2013年8月14日水曜日

Blog-40 「戦後69年を迎えて」

Blog-40. 「戦後69年を迎えて」  私が「敗戦」を迎えたのは、北朝鮮平壌近くの港町、鎮南浦で7才半の時であった。8月9日早暁、ソ連軍の満州侵攻により、11日深夜、我々家族は満州国協和会の留守家族と共に一団となって新京駅(今の長春)から列車に乗って南下、二日がかりで安東から北朝鮮に入り平壌駅に到着したが、平壌市内はすでに日本人避難民で満杯、そこで平壌の外港でもある鎮南浦に列車が回された。その時まで見たことも無い田舎町に驚いたが、そこの日本人も朝鮮人住民たちも皆んな親切で、全くの異郷ではあったが、取りあえず「西本願寺」の本堂で一泊した。翌15日、「終戦の詔勅」があり、日本人は「敗戦国民」となった。協和会幹部であった父は、6月の「根こそぎ動員」で軍籍に戻り延吉守備軍に属していたが「連絡」が取れず生死不明、我々祖母も含めた家族6人は異郷での生活を強いられることになった。その一年間、幼少ながら「敗戦国民」の悲哀を感じ続け、まだ見たことも無い「祖国、日本」への引揚げの早からん事を願い続けた経験は、未だに鮮明な記憶として残り続けている。  さて、「戦後69年」を迎えるにあたり、明治維新以降、昭和20年8月15日、終戦までの「帝国日本史」を「私的史観」として振り返ってみたい。明治維新への契機は「欧米列強」の貪欲な「植民地拡大主義」から「日本を守る」気概から始まった。この国家的危機に鈍感であった「徳川幕府」に危機を感じた諸藩の下級武士たちが立ち上がり、成功させたのが明治維新であった。以後、明治政府は「西欧列強からの国土防衛」を目標に、「日本の近代化」と「国軍充実」に努める一方、国民全般の「近代化への覚醒」に努めた。当時の世界は、南米、アフリカ両大陸、中近東、インド亜大陸、東南アジアと中国の一部が、すべてが西欧諸国の植民地であった。そんな世界環境の中で、清国は「明治維新」以降、近代化を押し進める日本を侮って、北洋艦隊を日本に歴訪させて威嚇し、ロシアは満州への浸透意図を鮮明にすると共に、朝鮮半島略取意図を露にし始めた。この国際環境の中で、新興国日本は、陸海軍の軍備拡充に努め、「国防戦力」を充実させていった。その後、日本は「国防の要諦」として、清国の属国であった朝鮮半島の「独立」をめぐって日清戦争に突入して勝利を収め、「朝鮮半島の独立」と台湾、膨湖諸島の割譲、遼東半島租借と賠償金2億テールを勝ち取った。しかし、独仏露は即、「三国干渉」をもって日本を威嚇し、清国に更なる2億テールの追加賠償を認めさせる代わりに、日本に遼東半島の放棄を迫った。時の日本政府には、彼らに抗する国力は無く「臥薪嘗胆」の決意の元に、この理不尽な干渉を受け入れた。翌年、露国は、遼東半島、ドイツは青島を含む膠州湾、フランスは広州湾、英国は威海衛と九龍半島、等々の租借を清国に認めさせた。これが「植民地争奪」華やかな時代の「砲艦外交」であった。以後、朝鮮半島に対するロシアの「領有意図」は露骨になり、10年後に、日本は「世界の陸軍大国、ロシア」と開戦せざるを得ない状況に追い込まれた。  日清戦争の十年後、日本は「朝鮮半島と満州」の覇権を巡り、世界中が認めていた陸軍大国、ロシア帝国との開戦に踏み切り、苛烈な戦闘の末、辛勝を得て、三国干渉で失った「遼東半島」の租借に成功すると共に、旅順に「関東庁」設け、「満州の大地」に橋頭堡を得た。日露戦争で「東清鉄道」を入手した日本は、当時「無主の大地」と云われた「満州大陸」の開発を目指して国策会社「満州鉄道(株)」を設立し、その開発に着手した。しかし、満州には、漢人馬賊、張作霖が威を張り、ことごとく満州開発阻止に動いたために、帝国陸軍は「満鉄保護」と「満州開発」の目的で、旅順の関東庁に「関東軍」を併設して対抗策に出た。その間、日本の尽力により「独立」を得た「大韓帝国」は、国内改革のみならず国政正常化をも怠り、日本が与えた「独立国」の運営にも失敗を重ね続けて、すべての近代化が発足も出来ない状態が続いていた。西欧11ヶ国の推挙もあって、台湾領有に続き「日韓併合」が実現した。併合後の朝鮮半島の「近代化」には目覚しいものがあり、日本の台湾統治と朝鮮半島経営は、欧米諸国が驚愕するほどの成果を見せ始めた。  日韓併合の4年後、欧州で「第一次世界大戦」が勃発し、ドイツ、オーストリー・ハンガリー帝国連合、オスマントルコ対英仏ロシア連合の「6年間に及ぶ」大戦争が始まり、日本は「日英同盟」の関係上「連合国の一員」として参戦し、山東省青島と中部太平洋のドイツ軍陣地を占領した。その間、ロシアでは「共産主義革命」で帝政ロシアが消滅し、欧州でも古い王国が次々と消えてなくなった。5年余り続いた第一次世界大戦は、欧州列強すべてに甚大な「国力消耗」をもたらした結果、無傷の日本は「世界の最強国」の一員に名を連ねた。ベルサイユ宮殿で行なわれた「平和会議」の席上日本は、有色人種諸国から大いなる期待を持たれた「人種平等宣言」の動議を提出したが、白人参加国の拒否に合い失敗したが、人類史上初めての「人種差別反対動議」提出に、欧米の植民地支配に苦しむ各地の植民地からは、大いなる期待と希望が寄せられた。これら一連の出来事は、維新以降たったの50余年間での出来事であった。以後日本は、史上唯一の「非白人強国」として欧米列強の「妬み」と「慄き」の中で歴史を刻む宿命を背負った。  米国のアジアへの関心は強烈なものがあり、キューバ解放のために米西戦争を起こし、キューバからスペインを追い出した後、即、フィリピンと中部太平洋のスペイン領を領下に収め、中国と満州の大地にまで食指を動かし始めた。しかし、満州事変で張作霖の息子、張学良軍を追い出した「関東軍」は、満州建国を宣言した。中国各地に群雄割拠する漢人軍閥の覇権闘争で混迷を極める中国大陸は無政府状態であった。そこに手を突っ込んだのが「日本陸軍」の好戦派であった。確かに軍人にとって「叙勲」は最大の魅力であり、勲章への道は「戦争」が最大の近道であった。「北支那派遣軍」は、天皇の専権である「統師権」を犯すのみならず日本国政府の意思に反して、勝手に対支那戦線を拡大して行き、「泥沼」にはまり込んでいった。それに反発したのが、中国大陸の「市場開放」を意図する米国であった。米国政府は、対日戦宣布告も無しに蒋介石国府軍に「フライングタイガー」と称する戦闘機部隊を送ったのみならず、ビルマ=混明間に「援蒋ルート」を設けて、公然と軍需物資の支援を始めた。それのみならず、ルーズベルト大統領は、日本が絶対に「承諾し得ない」、明治維新以後に獲得したすべての「版図の放棄」まで求め、在米日本資産の凍結、石油、くず鉄の日本への禁輸措置まで実施して日本を追い詰めた。それが原因で「対米戦争」は開始された。開戦当初、日本軍の占領地域は、中国大陸のおよそ「東半分」、タイを除く仏印、フィリピン、ボルネオ、シンガポールを含むマレー半島、インドネシア、ビルマに及び、彼らの宗主国であった米英蘭仏政府が、1600年代初頭から「東インド会社」名義で植民地支配をはじめ、350数年にわたり搾取し続けた植民地のすべてを短期間で解放したのみならず、現地人を集めて新政府樹立準備要員の教育と独立軍将兵の訓練さえ施した。しかし、日本軍がインド開放を目指す頃から「国力」の衰退が始まり、結果として「敗戦」を迎えた。しかし、日本軍が「解放」したアジアの植民地は、日本の敗戦後に戻ってきた宗主国軍との戦いに、多くの日本軍将兵が参加して彼らの独立を助けた。これらの旧植民地のすべてが、戦後に「独立」を果たして、今日の繁栄を迎えている。  植民地の人口構成のすべては「原住民」で構成され、その上に「極少数の宗主国の白人」が君臨して原住民を搾取するのが常態で、「植民地の主権」は宗主国にあった。彼らは「愚民政策」を取り続け、現地人の教育を拒み続けたので、原住民は「世界情勢」を理解する機会も能力も無いまま、20世紀中葉を迎えたが、ある日突如として「有色人種の日本兵」が現れ、ごく短時間の間に「神とも仰いでいた白人たち」を駆逐し、早くも翌日から植民地時代には想像も出来なかった「現地人主体」の善政が始まった。その善政と原地人教育は日本の敗戦まで続いた。この現実を体験していた多くの現地人指導者たちと住民は、「村山談話と謝罪」を聞き、彼の「歴史音痴」に驚かせられたそうだ。  この輝ける近代史を持つ我が日本の敗戦後は、官民一体となって「死に物狂い」で戦後復興に努め、短期間で戦前にも勝る「新日本国」を作り上げた。しかし、戦前と異なる一点は「国民意思の疎通」である。右翼的、左翼的な意見の相違は常態であるとしても、日本史上決して見られなかった日本人による「反日行動」の出現である。小筆この浅ましい行動を憂う事、大にして何とか矯正出来ないものかと日夜考え続けている。酷暑の続く日本の皆さん、新しい希望の星「安倍政権」を支えて「新日本建設」に協力して下さい、お願いします。 ご連絡は、kentokura@hotmail.com  又は、Tel/Fax: +612-9874-2778. まで、

1 件のコメント:

  1. 白人帝国による植民地支配の波に敢然と立ち向かった日本人の勇気を誇りに思います。大東亜戦争は敗戦に終わりましたが、その後の世界を俯瞰すれば戦争の目的は相当程度達せられています。日本は恥じ入る必要はなく、胸を張って誇れば良いと思います。

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