2010年10月3日日曜日

国難と憲法九条

やっとシドニーにも春らしい気候が戻ってきた。日本の酷暑に比べて今年の冬は、史上まれなる大降雨と蝗害、強風に襲われた一冬であった。オーストラリアの春九月、何が楽しみといっても、恒例の「カウラの桜祭り」に尽きる。
 22年前、日本庭園の完成により始まった二千本の「桜並木道」建設と「桜祭り」は、年毎に盛大になり、桜木は千本近く、桜祭りには毎年三千人近い参列者が集ってくれて、日本から寄贈された桜木と満開の桜花、それに加えて各種日本文化の紹介を多くのオーストラリア人たちが楽しんでくれている。小筆も日本からの来訪者と共に桜祭りを堪能して来た。

 この素晴らしい「桜祭り」に比べて、日本では憂鬱な事件が連続して、おちおちしていられない暗い気持ちでいる。その第一は、民主党の党首選であった。第二は、証拠改竄隠滅での主任検事、地検幹部の逮捕、その上外交問題にまで介入する検察への不信、第三は勿論、尖閣諸島海域への中国漁船侵犯船長の釈放問題と中国政府の対応である。

民主党党首選での小沢一郎敗北はグット・ニュースで大歓迎であった。彼のような皇室不遜、独断狭量、媚中、媚韓外交を臆面も無く繰り返し、日本の安全保障に関する国際感覚が全く欠如した上に、政治資金疑惑に塗れた人物が「日本国首相」に就任したら、日本の信用はおろか国家滅亡に繋がる舵取りをするに違いない、と確信していたからである。
公金である「政党助成金」累計29億円余りを長年にわたり巧妙に私用し続けてきた小沢一郎への疑惑は、素人の小筆でさえ充分に犯罪性を感じているのに、天下の検察が何故これを「立件起訴」しないのか、未だに疑問に思っている。その推測として、小沢の資金疑惑の「事情聴取」をした検事の一人に、元厚労省局長起訴時の証拠改竄と隠滅容疑で逮捕された元主任検事がいた事実である。四度にわたる事情聴取時に、検察と小沢議員の間で、何か「裏取引」があったのではないか、と疑問視している。それにも増して、70%以上もの国民に疑惑を抱かれている小沢一郎自身が、未だに公職である議員を続けていられるのか、本人の人格と良識も疑っている。東京第五検審の判定に期待する事、大である。

この小沢事件も頭痛の種であるが、それにも増して、国際法を無視した中国政府のアグレッシブで貪欲な「ごり押し」と領海拡大政策が心配の種である。
 近年中国の無法ぶりは目に余るものがある。チベット、新疆ウィグル、台湾、南シナ海の南沙諸島、西沙諸島、東シナ海の海底ガス田問題に加えて、「領海法」という国内法を勝手に定めて、他国の主権に属する「海域」を自国の領海としてしまう非常識と厚顔さが、今回の尖閣諸島海域での密漁問題に対する外交姿勢で顕著になった。中国は、政府までが「パクリをするのか?」と云うことである。中国は、始皇帝の漢民族統一以来、内政が安定すると、一貫して周辺諸国を侵攻してきた。「中華思想」の正体とも云える。現在の中国共産党もその例に漏れず、絶えず周辺諸国への侵略を繰り返してきた。

尖閣諸島海域は、江戸末期から島津藩の支配下にあり、明治12年に「沖縄県」が設置された上に、台湾割譲時に清国が「琉球の日本帰属」を承認して以後も、中華民国も、現在の中国政府も「日中共同声明」発表時に周恩来首相が承認し、鄧小平の訪日時にも、その帰属討議を棚上げせざるを得なかった海域で、250余年にわたり国際的に日本の実効支配が認知された日本固有の領海である。
その海域での中国漁船の違法操業で逮捕された船長の釈放を、こともあろうに外交儀礼を無視して深夜に日本大使呼び出して、再三にわたり釈放を求めるなど、とても国際常識では考えられない態度をとった事は、中国の国家的常識を疑わせるのに充分であるのに、それにかまけて、両国首脳の合意事項であった閣僚交流、青年交流のキャンセル、その上、日本人駐在社員の報復的な逮捕まで加えると、中国が自国の経済力と伸張しつつある軍事力を背景にした圧力で周辺諸国のみならず日本まで恫喝し始めた、としか思えない。
なにしろ、共産党政権を樹立するために三千万人余り、権力闘争のために文革を起こし二千万人以上、自由を求めて天安門でストを張った学生集団に「人民解放軍」の戦車部隊を投入して、平気で自国民を殺戮し、友邦であったはずのベトナムに武力侵攻さえしてきた中国政府である。「何を仕出かすか分からない・・・」と云うのが正直な話である。
小筆は、第二次世界大戦直前、ヒトラーが英国のチェンバレン首相を三度も自国に呼びつけ、チェコに属するズデーデン地方のドイツ併合を認めさせた上、ポーランド侵攻に踏み切った史実を思い出さざるを得なかった。
「中華思想」を信奉する中国人の本性は、「弱者へは居丈高に威圧し、強者には遜る」のが歴史上繰り返してきた民族の性癖である。日本政府は、彼らの民族性を良く理解して対応する必要がある。

 そこで小筆の心配事は、憲法九条の「不戦条項」である。この条項は、日本国から発動する「戦争放棄、軍備および交戦権の否認」であって、他国からの主権侵害から「国家主権と日本国憲法を守る」ことは「平和の内に生存する権利」の範疇であって、「崇高なる理想と目的を達成する責務」の中に存在しているものである。
この不戦条項の前提として、憲法前文二項に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」、「平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と記されているが、この九条はあくまでも「周辺諸国の国際法遵守」を前提としたもので、決して日本国への「主権侵害」を黙視する条項ではない。
日本国政府も日本国民自らも「国家の主権」と「国民の安全」を守る崇高な義務があり、他国からの主権侵害には当然武力を行使しても断固として立ち上がる「権利」がある。「自らは、決して対外侵略はしないが、日本への主権侵害には戦争も辞さない・・・」、この決意表明と体制、それを支える「軍備の充実」に努めることが、すなわち「第九条、不戦条項」を守ることである。

 我々日本国は、第一次世界大戦以後、太平洋戦争の敗北まで「軍部独走」という苦い経験を得て、この九条の「不戦条項」に到った経緯を持つ。しかし、戦後65年間の「国際法遵守」と「国際貢献」は、日本と日本人の「平和遵守国家への変身」を充分に表明し、証明してきたと確信している。
 それに反して日本の周辺諸国は、この日本の自浄努力を認めるどころか、九条の「不戦条項」を良いことに、日本国の「主権」を侵し続けている。ロシアの北方領土、韓国の竹島、北朝鮮の日本国民拉致、中国の尖閣諸島の領有権と大陸棚領有説を理由にした経済領域拡張、台湾の尖閣諸島の領有主張、等々、彼らにとって、日本の「不戦条項」はまたとない「安全弁」である。ただ彼らの主張が拡大、実行されないのは「日米安全保障条約」と「米軍基地」が沖縄を含む日本各地に存在しているからであって、日米安保はまさに「日本の生命線」である。

 近年中国の異常な軍拡と自国権益への主張は、日本が自らに課した第九条の「武力による威嚇」と「国際紛争を解決する手段」としての「武力行使の否定」に抵触し、憲法前文三項の「自国の主権を維持し、他国と対等な関係に立とう」とする日本の責務にも対立する行為である。
 戦後日本は、「太平洋戦争の贖罪意識」から自らの主権の意義を亡失し、因って立つ「国家主権防衛」の責務さえ消失してしまった。
 今回の「中国のごり押し」事件を契機に、日本国民全員が「国家主権の意味」と「国防意識の貫徹」を再認識して、国家防衛のために「生命を捧げる国民」、すなわち自衛隊に憲法上の「正当なる地位」を与えるべく憲法九条二項の改正をして、「日本国家」の安全と持続のために何をしなければならないか、と云う「重要主題」を国家的争点として盛り上げ、万機公論を尽くす必要に迫られている。

 小筆は、シベリアで非業の死を遂げた父の「61年忌供養」のために、今月15日から18日まで、三度目の「ハバロスク墓参」をする。墓石もない荒涼とした墓地跡に日本酒、線香、ローソクと肴を捧げて一人で座り込み、久々に父との「心の交感」を楽しみにしている。日本が太平洋戦争さえ起こさなければ、「父も死ぬことは無かったのに・・・」と、未だに「悔恨の思い」を持ち続けている。