2012年12月23日日曜日

Blog-(35)

Blog-(35) 24-12-2012. 「パール・ハーバー慰霊祭」に参列して、  今年12月7日、71年目を迎えた慰霊祭に初めて参列、改めて「太平洋戦争」について考えをまとめる機会を得たことを感謝している。慰霊祭は、早暁6時、パール・ハーバー・ビジタースセンターのフォード島側の庭園へ入場、招待客二千五百余名と自主参列五百余名参集の下に、日本海軍第一次攻撃隊のパール・ハーバー上空到達時刻に合わせて式典開始、快晴下二時間余りの各種議事次第によって挙行された。  昭和16年12月8日(日本時間)、午前7時49分、真珠湾上空に到達した183機の第一次攻撃隊は、ワシントンDCでの「対米宣戦布告」文書手交予定時間の午後1時(ハワイ時間、午前8時)を待って、「トラトラトラ」の攻撃命令を発して攻撃を開始、続いて来襲した第二次攻撃隊の空襲も併せて合計350余機が、4時間余りをかけて真珠湾を空爆した。その結果、米海軍の空母三隻は逃したものの、米太平洋艦隊主力5隻の戦艦沈没を含む14隻の艦艇と航空機343機に損傷を与え、人員2402人の死傷者を出さしめて攻撃に成功し、対米戦争の緒戦を飾った。その後の経過は史実の通りで、日本の敗戦によって日米戦争は終結、戦後史が始まって今日に至っているので説明は省くが、ここで小筆が述べたいことは、私見ではあるが「太平洋戦争」に至った経緯と戦後のアジア情勢の変化についてである。  明治維新で鎖国を解いた日本は、「国家近代化」に努め、短期間で西欧列強と並ぶ国家になった事実は、人類史上の奇跡であった。碌な近代兵器も無かった徳川日本が、明治維新以後36年を経ずして、日清、日露戦争を勝ち抜き、第一次世界大戦では、疲弊した西欧列強に代わって世界を凌駕する大国にまで伸し上がったのは、幸運だけではなくて「民族的な資質」が為しえたものであった。第二次世界大戦以前に、世界水準を遥かに超える技術水準の国産航空機、戦闘艦艇、潜水艦はおろか航空母艦まで自力で製造したのは、米英と日本のみであった。その日本を脅威と感じた列強諸国の中に、辛うじて共産主義革命を成功させたロシアのスターリンがいた。彼は、共産主義での世界制覇を夢見てコミンテルンを組織、欧米列強や中国、東南アジア諸国に浸透させて、既存政府の弱体化を図った。しかし日露戦争を経験した日本の警戒心は強く、浸透が困難であった。そこで彼が考えた陰謀は、満州、中国大陸に進出し始めた日本軍部と米国を敵対させて「日本潰し」を図ることであった。米国政府中枢に三百余名のスパイを送り込み「反日政策」を画策させる一方、蒋介石の国民党を懐柔して「反日戦線」を築かせたのみならず、英米独をも唆して「抗日支援」をさせた。しかし腐敗した国民党では「抗日効果」が挙がらず、毛沢東を支援して抗日戦を組織させたが、したたかな毛沢東は「対日戦」を回避し続けて戦力温存を図るのみで、「日本の弱体化」には利用できなかった。そこでスターリンは、ルーズベルトの大統領府のモーゲンソー財務長官の下に忍び込ませてあったハリー・ホワイト財務次官を使ってコーデル・ハル国務長官(日本の外務大臣に相当)に「対日強弁策」を唆せて対日戦争を画策させた。   ホワイトを信用していたハルは、彼が示す難題を次々と日本に吹きかけた。その最たるものが、対中国戦の中止と満州国の解消のみならず、明治維新以後、日本が入手した「すべての領土」を放棄せよ、と迫るものであった。日本にすれば、米国に一切関係なく「自力で入手した版図」に「何故、米国が干渉」しなければならないのか? と反発したのは当然であった。難航する日米交渉とヒットラー・ドイツの攻勢に晒され続けたスターリンは、ホワイトに対日交渉の最後通牒となるべき「ハル・ノート」を日本へ手交させるべく指令を出した。ハルはこれを了承し、満州の鉄道網に並々ならぬ興味を持つ鉄道王ハリマンと親交があったローズベルト大統領に「建国以来の国是」であったモンロー主義を放棄させて、日独伊枢軸国への開戦を決意させたが、国民を納得させる材料にこと欠いていた。しかし、ホワイトの策謀は功を奏し、「窮鼠猫を噛む」がごとく、日本海軍は真珠湾を奇襲攻撃した。日本海軍の暗号をすでに解読していた米国首脳は、この日の「攻撃開始」を知っていたが「攻撃地点」の認識に欠けていた。それが理由で日本軍の攻撃は成功した。かくしてスターリンの陰謀は成功して、米国は日本のみならず、独伊へも宣戦布告をして第二次大戦に参戦した。日本が対米英戦争に突入したために、ソ連領シベリアの安全が確保できたスターリンは、欧州での対独戦に専念することが可能になった。  因みに、このハリー・ホワイトは、戦後1948年、マッカーシー上院議員の「赤狩り」で有名になった「非米活動委員会」の公聴会に呼び出されて査問を受けた時に、「ソ連のスパイ」であったことは否定したが、翌日、服毒自殺をして果てたので、彼がスターリンの指令を受けていたことは「ほぼ、間違いない」と信じられている。米国全土を巻き込んだ「マッカーシー旋風」は、国内の破壊活動調査を名目に、政府職員、作家、芸術家、俳優や無名の民間人まで査問に巻き込み、全米に一大恐慌を吹き荒らして全国民を震え上がらせた。  目的を達成したスターリンは、1943年5月、コミンテルンを解散した。しかし、二年後のナチス・ドイツと日本の敗北は、戦勝国となった連合諸国間に相克を生み、スターリンも予想出来なかった戦後の「世界秩序」を生むことになった。ドイツの敗北により、東欧の武力による赤化が可能になって「ソ連圏」が拡大した。アジアでは、欧米諸国の期待に反して植民地各国が独立したために、英仏蘭は三百有余年にわたり享受し続けた莫大な資産と収入源を失い、米国はフィリピンを失い、中国大陸を網羅すべき「鉄道網」の夢も消え去り、アジア諸国すべての独立国で、待ち望んでいた「利権予測」が脆くも崩れてしまい、結果として「手元」に残ったのは、激戦を繰り返した旧敵国の日本だけになってしまった。スターリンにとって想定外であったことは、「米ソ冷戦」の始まりであつた。コミンテルン活動を通じて期待を寄せていた毛沢東中国は「反ソ勢力」となり、当然と思っていた朝鮮半島の赤化も北半分だけで終わったのみならず、金日成は「共産主義」とまるで無関係な独裁国家に化けてしまった。  その日本は、敗戦を境に「軍部独裁」から開放されたのみならず、すべての「戦争」から手を引き、平和国家として世界一裕福で民度の高い国家になって今日に至っている。スターリン以後のソ連邦は崩壊し、ホーチミンのベトナムは民主化を国是とし、共産中国も北朝鮮の崩壊も時間の問題である。対日戦争後の米国は、朝鮮、ベトナム、コソボ、湾岸戦争、イラク、アフガニスタン、等々、未だに「戦争」から足を洗えないまま、今日まで70余年間、米国民の「血税」のみならず、青年たちの「血液」そのものを世界中でばら撒き続けいるが、未だにイスラム圏からの敵対行為は軽減せず、彼らからの「テロ攻撃」に、日々戦々恐々としているのが現状である。  71年前の今日、ここパール・ハーバーで始まった太平洋戦争の勝利者は「一体全体、誰だったのだろうか? 」、こんなことを考えながら、延々と続く「戦後の米日協調」の成果と賛美を聞き流しながら、こんな「アイロニー」を想い浮かべた二時間であった。  今回の慰霊祭出席は、天台宗ハワイ別院の荒了寛大僧正からのお誘いを受けたもので、慰霊祭に参列される「世界連邦日本仏教徒協議会」の重鎮の皆様とハワイ在住の日系人の方々に「カウラ暴動」の悲劇とカウラ市民の日豪親善回復への尽力の経過と、2014年8月5日に開催する、カウラでの「暴動70周年慰霊祭」への出席をお願いするための訪問であった。  帰途、東京により「衆議院選挙」の経過と結果を観察した。小筆の予測通り、三年三ヶ月無為徒食を続けた民主党の「惨敗」の過程をつぶさに見ることが出来た。自民党安倍総裁の「個人的人気」によって集票した選挙結果は「自民党の圧勝」、日本将来のために「ひとまず安堵」はしたものの、まだまだ自民党内には「悪業に長けた老獪党員」がわんさと巣くっている。安倍総裁の舵取り如何で「旧自民体質」へ回帰する可能性も充分にあるので、今まで以上の国民の監視が必要であろう、なんて事を考えながら18日、真夏のシドニーへ戻ってきた。クリスマスと正月を終えると、また忙しい一年間が始まるはず・・・、親友の皆様の健康とより良き日々を祈願しつつ大晦日を迎えます。 Merry Christmas and a Happy New Year to all of you !! 小筆への連絡は、kentokura@hotmail.com Blogは http://goushutaro.blogspot.com/ まで、