2013年12月31日火曜日

リベレーター、植民地の解放者、

Blog-41 31-12-2013. 「リベレーター」(被圧迫民族の解放者)  過日、南アのネルソン・マンデラ元大統領が亡くなられた。彼は学生時代に、悪評高かった人種差別法「アパルトヘイト」に抗議して、国家反逆罪で終身刑を宣告され、毎日「石割り」の重労働を科せられ、「27年間」もの獄中生活を強いられた。後に、国際社会からの抗議が強まり、釈放されて大統領になった人物である。その後も「穏健派のアフリカ人」として、全アフリカの民族間の融和と和解を訴え続け、「ノーベル平和賞」を授与された偉人であった。彼が残した言葉の中で、印象的だったのは、「なぜ、日本人はアフリカを開放してくれなかったのか・・・」と云う言葉であった。  ご存知のように15世紀、白人国による「大航海時代」が始まり、地球上のすべての有色人種の土地が「白人国の植民地」となり、想像を絶した奴隷的な植民地統治下に置かれた。それ以後、20世紀の半ばまで、宗主国に搾取され続けたが、アフリカなどでは、住民たちが拉致されて、南北アメリカ大陸に「奴隷」として売られた経験を持つ。  その中で、辛うじて独立を保ち得た「有色人種国」は、日本の他は、支那と属国であった朝鮮半島、タイ国だけであった。 すなわち、アフリカ、南米、中近東、インド亜大陸、東南アジアのすべての「有色人種諸国」が「西欧列強」の植民地にされ、3百余年に近い年月を辛苦呻吟状態に置かれ続けた。日本も危なかった、信長の時代に、フランシスコ・ザビエルが来日して、その可能性を探ったが、当時の日本は、欧州の白人諸国よりも、より高い文武両道の「先進文明」を持っており、内政も武士階級によってしっかりと確立されていたために、彼らも手が出せなかった。  しかし19世紀中期に入ると、西欧の食指は、まず独立国であった「清国」、支那大陸に及び、英国が仕掛けた「アヘン戦争」を契機に、清国への侵略が始まった。当時、すでに衰退期に入っていた清国には欧米に対抗できる力は無く、英米仏の蚕食を傍観するしか術はなかった。しかし日本では、鎖国中とはいえ各藩の青年武士たちが世界情勢を学び、白人国の貪欲な侵略性を見抜き、人類史上稀に見る「明治維新」という無血革命を断行して新政府を樹立して「国難」を避けた。  明治政府は、政権確立当初から、「国防目的」のために国家近代化への道を歩み始め、その要である「国軍」の涵養に力を注いだ。以後、台湾遠征、日清、日露、北清事変、等々、すべての戦いが、日本の独立維持と朝鮮半島保護のための戦いであった。その成果は、台湾割譲と朝鮮半島の独立、後に併合という形で現れた。特に「日露戦争」では、世界最強と云われていた「ロシア陸軍」を満州の原野から壊走させた事実は、有色人種植民地住民の「驚異の的」となった。その上、第一次世界大戦直後、連合国の一員であった日本は、「ベルサイユ平和会議」で、人種差別反対を主張して「有色人種国」から高く評価された経験を持つ。しかし、彼ら「被植民地住民」に取っては、依然として「白人宗主国」からの解放などは、精神的にも力量的にも実現不可能な「夢のまた夢」であった。    後年、中国大陸の覇権を巡り、米国が日本に「仕掛けた謀略」により、日本は「中国と満州の両大陸」での戦いに追い込まれた末、始まったのが日中戦争に続く、米英蘭相手の「大東亜戦争」であった。日本軍の真珠湾攻撃によって火蓋が切られた「西太平洋地域」での戦闘では、半年も経ずして「東南アジア全域の植民地」すべての宗主国軍隊が、敗退敗走させられて、植民地すべてが解放された。日本軍は、各占領地において寸刻をおかずして、「独立国」へ向けた「現地青年たちへの訓導」を始めた。その範囲は、フィリピン、仏領インドシナ半島、ボルネオ、マレー半島、シンガポール、インドネシア、インド亜大陸に及んだ。  長年、白人宗主国には「抵抗不可能」と信じて、三世紀半以上にもわたり、「白人たち」を「神」のように崇め、畏怖服従して、黙々と搾取され続けていた「現地住民たち」にとって、自分たちと変わらない有色人種である「日本軍」の進攻に、短期間で攻め込まれ、嘘のように敗退していく白人部隊の姿は、まさに「晴天の霹靂」であり、自分たちが持っている「力の潜在性」に目覚めた瞬間でもあった。当時、インドネシアの人口は「一億人」以上であったが、宗主国オランダの人口は、「一千万人」にも達していなかった。そのオランダが、マンデラの祖国「南アフリカ」を始め、インドネシア、カリブ海諸国等に「植民地」を持ち、搾取し続けて、すべての富を祖国に運び、「白人帝国」の栄耀栄華を誇り続けた。それらの白人諸国とは、オランダ、スペイン、ポルトガル、英仏米、ドイツ、人口過少のベルギーでさえ、アフリカに植民地を持っていた。彼らの植民地は、主に農耕に適した「赤道周辺」に集中し、香辛料の搾取から始まり、農産物、後には宝石、貴金属類を含む鉱石、石油資源に至った。唯一の例外は帝政ロシアであった。欧州では、「後進国」とされていた「スラブ人ロシア」は、大陸国家であり、「海軍力」を持たず、海上からの植民地獲得戦には参加できなかったが、陸路東進を続けて、シベリア、カムチャッカ、ベーリング海を越えてアラスカまでも版図に加えていた。  その間、宗主国同士の「植民地争奪戦争」が頻繁に起こり、植民地から収奪した「宝物」を他国の船が横取りすることが頻発したために、その防衛のために「公認海賊船」までが現れた。彼ら白人同士の戦争が武器性能、造船技術の向上に大いに貢献した。史上最後の植民地争奪戦争は、18世紀末の「米西戦争」、米国がスペインのカリブ海とフィリピンの植民地を強奪した戦であった。    その間日本は、日清戦争に勝って「台湾の統治権」と朝鮮半島の「独立」を勝ち得た。しかし、朝鮮李王朝には「政権維持、行政能力」が皆無で、日本はやむを得ず「日韓併合」を実施した。日本政府は、台湾、朝鮮半島、後には満州国にも、それまでの「白人諸国」の植民地統治では「決っして見られなかった」多大な社会投資を実施して、「民生の向上」と「社会資本の充実」と何よりも「原住民の教育向上」に力を注いだ。  民族すべてが白人国の支配下のもと、奴隷状態下の圧制に置かれた地域を、先進国では「植民地(Colony)」と呼び、白色人種の当然の権利として「有色人種」の奴隷化が受け継がれていた。その状況からの「開放」を唱え、指導した個人、またはグループを「解放者(Liberator)」と呼ぶ。南アのマンデラもインドのガンジーも、中南米の現地人たちをスペインから解放したボリバー等々少数の指導者も存在したが、彼らが「解放した」のはすべて自国民だけであった。しかし、大東亜戦争で日本軍が解放した植民地は、各種民族が混在した「東南アジア全域」にわたり、その影響は、インド亜大陸から中近東、後にはアフリカにまで及んだ。この大役を果たした「日本と日本人」を、正しく「植民地解放のリベレーター」と呼ぶ者はいない。何故なら、第二次大戦の戦勝国すべてが「植民地の宗主国」であり、敗戦国日本の「戦犯裁判」の主務国であったからに他ならない。  敗戦国日本は、「戦時賠償」の名目で膨大な賠償金を、東南アジア諸国に支払った。「受益国」は、その資金で「新国家」を樹立し、国家財政を賄った。近年になり、その「解放者日本」に対する評価は、解放されたアジア諸国のみならず、宗主国であった白人国からも評価され始めている。先般実施された「安部総理」による一連のアジア歴訪が、心温かく歓迎された理由も、自分たちの「リベレーター、日本国」に対する敬意と感謝、近親間の表明であったと思っている。 以下、各植民地の「宗主国」、「搾取年数」と戦後、日本が支払った「賠償金額」を提示しておく。 インドネシア(オランダ)、340年間、804億円+ 2億米ドル。フィリピン(スぺインから米国)、381年間、1902億円+ 5億5千万米ドル、シンガポール/マレーシア(英国)、147年間、60億円、ビルマ(英国)、124年間、977億円、ベトナム(フランス)、58年間、140億円+ 4千万米ドル、ラオス・カンボジア(フランス)、58年間、ラオスへは10億円、カンボジアには15億円、その他、各国へ「日本人による各種無償役務」が提供された。この賠金額総額は、当時日本の国家予算の60%に相当したが、日本は二年間弱で全額支払いを完了した。それ以外に対戦国ではなかった共産党中国には、ODAとして累計で一兆円以上の支援を与え、韓国には、日韓基本条約締結時に8億相当の米ドルを無償、有償、借款として支払っている。それに反して、彼らの「旧宗主国」は、旧植民地の「新国家誕生」に際し、未だに1銭の賠償金も支払わないのみならず、一言の謝罪も与えていない。オランダなどは、インドネシアの独立に際し、逆に「賠償金」の請求さえしていた。以上の経緯をみても、真のリベレーター、被圧迫異民族の「解放者」は、間違いなく「日本」であり、日本国民であることが明確である。それ故に、東南アジア諸国からは、未だに心からの「感謝」の意を捧げられている。ここで、改めて皆さんに「マンデラ氏の言葉」の意味を味わって戴き、あなた方も、その「日本人の一員」であることを誇りに思ってもらいたいと願い、このブログを記した。2014年がよりよい一年間になり、皆さんが「日本人として自信と誇りを持って、正々堂々と生きて行かれますように!!」との願望から、このブログをお届けします。併せて佳き新年を迎えられますようにご祈念申し上げます。  2013年大晦日、シドニー在住、戸倉勝禮。

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