2012年6月15日金曜日

Blog-31. 隣人を哀れむ、その二。

Blog-(31) 17-6-2012. 「隣人を哀れむ」、その二。  今回は、北朝鮮について私見を述べる。  朝鮮半島は1910年、日本の統治下に入るまでは、アジアでも、一、二を争うほど貧しい国であった。李王朝にはインフラ整備など念頭に無く、どう見ても「文明の欠片」もない国であった。西欧の植民地になっていたアジアには「西洋人住民たちのため」の文化施設を作ったが、宗主国の明や清は「朝貢」さえ届けていれば、それだけで満足していた。人口も確かな統計などはなかったが、およそ750万人前後で推移していたとされている。その85%以上が、人権も自由も無い、無知文盲の奴婢、奴隷、農奴階級であった。  その朝鮮半島が近代文明の恩恵に接するのは、1894年の日清戦争で日本が勝利した結果、清国の冊封から開放されて「独立国」、大韓帝国になり、「日本の保護下」に入った以降であった。当時、すでに帝政ロシアは朝鮮半島併合を赤裸々に示し、あらゆる手段を講じて李皇帝と一族を篭絡して傘下に収めようと努めていた。皇帝一族は、清国に代わる保護国を日本以外に求めたために国内の動揺が収まらず、結果的に欧米諸国の「同意」のもとに「日韓併合」となった。それ以降は、前回の「その一」で述べたとおりである。  さて、朝鮮半島の北半分である。日清戦争以後日本は、大韓帝国との合意により、「半島近代化」に努め、併合以前から半島を網羅する「鉄道敷設」に努め、次々と幹線鉄道、支線等を敷設して、併合期間35年間余を合わせて五千キロにも及ぶ鉄道網を連結させた。その主力は、鉱物資源が豊富な北朝鮮におかれ、後に満鉄とのネットワークを完成させた。鉄道敷設と共に各地に鉱山が開発され、各種重工業と化学、紡績工場等が進出して「超近代的な工場」が次々と建設された。その象徴が日本窒素、日本製鉄や三菱製鉄の工場であり、これらの規模はすべて東洋一を誇るものであった。これに関連した通信設備が充実され、必要な電力を供給するために満州との国境を流れる鴨緑江と豆満江に水豊発電所を始め、5ヶ所に世界規模のダムと発電所を建設して、その電力は北朝鮮のみならず南朝鮮を含んだ需要を満たした。総督府は、さらに別の5ヶ所にもダムと発電所を建設中であった。重工業製品は、鉄道網と海路によって朝鮮国内のみならず満州、日本、台湾の他、世界各地へも輸出されたので、北朝鮮地区住民の給与所得が急激に伸張し、生活水準は農業を主体とする南朝鮮よりも遥かに豊かになった。各種産業で必要とされる従業員や工員育成のために、各地に工業、商業学校が設けられ、中等教育以上の技能習得に力が注がれた。  当時の朝鮮半島の「経済成長率」は、年間4%に昇り、日米の3%, 欧州の1%を凌駕するものであった。雇用人口の増加は、各家庭の生活向上に繋がり、朝鮮半島の人口は日本統治時代35年余りの間に急激に増加して、併合前の3倍半近くになっていた。小学校、中等学校への就学率は、併合以前の1%から61%にまで上昇した。医療施設の充実から、国民の衛生管理が行き届き、人口も1942年には750万人から2,553万人まで増加した。その平均寿命は、併合前の24才から45才に伸び、日本の52才に迫る勢いであった。当時の日本は、国民病とも云われた「結核」が克服出来ず、比較的短命であったが、朝鮮半島の風土が「結核菌」の繁殖に適さなかったのと、医療の充実が結核による死亡率を極端に低くしていた。  日本併合後9年目に、朝鮮人たちによる独立希求運動「3.1事件」が発生した。この事件は、たちまち半島全体におよび、総督府は「憲兵隊」を出動させて鎮圧、8千4百人余りを逮捕した。その間の死者は553人、その多くは「内ゲバ」で殺害された、との事であった。それでも、検挙者の最高刑は3年以下と比較的軽い懲役であった。以後、総督府は「軍政」から「民政」に切り替えて統治を継続した。逮捕を逃れた少数の扇動者たちは鮮満国境の山林地帯に逃れて「抗日運動」を続けた事になっているが、実際は山麓や沿海州で生活する朝鮮人や中国人部落を襲って、食料や生活物資を強奪する「山賊」に過ぎなかった。その中に「金日成」と名乗る「老齢」のリーダーがいた。彼は、結果として日本の敗戦まで生き延びたらしいが、朝鮮半島では秘密裏に「抗日英雄」として知られてた「幻の存在」であった。  1945年8月15日、日本の敗戦により、北緯38度線を境に朝鮮半島は二分され、北はソ連軍、南は米軍が占領した。北朝鮮に進駐したソ連軍は、朝鮮人中尉で「朝鮮語とロシア語」の通訳をしていた男に、伝説的な「抗日英雄、金日成」を名乗らせて、「朝鮮人民民主主義共和国」の主席に祭り上げて北朝鮮支配を試みた。この野心満々な男は、半島の「北半分」では満足せず、南北統合を夢見て、ソ連軍から大量の武器の供給を受けると共に、北鮮在住の青年たちに軍事訓練を施して「歩兵10個師団」、20万人に近い兵力を作り上げると共に、ソ連軍から供与された戦車、240輌、航空機211機さえ所有した。その上に、中国の共産党軍で「国共内戦」で実戦経験を積んでいた「朝鮮系中共軍部隊」も併せ持って南朝鮮への侵攻の機会を窺った。  南朝鮮では、日本統治時代ハワイに亡命していた李承晩が米軍の手引きで南鮮に帰還して、対抗馬となり得るライバルを次々と葬って「大韓民国、大統領」になった。野心に燃える彼も、南北統一を夢見て米国と「武器供与」の交渉を続けたが、米国は南北間の「武力抗争」が「米ソ戦争」を誘発する可能性があるために拒否した。その結果、彼は日本軍が残した戦車、航空機なしの「軽装備」で、歩兵8個師団、1万6千人を揃えたのみであった。  日本の敗戦から5年目、1950年6月25日未明、北鮮軍は38度線を超えて南下してきた。備えの薄い南鮮軍は、戦車を先頭に進撃してくる北鮮軍に対抗出来ず、たちまちの内に各所で撃破されて一週間も経たぬ内に半島南部の釜山地区まで追い詰められた。その間、逃げ惑う南鮮軍は、李承晩大統領の命令で、各地の容共的な「保導連盟員」や「労働党」関係者、約20万人を殺戮しながら撤退した。自国の軍隊が自国民を殺戮した「保導連盟事件」として記憶されているが、休戦までの民間人犠牲者は133万人に及んだとされている。北朝鮮軍も、占領した各地で「反共的朝鮮人」として250万人以上の同胞を殺害し、戦禍の犠牲者総数は三百万人を超えたと云われている。朝鮮人同士の覇権争いで「無辜の同胞」を殺戮した両軍の残忍性は、後にベトナム戦争に参加した韓国軍が、ベトコン捕虜や民間人婦女子、幼児に対して実施した大規模な暴虐と殺戮の残忍性と併せて記憶されるべきであろう。  日本にも「内戦」はあった。明治維新である、しかし、官軍も幕府軍も「民間人」には一切犠牲を強いなかった。日本史上、政権側が庶民殺害に手を下したのは、織田信長の「一向宗一揆」の信徒殺害と徳川幕府の「島原の乱」鎮圧のみで、この朝鮮戦争における「南北両軍の自国民大量殺戮」は、世界史的に見ても異常としか云えないほど凄惨なものであった。 その間、南鮮軍は売春婦を組織し「特殊慰安部隊」を編成して、夜間前線へ送り込み、南鮮軍将兵のみならず、国連軍将兵たちへも「性の奉仕」をさせていた事実も明らかにされている。現在の韓国人たちが「反日運動」の梃子にしている「従軍慰安婦」問題も、彼ら自身が保有していた「軍直轄の慰安婦部隊」が「想像の原点」になっているのかも知れない。  朝鮮戦争は国連軍の介入により、南鮮に侵攻した北鮮軍は38度線以北に追い戻された。南朝鮮の首都、ソウルを奪回した南鮮軍は、ソウル住民多数を対北協調者として処刑した。北鮮領内に押し戻された北朝鮮軍の疲労度は極限に達し、銃砲弾も食料も尽きかけており、継戦能力を失っていたためにいとも容易く、鮮満国境まで追い上げられた。その時、中共志願兵部隊、140万人が参戦して「人海戦術」を繰り返したために形勢は逆転し、国連軍は38度線近くまで押し戻された。結果として「休戦協定」が成立して戦闘は停止されて、今日に至っている。  国内は南北朝鮮を問わず、この戦乱によりすべてが破壊し尽くされ、日本が36間年近くもかけて膨大な資金を投入して、営々と築き挙げてきた資産のすべてが壊滅された。終戦当時、米軍の「戦略爆撃調査団」が計算した日本の「残置資産」総額は、南朝鮮、58億ドル、北朝鮮、116億ドル、当時の日本円換算で2兆7千億円の価値があったと推定している。因みに、日本の外務省の計算によると、現在の評価額として、北朝鮮には8兆7千8百億円、南朝鮮では4兆5千7百億円の資産があったが、そのすべてが消滅したことになる。それでも北朝鮮には、世界規模のダム、発電所等が無傷で残された。休戦後60年間、北朝鮮はこれら日本の残置資産を食い潰してきて、結果として、今日世界で最も貧困な国家に成り下がってしまった。「朝鮮人民民主主義共和国」の名称は表看板に過ぎず、実質は「金王朝独裁国家」でしかない。日本併合以前の「李王朝」時代、王族と限られた両班のみが「世を謳歌」し、その他住民は絶えず飢餓線上をさ迷っていた。現在の北鮮は、李王朝時代以下の惨状にあり、生活困窮者や餓死者のみならず、さらに悪いことには、李王朝時代には無かった「政治犯収容所」で、30万人とも40万人ともいわれる「自国民」に地獄の生活を強いていることである。金正日を継いだ生恩は、飢餓線上にある人民の生活よりも、遊園地や動物園により興味を示す人物であるらしい。北鮮は、南北間に絶えず緊張をもたらし、核兵器開発をちらつかせることで、豊かな南朝鮮や欧米諸国から「食料支援」を取り付けることしか頭に無い国家でもある。  「日韓併合」、彼ら朝鮮半島人は、そのたった35年余りの「歴史」と「成果」を直視しせず、未だに「反日」の主題に拘り続けている。この「執拗さ」と「恨の精神」に、日本人のみならず世界各国の知識人が辟易している現実を知ろうともしない。世界の動向を知らずに「自己本位」の発想しか出来ない「民族的性格」に、哀れみを感じるのみならず同情せざるを得ないのが現実である。  シドニーは「冬」、温暖な気候でも朝夕、特に「深夜」の冷え込みはきつい。こんな時の「寝酒」は、ワインやウィスキーよりも、やはり「熱燗」と云うところであろう。今夜も小筆、一杯、引っ掛けて「哀れな隣人たち」を忘れて、「甘い夢」でも期待しよう・・・。 ブログ通覧は、http://goushutaro.blogspot.com/ で、連絡は、kentokura@hotmail.com へどうぞ、日本滞在中は、090-3008-7549.今回は、今月20日から来月6日まで、

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