2010年6月20日日曜日

太平洋戦争について

今、カウラを中心にした日豪関係史を「カウラの桜」と題して執筆している。
大航海時代の末期から始まったオーストラリアと現代に到る日本の関わりが中心である。これを書くにあたっては、どうしても避けて通れないのが日清、日露戦争以降、太平洋戦争の敗戦に到る日本人軍事官僚の思考過程である。
 
明治維新を成し遂げた近世日本は、欧米列強に飲み込まれないように最大の努力をしてきた。いわゆる国政の近代化であり富国強兵政策であった。よちよち歩きの日本が最初に係わった外征が「台湾出兵」であった。宮古島の島民60余人が沖縄への航海途上で台風に遭遇して台湾北部に漂着した。牡丹社部落の原住民が彼らを虐殺したので、日本軍が遠征して処罰した事件であった。その後、朝鮮半島の独立を巡って、清国との勢力争いが拗れて日清戦争が起きた。下関での講和条約締結の結果、日本は台湾、澎湖諸島と遼東半島を手に入れたが、露独仏による三国干渉により遼東半島の割譲を放棄させられた。その理由は、「東アジアの平和のため云々・・・」であった。彼らに抗する力が無かった日本は、涙を飲んで臥薪嘗胆し、国力、軍事力の蓄積に努めた。
しかし三年も経ずして、この三国と干渉を傍観した英米は、清国から遼東半島、威海衛、九竜半島、広州湾、等々をそれぞれが租借していった。
その後日本は、朝鮮半島まで飲み込もうとしたロシアと開戦、南満州と日本海で激戦を繰り広げて、辛うじて勝利を手にした。日露戦争の戦果としては、樺太の南半分と満州での権益を手にした。
この戦争までは、どう見ても「日本の国運」を賭けた自衛戦争であったが、期待以上の「おまけ」が付いたと云える。それが理由かどうかは判らぬが、その後は、太平洋戦争に負けるまでは、どう贔屓目に見ても日本の「侵略戦争」であった、としか云いようがない。

日露戦争までの日本の政治家と各軍司令官たちは、すべて明治維新戦争の体験者であり、欧米列強からいかに祖国を守るかと脳漿を搾った人たちであったが、彼らをサポートした若い参謀たちは、維新後に近代軍事学を修めた秀才たちで「日本の国益」に対する思考に温度差があった。
 この後、日本は朝鮮を併合したが、5年後に起こったのが第一次世界大戦であった。連合国の一員となった日本軍は、青島、膠州湾のドイツ軍と交戦して占領、山東半島とドイツ領中部太平洋諸島を併合した。この大戦の最中、日本政府は中華民国に対して「対華21カ条文書」になるものを突きつけて、ドイツ権益の継承のみならず中華民国の主権に関わる無体な要求を突きつけて山東半島全域に進駐した。
 
どうも、この頃から日本の対外政策が怪しくなってきた。明治維新の苦労を知らない新世代の軍人たちの登場に関係があると思われる。
 彼らの頭の中には、「日本は戦争をすれば必ず勝てる」という誤った信仰のようなものが生まれていたらしい。台湾外征、日清、日露戦争、北進事変、第一次大戦、シベリア出兵、と一連の戦勝ムードが続き、その度に日本の版図を広げてきたために、高級軍事官僚たちが日本の軍事力を過信したに違いなかった。その過信と天皇のみが持つ「統師権」を軍事官僚が乱用することで、満州事変を起こし、北支事変、日中全面戦争、そして米英豪蘭相手の太平洋戦争に負けるまで続いた。 いわゆる「軍部独走」が始まり、政府が陸海軍をコントロール出来なくなったのである。満州事変も日中戦争の理由も、「暴支よう懲」(生意気な中国人を懲らしめる)であった。その後も、中国大陸侵攻に反対された天皇に「今、兵を引けば、今日までに戦死した英霊に申し訳が立たぬ・・・」と云うものであった。他人の国に勝手に攻め込んで行って、相手が反抗したから生意気であり、軍を引けば、戦死した自軍の将兵に申し訳がない・・・、というのであった。

中支那派遣軍司令官、松井石根大将は、士官学校次席、陸大首席で卒業した優秀な軍人であり、蒋介石の友人で中国通としても知られた人物であった。彼でさえ、「南京を陥落」させれば蒋介石は降参すると確信していた。しかし実際は、南京陥落の後、蒋介石は重慶に移り抗日戦を続けた。「何処で矛を収めるか・・・」と云う判定基準もなく、勢いに任せて奥地へ奥地へと兵を進めたのが日中戦争であった。 同じことが太平洋戦線でも起こった。何処まで占領したら休戦交渉に入るのか? と云う「戦の原則」を軍首脳が理解していなかったのだと思う。戦争開始に当たり、彼ら軍幹部に確固たる「国家戦略」があった訳ではなく、ただただ勝ち戦さにのって「戦術的」にだらだらと軍を進めて行ったに過ぎなかった。
陸軍参謀総長であった杉山元陸軍大将が対米開戦の意図を天皇に奉呈した時、「中国相手に苦戦しているのに、その上アメリカまで相手にして勝算はあるのか?」と下問されたらしい。常識として、当然の下問であった。杉山は、「中国大陸は奥が深こうございますのて゛・・・」と応答したら、陛下はすかさず「太平洋はもっと奥が深いではないか・・・」と怒りをあらわにされた、との記録を読んだことがある。戦勝に奢った陸軍の常識とはこの程度のものであったのだ。

 緒戦の華々しい勝利に、大本営のみならず国民全部が酔いしれて、戦争の本質を見失った。「聖戦完遂」、「アジアの植民地解放」を掛け声に、果てしなく戦線を拡大し、貧弱な装備しかない将兵を、補給も困難な太平洋各地に散在する諸島やアジアの遠隔地に送り込んだ。
 政府は、頭脳明晰でもっとも優秀な青少年たちのみを選んで陸軍士官学校と海軍兵学校で学ばせ、その中でもっとも優秀な生徒を陸大、海大で学ばせて、超優等生に戦争全般の指揮を取らせた。その彼らの中でも、せいぜい15名か16名の選らび抜かれた作戦参謀たちが東京の大本営作戦本部で、満州と中国、アジア諸国、南太平洋全域、アリューシャン列島にまで展開した6百万人に近い将兵を動かした。
「将兵の本分」は戦うことにある、しかし彼らの作戦地の決定と軍需物資、食糧等の補給は、当然大本営の責任であった。充分な食糧と豊富な銃砲弾があってこそ将兵の奮戦が期待できるのであって、その補給が続かない地域に軍隊を投入することは狂気の沙汰であった。その作戦を司ったのがエリート中のエリートたちであったのだから何をか云わんや、である。彼らにとって、「将兵の生命」はいかほどの価値があったのか? 彼らの思考方法は、今では想像することも出来ない。

ガダルカナル作戦では、3万6千余の将兵を投入し、戦死が2万5千6百人を数えている。その内、餓死と病死が1万5千人を超えていた。 インド侵攻を目的としたインパール作戦には、厳しい熱帯山岳地帯に9万2千人余りの将兵を投入したが補給はゼロであった。その結果、7万8千人以上の戦死者を出した。もっと酷いのは、作戦目的さえ不明な北部ニューギニアに投入された40万人以上の将兵は、一度の補給も受けることなく、昼なお暗い熱帯のジャングルを彷徨させられたあげく、3万人余りの生存者を残して消滅した。サイパン、硫黄島、その他の諸島では玉砕が続いた。国内は空襲で焼け野原にされ、とどのつまりが広島と長崎の原爆の投下であった。 

満州事変から太平洋戦争の敗戦までの14年間、日本は八百万人以上の将兵を動員、六百万人余りの将兵を海外に派遣して、その内、約240万人が戦死した。その間、国内への空襲、艦砲射撃等で死亡した民間人は、80万人を超えている。 人口9千万人といわれた当時の日本人の内4%近くが犠牲になった。敗戦直前の政府は、国家財政の9倍に近い借金を抱えていた。 国内の主要都市のすべてが空襲で破壊されて焼け野原になり、国内の産業はすべて破壊され、経済活動のすべてが停滞していた。
この惨禍の原因を作り出したのが、「最優秀」であったはずの日本軍高級官僚たちの「恣意」であった。

 敗戦後、最初の国会で、最後の陸軍大臣下村定大将が、敗戦まで暴走し続けた帝国陸軍を代表して、国家と国民に謝罪した。連合国は、ABC級戦犯裁判で日本軍人と民間人若干の「戦争犯罪」を追及し、千余名の刑死者と7千余人の有刑者を出して「日本の戦争責任問題」に決着をつけた。しかし日本は、国家としても国民としても、この凄さましい惨禍をもたらした一部軍人官僚の責任を問わなかった。 彼らは戦後も生き残り畳の上で天寿をまっとうした。この残滓が現代日本の官僚、特に高級官僚の無責任で独善的な体質に継承されているに違いないと思っている。
 奇しくも、現在の日本国の借金が年次予算の9倍で、あの凄惨な大戦争を遂行した時の借金と同じ倍率である。平和時にこれだけの借金を作って平気な顔をしている政府と政治家たちは、まさにA級戦犯なみの罪科を犯しているのではないだろうか?

 戦後65年、あの太平洋戦争を体験した日本人も年々減少、歴史上の事件としてしか捕らえられなくなってきている。8 月15日の終戦記念日をまじかに控えて、また訪日する。今回も靖国神社に参拝するが、改めて前大戦の意味を考えて見たいと思っている。