年留学生を交換している。桜並木道建設開始と共に、毎年「桜祭り」が開催されて、日本文化の紹介と市民交流が繰り返されている。それに加え、今回の「カウラの平和像」の完成である。カウラは、世界でも珍しい「日豪親善の聖地」といえる。
 シベリアで父を亡くした小筆は、長年、カウラの「日本人戦没者墓地」の存在を知っており、学生の頃から一度は訪問したいと願っていた場所であった。1979年10月、縁あってシドニー定住が決まった翌年正月、念願のカウラを訪問、当時のバーバラ・ベネット市長の案内で墓参を果たした。よく手入れされた緑の墓地には、4、5才と見られる金髪の幼女が母親と訪れており、小さな草花を墓前に供えている姿に感動した。まさに人生観が変わるほどの思いであった。そして、旱魃最中の日本庭園へ、10年近く続いた旱魃で第一期工事が終わったばかりの日本庭園の樹木は、すべて「枯れ死」寸前であった。そこにドン・キブラー市会議員が現れて市長と庭園救済の資金集めの話を始めた。その話を聞いた小筆は、即座にボランティアーでの支援を申し出て受け入れてもらい、以来今日まで31年間、無償の「カウラ奉仕」を続けている。庭園救済の資金募集、桜並木道建設と桜祭り開催の提案と資金募集、10年ごとに開催される「カウラ暴動慰霊祭」、各種PR活動と「桜祭り」での日本文化紹介、そして6年掛かりで完成させた「カウラ平和の像」、半生近くを通じたカウラへの奉仕活動、すべてカウラ市民が「日本人戦没者墓地」を温かく見守ってくれている事への感謝の気持ちが源泉である。
 「平和の像」完成の今、日本庭園入り口に立てる「カウラ観音」像の計画に熱中している。身の丈8メートル余りの「観音像」をユーカリの大木に彫刻して、庭園入り口前の広場に設置する夢を描いている。彫刻には無縁の小筆ではあったが、6メートルの「平和の像」を完成させた自信がある。何年かかるか、小筆が神に召される以前に完成させられるか、どうかも不明であるが、人生最後の「カウラへの奉仕」として全身全霊を捧げたいと思っている。
 推定予算、1万ドル(約90万円)、日本人有志から浄財を集めて、建設資金にしようかとも思っている。有志の寄金は、些少にかかわらずメールでご一報を・・・、折り返し「振込先」を連絡し、像の背中に「寄金者リスト」を残す予定。豪洲太朗、老いて益々意気軒昂な日々である。
 今月20日から来月8日まで訪日する。梅雨の最中の訪日は憂鬱ではあるが、小筆の専門である「中小企業の輸出支援体制」を軌道に乗せるためには、どうしても行かねばならない。日本滞在中の緊急連絡は、090-3008-7549.まで。kentokura@hotmail.com に「Face Book」 を開いたので、時折覗いて「豪洲太朗のホラ」も楽しんで欲しい。