2014年8月19日火曜日

8月15日を迎えて、

Blog-45. 「8月15日を迎えて」、  今年も69回目の厭な日を迎えた。何が「厭」かと云うと、日本の歴史上最も重要な意味を持つ、「敗戦」という未曾有の体験をした後、68年間、我々日本人が日本人本来の「民族的特質」を「敗戦]としう事実だけで、「何の検証もしないで」忘却して過ごしてきたのではないか? と云う「疑問」に直面せざるを得ないからであった。小筆の云う日本民族的特質とは、2千8百年近くも営々と継続している天皇家を中心とした、日本独特の国体経営と、武勇を尊び、礼節を重んじ、惻隠の情に満ち、質素勤勉を旨とした「大和民族」独特の民俗が、敗戦を契機に失われ続けているのではないか、という危惧を年毎に深めるからである。これが「敗戦の痛み」なのかも知れないが、そもそも大東亜戦争勃発の契機は、米国の「東洋に対する覇権」との競合関係の昂進が原因であり、米国の「報復的経済制裁」が日本のアジア進出を誘い込んだ。その結果、東アジアにおける植民地の宗主国である英仏蘭豪をも巻き込んで、「アジア全地域」で3年8ヶ月間の大戦争に発展し、結果的には、日本が圧倒的な米国の戦力に押し潰されたのが「日本の敗戦」であった。それ故に、アジアの欧米植民地のすべては「解放され独立」したが、敗戦後の日本は、喜びに沸くアジア諸国とは異なり、まるで異質の国民国家が出現して今日に至っている。今回は、その69年間に「得た物」と「失った物」について私観を述べてみたい。  まず、「失った物」である。日本を占領した米軍は、マッカーサーを頂点とする「連合軍総司令部」を設置して日本の頂点に立ち、「絶対君主」以上の支配権を確立した後、まず最初に旧軍の解体に着手した。その上で、「民主主義の扶植」を名目に、旧来の「社会構造」を大幅に変更させ、長年の良俗であった階級社会を変質させ、天皇家のみを残し、皇族、華族、貴族、有産階級の象徴であった「財閥」をも解体し、その他を平等な権利を持った「一般市民」とした。その上で、旧来日本独特の「価値観」と「社会通念」を徹底的に破壊して、連合軍統治に都合の良い「政治体制」を強制した。その一例が「マッカーサー憲法」であり、一国の主権と国防権まで否定させ、その上で、これらの政策遂行を安易にするために、国家の基本である「青少年教育」に介入して、児童教育時から「国体否定」と日本的な「国家観否定」の教育を徹底させた。併せて、日本特有の道徳観と倫理観をも否定させ、「教育の民主化」の名分の下に、本来なら「聖職」として崇められていた「学校教師」の世界に、労働組合的概念を持ち込み「日教組」の設置を許し、教育の基礎である「愛国教育」まで取上げ、「国史編纂」にまで介入して、世界一長い「平和国家」の歴史を有する日本を、「好戦的国家」と位置づけた「自虐教育」を実施させた。  その手始めは、戦争期間中に日本軍が占領地で「現地住民を圧政」に追い込み、暴行、虐殺、搾取までを日常化させて、原住民を塗炭の苦しみの中におき続けた、という「自虐思想」を押し付けた。その典型が、東京裁判での「南京大虐殺」のでっち上げであり、日本とアジア各地で開かれた「軍事裁判」では、日本軍人を証人尋問のみで裁き続けた結果、A級戦犯7名を含むBC級一千余名を超える刑死者を出し、訴追有刑者は5600名を越えた。これらの裁判はすべて、勝利者原理に則った「事後法ベース」での軍事裁判で、その目的は、米空軍が日本全土に実施した都市部への無差別破壊と一般市民の殺戮を目的とした「戦略爆撃」と広島と長崎への「原子爆弾投下」の「非人間性」と「ジュネーブ条約の違反」を糊塗するためであった。特に原爆投下は、日本の「ポツダム宣言受託」通告により、「降伏」がすでに俎上に上がっていた時期での投下であり、その必要性は「単なる人体実験」でしか無かった。  連合軍司令部は、日本人の愛国精神を打ち砕くために、「左翼勢力」の培養を図り、日本の政治に「左翼主義者たち」を取り込み、国政の中立化を押し付けた。国軍の保有を認めずに「日米安全保障条約」の下に、米軍の「日本駐留」を合法化させ、日本国の経費負担で、米国の極東支配を実現させた。しかし、第二次大戦以後の米国の疲弊も激しく、打ち続く「米ソ冷戦」への対応で軍事経費は国家財政を揺るがせたが、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラン、イラク、ボスニア、アフガニスタン紛争に巻き込まれた米軍の戦費は天文学的数字に膨張し、米国の優位性まで貶める結果を招いている。その間日本は、国防費負担の大半を米軍駐留で置き換えられたために、日本の国防費は軽減されて今日に至ったメリットがあった。  この間、日本が失った最悪の事象は、青少年の「国家観」の衰退であった。衰退と云うよりも、むしろ「無関心」が常態となってしまったことだ。北方四島や竹島を外国に不法占拠されても、尖閣諸島が侵略の脅威に晒されても、一部沖縄県人の「親中国的な独立構想」にも、在日半島人や中国系居留者たちの犯す「無法」でさえも、大半の日本人が「無関心」であり続け、中韓両国で日常的に繰り返されている「根拠の無い」反日言動に対しても、官民揃って無関心のままであった。その上、帰化人政党の「民主党政権」において、大いに疑問のある民主党議員たちを当選させて、3年ニケ月の政権を樹立させた結果、日本の政治を「混乱の極」に落し入れたのみならず、先回の都知事選挙では、愛国精神旺盛な田母神候補者を支持せずに、悪評高い枡添候補を、本来なら「保守系」であるはずの自民党までが、違憲政党公明党と共同推薦して都知事に祭り上げてしまった。このように、戦前の常識的な「日本人精神」では、到底考えられないような惨状が日々刻々と出現しているのが現代日本の状況で、終戦直後「連合軍司令部」が意図した「日本劣勢化」の効果が的確に顕現した結果であると云えるであろう。  日本敗戦のメリットを挙げれば、その功績は「日本軍閥の消滅」に尽きると思う。大正昭和期の陸海軍の「驕り」は、すでに政府でも大元帥閣下であらせられた天皇陛下でさえも「コントロール不能」の怪物にのし上がっていた。特に彼らの、満州、中国大陸への「武力進出」は、いかなる言葉をもってしても「正当化する」のが困難な事態であった。この日本進出が、米国の思惑とソ連の「極東日本」への恐怖と相俟って、米国政権下に忍び込ませてあった3百余名の「コミンテルンの工作員」によるルーズベルトの対日開戦工作に繋がった、という説には「説得性」がある。その怪物「軍閥」が日本の敗戦によって消滅した事は、ある意味においては、日本国民さえも連合軍によって「解放」されたとも云える。第二に挙げられるメリットは日米安保による、日本国財政の「軍事費」への負担軽減であった。本来なら膨大な費用を要する「国軍維持費」が、日米安保によって大いに軽減され、その費用を「戦後復興、経済再生」に転用できた事は、日本経済復興の大きな要素となった。朝鮮戦争の「軍需景気」が、敗戦後の経済復興の基点となり、この安保条約は60年代以降の日本経済飛躍の基点ともなった。  このようにして、「大東亜戦争」は、結果的に帝国日本が意図した「アジアの植民地解放」と日本を中心とした「大東亜共栄圏」(ASEANの基本概念)の成立で陽の目を見たし、日本の「脱軍閥政治」にも大きな貢献をしたと云える。アンドレ・マルローは、いみじくも「日本帝国は対米戦に負ける事によって所期の国家目標を達成した・・・」と述べた言葉が意味を持ってくる。敗戦後69年、日本は「平和国家」として存在し続け、その間の経済復興のみならず、ODA等の支援で発展途上国を支援し続けて来たために、アジア、アフリカ、欧米諸国の対日評価は極めて高いものである。のみならず、日本人学者による「学術研究」分野での貢献も著しいものがあり、現在、ノーベル賞候補に値する学賢が250余名いて、その中の二百名近くが日本人だそうである。このように「無資源国日本」は、他国では見られない「知的資源」に恵まれ、その頭脳と類まれなる勤勉さで「高々度国家」を維持している唯一の民族である。  戦後の日本は、69年間にわたり「対外戦争も内戦」も経験してない「平和国家」で在り続けて今日を迎えている。軍国主義復活と非難している中国自身、少数民族への圧政と西太平洋海域への覇権は、近隣諸国に大きな脅威を与え続けており、南北朝鮮は、未だに「交戦状態」にあり、共に平和国家の道を歩んでいる訳ではない。日本の戦後は、このように平穏ではあったが、アグレッシブな近隣諸国を抱えた日本は、「日本の平和を守るため」にも、当然な義務として「国防」に足るだけの軍備を整え、集団的自衛権を確立する必要がある。それ以上に、マッカーサーにより意図的に弱体劣勢化させられた「日本精神」を、早急に復刻させる必要があると信じている。近来、日本人の青少年の間で「靖国参拝」がブームになっているようだが、誠に結構なことで「国家に生命を捧げた英霊」の御霊に敬意を表する事は、即ち「祖国日本」を愛することである。  先般、8月3日4日5日と三日間にわたり、オーストラリアのカウラ市で「日本人捕虜暴動」時の犠牲者238人と3年8ヶ月間の大東亜戦争時、捕虜になり、或いは敵性民間人として収容所に収容されていた日本人の犠牲者522人の遺骨を集めて作られた「カウラ日本人戦没者墓地」で、日豪合同慰霊祭が催された。日豪人士約2千人余が集い厳かな慰霊祭が営まれた。日本側からは、駐豪大使、総領事をはじめ、天台宗、真言宗、東本願寺、黒住教、等々から大僧正、宮司クラスの方々に加え、多数の高校生たち、民間人たちによって慰霊の祈祷が捧げられ、裏千家からは、大宗匠の代理として正教授にお見え戴き、厳かな「献茶式」で慰霊して戴いた。今年は、暴動70周年の記念日にあたり、すでに数少なくなっている生存者一名も参列された。この10年毎に催されている「慰霊祭」は、1984年度の40周年記念慰霊祭が初回で、以後今年まで4度目の「日豪合同慰霊祭」が実施されてきた。小筆も初回から参列してお手伝いをさせて戴いているが、次回2024年、5度目の80年度の慰霊祭まで元気でいられるかどうかは全く不明、その代わり、毎年9月末に開催している「カウラの桜祭り」には、大いに貢献したいと願っている。 小筆の連絡先、kentokura@hotmail.com  Tel/Fax:+612-9874-2778.