2015年1月25日日曜日

Blog 46 - 感傷旅行」

Blog-46 「感傷旅行」  先月15日から30日までの訪日で、学生時代から疑問に思っていた佐賀県唐津市を訪ねることが出来た。結果的には、何の「結論」も得られなかったが、人生最大の「疑問の地」を自分の足で歩き、眺め、肌で感じられたことで大いに満足した。  その疑問とは、小筆が大学4年の時、卒業試験が終わった後、卒業式までの一ヶ月間、香港旅行に誘われて「パスポート」を取った時、自分の戸籍謄本の父の欄に、戸倉勝人「出生地、佐賀県唐津市唐人町」との記載があったことから始まった。母もその事を初めて知ったらしく、親戚の叔父や叔母たちにも聞いてくれたが、「我々の祖母」と唐津市の関係は判らないままであった。祖母、「末永りょう」は、長州毛利藩の上級武士の長女で山口で生まれ、数え年14歳で下関の侍に嫁ぎ、2女をもうけた。しかし主人が病死したために、後に小筆の祖父、戸倉勝淑と再婚したが、先夫も戸倉家も唐津市には無縁であった。  戸倉家は、16代勝明まで代々姫路酒井藩の「馬廻り役番頭」、即ち「藩主の護衛隊長」と藩校「好古堂」の指図役と漢学師範として260石余の禄を食んできたが、17代勝淑の時、明治維新が起こり、徳川の親藩酒井藩は当然「賊軍」になり取り潰し、藩主は華族に列せられたが、家臣のすべては「小禄」を与えられて失業した。その上、賊軍からは誰一人明治新政府の官職には就けなかった。幸い戸倉家は歴代、馬廻り役の傍ら、漢学師範を続けていたために漢文の素養があり、維新以後、祖父勝淑は明治陸軍教導学校を卒業して近衛師団の士官になった。日清戦争に際し、祖父も朝鮮と満州に語学士官として出征したらしく、戦後、大連に残り、縁あって祖母と結婚した。父を身ごもった祖母は、日露戦争勃発に際し、祖父が軍籍に戻ったために、一人で唐津市に疎開して、明治37年10月24日に疎開先で父勝人を出産したために、戸籍謄本に「唐津市」と記載された事までは判った。しかし日露戦争を避けるために「何故、どんな縁」があって「身重な祖母」が唐津市に行ったのか、誰も知らない「謎」であった。小筆は、長年この疑問を解くべく、一度は唐津に行ってみたい、という夢を長年抱き続けてきたのが、75才にしてやっと実現した訳であった。  市制60周年の祝賀式典に招かれて訪れた宮城県白石市、その白石蔵王駅を06時20分の「やまびこ」に乗り、東京、新大阪と新幹線を乗り継ぎ、博多駅から筑肥線に乗り換えて、10時間後にやっと唐津駅に至り、タクシーで「虹の松原、国民宿舎」に着いたのは16時30分であった。暮れなずむ風光明媚な虹が浜を散策しながら、数奇な運命を辿った父の人生を改めて想い起し、小筆自身の人生との類似点が余りにも多いことに、今更ながら驚いている自分をも発見した「感傷旅行」でもあった。  祖父は、日露戦争以前から「支那語」が堪能であったために、大尉として情報関連の職務に携わっていたようであったが、戦後は大連で退役して、日本がロシアから譲り受けた「南満州鉄道」に職を得て総務畑を歩み続けた。日露戦争の10年後に勃発した第一次大戦で、日本がドイツから接収した山東鉄道に派遣され、大連から家族連れて青島に移ったのは、父が小学3年生の時であった。以後父は、青島日本人小学校に通学の傍ら、武家の子弟の嗜みとして剣道道場に通い、青島日本人中学校に入学した時は、青島の日本人社会でも知られた有名な剣士に育っていた。青島中学校では、剣道部に籍を置き、4年生の時に、京都の武徳会主催の「全国中等学校剣道大会」で優勝した経歴を持っていた。父は青島中学校卒業後、上海に在った「東亜同文書院」に入り、さらに中国語と中国事情修得に磨きを掛け、卒業後、熊本第六師団小倉第14連隊で「一年志願士官候補生」として、将校教育を受けた後に、大日本帝国陸軍予備少尉となって上海に戻り、満鉄に就職した。翌年大連本社の調査部に転勤した後、関東軍との連携で「満州国独立」の研究に携わり、新国家での「治安関連]の調査、研究を続け、満州国独立と共に「交通部(運輸省相当)に政務次官クラスの高級官僚となり、役人生活を始めた。建国直後の官僚、特に中国語に堪能であった父は、奉天、ハルピン、新京、海城、吉林、承徳、再度新京とめまぐるしい転勤生活が続き、2年毎の転勤生活に終始した。その間、ハルピンで姉、海城で小筆、吉林で妹、最後の新京で、その下の妹が生まれた。昭和20年7月、満州国協和会本部、調査第一部長の要職にあった父は、ソ連軍の満州侵攻に備えるために、関東軍の「根こそぎ動員」で軍籍に戻り、語学に優れた在満日本人8百余名を召集して、特別警備隊を組織し、彼らを率いて東満州の延吉に赴いた。父が42才、小筆が7才、新京の桜木小学校に入学したばかりの時であった。父は赴任に際し、戸倉家に代々引き継がれて来た、「伝家の兼房」の名刀を長男の小筆に手渡し、「祖母上、母上、姉妹たちを頼んだぞ!!」との言葉を残して戦場に向かった。    夏休みに入ったばかりの8月9日の未明、ソ連軍は膨大な部隊と共に北西満州国境を越えて満州国に侵入してきた。当時、精強を誇った関東軍も太平洋戦線に精兵部隊を抽出されて、未練成の老年若年兵ばかりが、対ソ戦線に残されていた。戦力の差は、いかんとも為し難くソ満国境は各地で破られ、関東軍も日系住民も南へ南へと後退を余儀なくされた。我々留守家族も、11日深夜、新京駅から汽車に乗せられ、南下して安東から鴨緑江を渡って北鮮に入り、平壌駅に至ったが、平壌も日本人避難民で溢れていたので、平壌の外港である鎮南浦に行かされた。鎮南浦は、港町で原住民の朝鮮人に混じり、一万人近い日本人が住んでいた。我々は、日本人民家に分宿させられ、結果として翌年9月16日まで疎開生活を余儀なくさせられた。父の消息は判らず、日本の状況も不明なまま、一年余りの疎開生活が続いた。翌年9月、日本への引揚げが始まり、健康な家族たちから梯団を組み、38度線を目指した「徒歩旅行」が始まった。男手が無い我々家族は、病人部隊に入れられ、達磨船、貨物列車、牛車、或いは徒歩と半月近く掛かってやっと38度線を越えて南鮮に入り、仁川から貨物船に乗せられて10月30日に佐世保港に着いた。迎えに来てくれた日本在住の叔父や叔母たちから「父は未帰還」である、と知らされた時のショックは、未だに鮮明な記憶として残っている。その後、母の郷里の山口県花岡に戻り、日本での生活が始まったが、父の居ない日常は、母一人の手で賄われ、極貧に近い生活が続いた。その後、シベリアに抑留されていた父から「はがき」が届き、我々家族も一安心したのも束の間、昭和25年5月に、山口県庁から父の死亡通知が届いたのが、小筆11才の時であった。  以後、我々家族の貧困生活は続いたが、母の教えは、「武家の誇り」と「清貧に耐える」心構えであった。我が家には、父がおらず、母一人の収入で生活しているので「貧しいのは当然」です。しかし、決して貧しさに負けず「精神貴族」の誇りを失ってはなりません、と何度も諭されて育ち、シベリアで共産主義者たちの「洗脳」を拒んで死んだ父への追憶に生きる生活が今日まで続いている。60才になって、父の「終焉の地」ハバロスクを訪ね、父の墓所を探したが果たせず、翌年ハバロスク経由でモスクワに行き、歴史文書保存センターを訪ねて、KGBが作成した父の「尋問書」を見つけ出したが、死因と検視報告書以外は、60余頁のすべてが消された「白紙」で、各頁の最下部に、父自身の雄渾な漢字での署名がされていたのを発見した。そのコピーを受け取り、シドニーへの帰途、日本に立ち寄り、日本文に翻訳してもらった検視報告書では、完全な「栄養失調」による疲労死を覗わせるものであった。諦め切れない小筆は、モスクワまで同行願ったガリーナ女史に墓所の調査を依頼していたが、10年後にハバロスクから連絡あり、いろいろと調査を続けているが、貴方の父上の墓所は、消去法でいくと、ハバロスク第二市民墓地の「日本人セクション」しか無い、と云って来た。その場所は、前回三度の訪問時に、小筆の「涙が止まらなかった」廃墓の一ヶ所であった。早速、女史に連絡して、4度目のハバロスク訪問を果たし「確証は無い」が、心理的に確信のあった父の埋葬地の墓参を果たしたのが、小筆70才の時であった。すでに廃墓になって久しい第二墓地跡はススキとブッシュで覆われていたが、ガリーナ女史がハバロスク当局に話して「ケンの父親の墓所」とみられる場所の雑木と萱を取り払うように頼んでくれていたので、一人で「墓地の中心部」に向かい、バラの花と日本で購入した日本酒「ワンカップ」とするめ、おかき、を墓地らしき所に並べ、ローソクと線香に火をつけ様とした途端、ワンカップのみが倒れ、酒半分が地面に吸い取られてしまった。「酒好き」であった父が、小筆のお祈りを待てずに、「先に飲んで」しまったが、息子のために「半分は残して」くれたものと信じて、残り半分を有難く飲み干したものであった。  結果から云うと、父の人生は、唐津生まれではあったが翌年満州に戻り、その後小倉で将校教育を受けた一年間以外は、すべて満州と中国、そして最後の4年間をシベリアで過ごして、46年間の人生を終えた。祖父も人生の大半を中国で過ごした。父の人生を真似た訳ではないが、小筆の人生も海外生活が満州時代も含めると52年間になり、息子も娘も日本とは全く関係の無い人生をシドニーで送っているので、これも戸倉家の「血」が為せる業かも知れない。7才で生き別れた「父」は、67年間を経た今も小筆の「胸」に生き続け、その姿には何の変化もなく、未だに幼年時代と同様に甘え続けている自分が可笑しくもあるが、それはそれで良い、これが俺の生き様なのだから・・・と納得し、「一人酒」を飲む時は、何時も父が相手であり、その都度、小筆が天国に行って、父に再会した時、何と挨拶をしたら良いのか、なんてことを考えながら、日々豪州ワインを楽しんでいる。良き家族に恵まれた自分の人生を両親の位牌に感謝しながら多忙な日常に勤しんでいる。 連絡は、tokura.katsunori@gmail.com Tel: +612-9874-2778へ. 次回訪日は来年3月を予定。

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