2011年11月6日日曜日

Blog-(24),

6-11-2011.

「ある教育者」
 先般訪日の折、仙台で40年近く複数の学習塾を経営している女性と話す機会があった。彼女の塾は、ご自身の経験と知人の教育者と共同で開発した「特異なプログラム」で塾生たちを成功裏に育てていた。その経緯と彼女自身の生涯に大いに感銘を受けたので、是非とも我が知友諸氏ともこの貴重な経験を分かち合い、教育の原点と日本将来の教育方法について考えてみたい。
 彼女が塾を開くに至った過程は、小学校に通っていたご自分の二人のお嬢さんへの「補習教育」が契機であった。当時の文部省の教育方針、すなわち学年単位、クラス単位の生徒の平均的理解度をベースにカリキュラムを組み、平均値の生徒を対象とした学習指導をしていた、とのことで、能力のある生徒はクラス教育では物足らないので学習意欲を失い、平均値に至らない生徒は授業に付いて行けないために落伍していたのだそうだ。この状況を二人の娘を通じて知った彼女は、担任の先生とも幾度か会って話をしたそうだが、地方学校の一担当教師では到底手に負える問題ではなく、教育方針の欠陥を知りつつ現状改定には至らなかったそうだ。そこで彼女は、自分で各学科の「理解度」を判定する基準を設けて、二人の娘の国理英数の「基礎学力」の修得度を探り出した。その結果、各教科の基礎が解っていない科目は、いくら次の課程を教えても理解出来ないことを知り、各科目の基礎を徹底的に習熟させることから手をつけてみた。結果は上々で、娘たちの理解度が直ちに上がっていき、その科目の勉強自体に興味を示すようになったそうだ。娘たちが好成績で上級学校に進学すると、彼女はこの貴重な体験を何とか実社会で生かしたいと考えて、既存の学習塾の臨時教師になり、不特定多数の塾生への指導方法を体験した。この塾でも「平均的な塾生」を対象にした教育指導方法を採っていたために、「塾の落ちこぼれ」が出ていたことを知った。この体験を元に「個人指導」を徹底させる「塾経営方針」を研究した結果、塾で知り合った教師仲間が「個人指導カリキュラム」を研究していたので彼と話し合い、「○✕式回答方式」を一切排除した国理英数の基礎科目を学科別に各々50教程に細分化した教科書を作り、その教程で各塾生の能力と習熟程度に合わせて、徹底的に「基礎教育」から積み上げていく方式を開発して今日まで教え続けているそうだ。   
 最年少は3才児から、年長者は大学受験生までが、同じ教室で各自異なった「教程」を自習しながら、理解出来ない箇所は、いつも教室に控えている教師の指導を仰いで修得する方法を採用しているとのこと。彼女曰く「基礎教育が身についていない生徒には、何を教えても理解出来ないから、基礎教育の本質から教えているのだ・・・」そうだ。各科目の基礎を理解した生徒たちは、ただちにその科目に興味を示すとともに、猛烈なスピードで「理解力を深めていく」そうで、大学受験の高校生と机を並べた小学校入学前の児童が、小学校高学年用の難問をすらすらと回答している、かと思えば、高校入試を目指す中学生が、小学生用の基礎教育の問題に挑戦している姿もある、とのことであった。彼女は、今日まで恐らく4万人近くの塾生を育て上げて、世に送り出してきたそうだが、全員がそれぞれの志望校に入学し、東北の雄「東北大学」や大学入試の最難関、東大医学部へ進学した生徒たちも数え切れないほどいて、各々が希望した社会分野で成功を収めているそうだ。彼らのすべてが、自分たちが経験した「学校教育」よりも、「彼女の塾」で学んだ「教育方式」のほうがはるかに有意義であったことを知っているために、自分たちの子供や孫たちまでも「彼女の塾」に通わせている家庭が沢山あるのだそうだ。
入塾希望者が来ると、彼女は必ず父母と児童と共に直接面接して、その児童の人間としての「成熟度」を見極めるのが大切な第一歩だそうで、その次に「各科目の理解度」を探り出して、その子の「能力に合った」教材を選び、繰り返し教科の「基礎」から教え込む、とのことだ。「むら気」が強く「忍耐力」の弱い子供たちでも、自らの性格の欠陥点を悟らせ、努力の仕方を教えると、真剣に教材と取り組むようになり、自ら理解しようと努めるようになり、進んで一段上の教程に挑戦するようになる、とのことである。従って彼女の塾では、世間で騒いでいる「学級崩壊」や「教師無視」の塾生など一切経験したことが無い、とのことであった。彼女は、この方式を基にして、カナダ、アメリカ、オーストラリア等、英語圏から英会話教師を雇い入れて「英会話教室」も成功裏に経営しているとのことだ。
 この話を聞いていて小筆は、「教育の原点とは何か」、という最重要なポイントを悟ることが出来た。併せて「日本の戦後教育は完全に間違っている」と思った。何故なら初等教育から中高等教育、大学教育に至るまで「一貫した背骨」の無い、おざなりな教育をしている、としか思えないからである。この「背骨」とは、学習する前に生徒たちが学ぶべき「精神」と「姿勢」の教えが抜けているからに他ならない。まず、人間として「なぜ勉強をしなければならないか?」という「基本精神」が教えられていないから、生徒たちが目標とする「人間像」が描けていない。本来なら、それを教えるべき教師が「自己の確立」をしていないから、生徒たちにこの目標を教えることが出来ないのだ。「卒業」と「進学」のみが、唯一の登校目標であり、上級学校に行く目的が「より良い中学、高校、そして大学」に進学して「より良い就職先に採用される」ことのみが人生の最大目的になってしまっているから、その間に、「人間として、日本人として何をなすべきか」という大前提が存在しない。結果として、個人主義に徹した人間ばかりが増えて自分が所属している「日本国」というコミュニティーへの「帰属意識」さえ生まれてこない。その上、自分の事しか考えられない「無責任」な国民が育ってしまった、ということであろう。
 優秀で頭脳明晰な子供は沢山いる筈だが、それ以上に鈍感な児童も沢山いる。彼らを一堂に集めて「同じ方法で教えても」、より出来る子供には不満足であろうし、出来ない子供には理解不能なので、当然授業自体に飽きてくる。教える教師も情熱を失うのは当然の成り行きであろう。そんな教育方法を戦後66年間も続けてきたのだから、日本全体がおかしくなったのは当然であった。
 先日、世界の人口が70億人を突破した。二百年前の人口がたったの10億人であったのだから、猛烈な勢いで人口増加が進んでいる。あと50年すると90億人を超えると予測されている。しかし、日本を始めとする先進諸国では人口減少傾向が激しく、老齢社会化が国家危機として現実化している。それにも増して、この地球上のエネルギー資源の枯渇と食料供給能力の限界が現実化しつつある。そんな中での「人口爆発」である。近い将来、世界的に「利己的である」と云われている中国とインドの人口が地球全体の人口の三分の一を占めるそうで、50年後には60才以上の老齢人口率が26%を超えるのだそうだ。砂漠化が進むアラブ諸国やアフリカの人口爆発は急速に進んでいるそうで、現在の日本からは想像も予測も出来ない世界環境が出現して「資源戦争」、「食料確保戦争」が出現するのも時間の問題であろう。その折に、我々の日本が生存できるか否かは「すべて教育」の成果に掛かっているはずである。そんな近未来を控えた地球で生き抜かねばならない日本の教育が現状のような体たらくでは、「日本国の生存も危うい」と危惧せざるを得ない。
 「基礎教育」の重要性は、世界に冠たる日本の「町工場」の卓越した職人技を見ても判るように、叩き上げの親方から「基礎技術」を手取り足取り、徹底的に教えられるもので、見よう見真似で簡単に修得できるものではない。この「職人技」が息吹いている事や彼女のような無欲無私の「塾経営者」が存在している事が「日本の凄さ」でもある。無資源国の日本が、将来生き残る道はただひとつ「技術立国」でり、それを「支える」のが基礎教育である。そんな日本が「教育」を疎かにして、巷の「塾」や「町工場」に「人材育成」を頼っているようでは日本の将来は暗澹たるものになるのは必定である。国民は「国家の財産」であり、その国民を生かすも殺すも、すべて「政府の教育方針」にあり、国家の将来は「基礎教育」の確立にある。仙台の「ある教育者」との会話が、日本の将来にまで飛躍するのも、小筆の高齢化と杞憂が成せる技かもしれないが、「基礎教育」の重要性は、国家根本の要であり、絶対に必須条件である。日本人同胞諸氏よ、日本の将来のためも、未来の日本を背負って立つ子供たちのためにも、現行の「教育制度」の改革を進めねばならない、と思うのだが・・・。
 シドニーの至る所に、初夏を告げる花「ジャカランダ」が咲き乱れてきた。くすんだユーカリの緑の中に、突然現れる「濃い紫色の杜」。ジャカランダの花見酒は、やっぱりドライな白ワインが合っているようだ。