2012年5月29日火曜日

Blog-30, 「隣人を哀れむ」その一。

Blog-30 29-5-2012 「隣人を哀れむ」、その一。  先日のニュースで、藤村官房長官談として、韓国大法院(最高裁)の「元徴用朝鮮人労働者個人の請求権」を妥当とした判定に関し、韓国側へこの件は「日韓基本条約」で「完全かつ最終的に解決済み」である、との発言を公表した。以前にもこの大法院は「従軍慰安婦」の個人補償を放置するのは憲法違反である、とも判定した結果、朴明博大統領が日本政府に「補償の実施」を求めた経緯があった。この「基本条約」では、「竹島帰属問題以外の両国間双方のすべての請求権は完結した」、としているから、韓国大法院のいかなる判定にも日本政府は関与しない・・・と、改めて宣告すべきである。  この件も含めて、今回はお隣り「朝鮮半島」と日本との関連について、二回にわたって私見を述べたい。  朝鮮半島と日本との関りは、縄文時代以前から脈々と継続しているはずで、一衣帯水の九州北西岸から山口県にかけて朝鮮族と全く変わらない「顔つき」をした沢山の人たちを見かけるのもその証拠であろう。それだけ人的往来と混血があり、原始的文化の交流さえ存在していたという事である。この平和な共存関係に変化が現れ始めたのが、秦の始皇帝による中国統一以降である。以後朝鮮半島は、中国大陸の影響下に置かれ続けてきたが、その一番大きな影響が中国文明の導入であり、その中でも特に「儒教」の影響は「朝鮮文明形成」を決定ずけ、その後「絶対君主制」を説いた朱子学の導入と共に「朝鮮半島民族」の基本的な「民族性」を形成する重要な要素となり、今日まで連綿と継承されている。  「儒教思想」は、長幼の序列によって説かれ、仁、義、礼、智、信、を基本にして、上に「敬うべき長老」と、下に「教えを垂れるべき幼劣者」を必要とした。朝鮮民族は、国家として「中国を長老」、「日本列島を幼劣」、自分たちをその「中葉」(中間)として位置づけることで、自分たち自身に「儒教的安定感」を持たせてきた。すなわち、「長」から中華思想と文化を直接授受することで、「中葉」にある自分たちの優越性を誇り、自分たちの「下層的立場」にある日本に、その「教えを伝授」することで自己満足をしてきた。それだけでは済まず、日本人は朝鮮民族を「長老」として崇めて「教えを請う」のみならず、自分たちを師として「敬うべき」存在である、との優越観念を民族的性癖として固定させてしまった。  朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の「三韓」時代から新羅の「半島統一」、高句麗の「新羅併合」と続き、それまでは「比較的に」民族の独自性を守っていた。しかし、1392年、高麗の武将、李成桂が祖国に反旗を翻して、大国「明」の支援で「李王朝」を樹立した直後、明の太宗から「朝鮮王」として冊封を受けることで「中国の属国」になった。15世紀以降、朝鮮民族は、中国大陸国家の「属国」としての立場に甘んじ続け、自ら「小中華国家」として中華帝国の保護下に安座した。儒教、朱子学を「国学」として漢暦、漢字を使って、中国以上の「小封建国家」として自らを満足させたまま、躍進する西欧勢力の存在に眼を閉じたまま、すべての対応を宗主国「清朝」に頼り、国家近代化を否定したまま19世紀の極東アジアの混乱期に直面した。  しかし、西欧諸国に「眠れる獅子」として一目置かれていたはずの清国が、イギリスが仕掛けた「アヘン戦争」で一蹴されたために「張子の虎」であったことが判明。以後、ロシアを含めた西欧列強が、清国領土のみならず朝鮮半島へまでも「簒奪」の魔手を伸ばしてきた。自分たちの「長」であり宗主国である清国が頼れないことは理解出来ても、明治維新を成し遂げて近代国家形成過程にある「幼劣的立場」にある日本には、面子の問題としても頼れない。そこで李王朝の迷走が始まった。傾清派、傾露派、傾米派、傾仏派と「日本以外」の強国に半島保護を求めて、国政は乱れに乱れたまま「日韓併合」まで続いた。  一方、日本は、西欧列強の「飽くなき侵略性」を、早くも16世紀の織豊時代から感知して、徳川時代初頭から「鎖国」を以って、日本の植民地化を避けてきた。それでも19世紀前半に入ると西欧の「開国圧力」が増したために、国家近代化のための大改革「明治維新」を断行して西欧圧力に対抗出来る「国家近代化」を成し遂げて植民地化を避けたのみならず、短期間で有色人種国で史上最初の「五大列強国」のひとつにのし上がった。  李王朝下の朝鮮半島は、アジア諸国でも珍しいほど「蛮性」を有した専制国家体制を維持し続けていた。住民は、極少数の特権階級、すなわち「王族」、貴族である「両班」、自由人である「中人」、特殊技能を有する「常人」と、ほんの一握りの階級の下に、住民の大部分が売買の対象にさえされていた奴婢、奴隷、農奴に属する「賎人」階級で構成され、更にその下に、「白丁」と呼ばれたアンタッチャブルで、特殊部落に隔離されて屠殺や特殊手工業を専業とする非人階級さえ存在した。住民の殆どが文盲で、世のすべてが「賄賂」と「讒言」で動く世界でもあった。罪人に対する拷問は公開され、しばしば無罪の者が賄賂と拷問による「自白」で有罪を宣せられ、残虐な方法で公開処刑をされた。国内にインフラは無く、教育制度も両班を対象とした学校が二校あったのみで、国政は極少数の「科挙」試験合格者である両班出身者によって取り仕切られていたが、すべて「宗主国」と「王族」の意向と自分たち特権階級の利益に従ったものに過ぎなかった。  こんな状況が五百年も続いた後、「日清、日露戦争」に続いて、1910年の「日韓併合」があり、日本の指導で、法律とインフラの整備による朝鮮半島の近代化が開始された。国内の行政制度は日本に準じたものとなり、王族以外の「階級制度」はすべて廃止され、住民はおしなべて「平等」になり、教育制度も「ハングル」を教育普及手段として小学校から教え始めたことにより、短期間に国民の識字率が上がった。ハングルは、1446年に世宋によって公布された朝鮮語の表音文字であったが、「漢字」に固執する事大主義者たちと小中華主義に染まった上流社会から無視され普及しないまま放置されいた。この「ハングル」の普及により、教育の向上のみならず、行政目的が国内の隅々まで伝達されるようになり、「併合」以降の発展の基礎となった。  日本政府は、併合初年度から朝鮮半島が独立経営できるように膨大な資金を投入した。農業地帯「南鮮」の生産性を高めるために、鉱物資源が豊富な「北鮮」の鉱山開発を手がけて窒素工場を始め、多くの重化学工場を作り、その電気供給のために、鴨緑江に世界でも最大規模の水豊発電所を建設して朝鮮半島の生産性と独立採算性を高めた。半島の山野は住民の乱伐で樹木は無く、すべて禿山であった。その植林指導を行ったのも朝鮮半島を管理する「総督府」であった。併合後、半島の生活環境は年毎に改善され、住民生活は眼に見えて向上していき、住民の大部分が日本式行政制度を受け入れていた。その間、日本人の半島への移住は、人口三千万人弱に対して3%以下でしかなかった。(終戦後の南北朝鮮からの日本人引揚者総数が、満州からの疎開者約15万人を含めても92万人強でしかなかった)。  日本国民は、日中戦争開始に伴い、多くの勤労青年たちが「徴兵」により軍籍に入り、中国大陸の戦線と、後には太平洋戦線に投入されて、その多くが戦死したが、「準日本国」であった朝鮮半島の男子にも、日本国の一部であった台湾の青年たちにも「徴兵制度」は適用されず、彼らからは「志願兵」以外の「戦争」による犠牲者はでなかった。  現在の南北朝鮮半島民は、「日帝36年間の圧政」と声高に叫び、いかに過酷な生活が課せられたか、という事を声高に叫んでいるが、事実は上述のごとく「李王朝時代」の地獄の生活と奴隷制度から朝鮮民族を解放したのは「日本政府」であり、36年間の「併合時代」によって、朝鮮半島は、中国本土、満州にも勝る「近代化」が成し遂げられたのであった。  日本の敗戦は、米国を主体とした連合軍によるもので、朝鮮民族は「全く関与」していない。日本の敗戦後も、朝鮮人の親日感情には何ら変化は無かった。しかし戦後、日本統治時代の事績を全く知らない李承晩が亡命先のハワイから帰国して、米国の支持で大統領に就任した。その直後、南北朝鮮間で「朝鮮動乱」が起こり、日本が営々として築き挙げたインフラと産業施設のすべてが壊滅したのみならず、李承晩の偏狭な性格が、併合時代に育てられた有能な政府官僚の大部分を「親日的」であり過ぎるとして、30万人以上を投獄し、殺害したために、貴重な人的遺産まで失ってしまった。それと同時に数々の「反日政策」を打ち出し、国際法に違反して公海上に「李承晩ライン」を設け、竹島を取り込むと同時に「親日分子の処分」、「日本文明の否定」、「国交途絶」等々の施策を打ち出した。特に後世まで影響が残っているのが、小中学校での徹底した「反日教育」であり、その教育を受けて育った韓国人たちが現在、従軍慰安婦、徴用工、竹島帰属、日本所有の半島文化財の返還要求、等で大騒ぎをしている人たちである。  朝鮮半島が中国大陸の「属国」になって以来、抵抗できない絶対的権力者に対する「恨みつらみ」を抱き続ける「恨(ハン)の文化」が民族的特性に加わった。絶えず「恨みの対象」を求めつづけて、終生「恨」を忘れない、という煩悩の一種である。現代韓国の「恨」の対象は、李承晩以降に叩き込まれた「反日教育」をベースにした「日本の存在」自体である。自分たちより「儒教的に下層」にあるはずの日本に「36年間支配」され、現在も圧倒的な知的財産、経済力と公徳心を具えている日本のすべてが「恨」の対象である。彼らは、因果関係には関心が無く、平常心も理性も投げうって、ただひたすらに激情に走って、やみくもに「反日」を唱えることが「恨」の正義であり、自己再認識の手段である、と信じている。優秀な民族ではあるが、誠に厄介な隣人でもある。長くなり過ぎるので、南北問題に関しては、次回「その二」で述べる。  シドニーは、あと三日で「冬」を迎える。いくら温暖な気候でも深夜の寒さは格別である。今朝も二時半起きでパソコンと格闘、今は七時半、すでに両足が冷え切っている。姪からの助言「熱い紅茶に、生しょうがと黒砂糖を入れて飲みなさい・・・」との事、早速試してみるか・・・。 小筆の「ブログ通覧」は、yahoo で「豪洲太朗のシドニー通信」を検索、ご意見等は、直接 kentokura@hotmail.com へ。