2014年3月31日月曜日

「自虐史観」

Blog-43, 31-3-2014 「自虐史観」の退潮  誠に喜ばしい事である。 戦後69年間、日本国民の心の中に鬱積して、国家将来に重大な悪影響を及ぼし、なおかつ青少年の「愛国心」まで蝕み続けて来た「自虐史観」に、やっと退潮の兆しが見え始め、日本人自身が「大東亜戦争」の真意に覚醒されてきた、と云うことだ。このマイナス史観への「疑問視」と安倍政権の「全うな国家観」の相乗効果により、日本の未来に「明るい兆し」が見えてきた事を心から喜んでいる。今回は、この慶事について、私見を述べたい。  そもそも「自虐史観」とは何であったのか? 国家開闢以来、二千八百年近く、誇り高く、自己規律に厳しく、そして高潔であり続けた「日本民族」には、生活は貧しくても、謙遜や謙譲、遜る、と云う思考を生活の基準として貫き、その上に形成されたのが「武士道の規範」で、上に忠節、仲間に惻隠、下に憐憫の情を保つ、と云う基本的な人生規範が置かれてきた。人々は、その生活規範に縛られた人生を送り、その規範に反する行為を「最大の恥」としてきた。しかしその反面、自らを「卑しめ」、「自虐し」、他人を「誹謗、中傷し、更に貶める」ことも「最大の恥」として、すべての日本人が、清貧を貫き、「天を崇め」、「皇室を敬い」、「誇り高く」、「親に孝」、「清く正しし」人生を送る事を最大の徳目として、歴史を受け継いできた。従って、日本人には、「自らを貶め」、他人を「いたぶる」という習慣が存在しなかった事は、歴史が証明するところである。その証拠は、奈良、平安朝時代から武家政治となり、それなりの国内戦も経験し、やがて明治維新以降、内戦が途絶えた代わりに、台湾征伐、日清、日露戦争、北進事変、シベリア出兵、大東亜戦争と続いた「対外戦争」においても、どの時代ひとつを取り上げても、従軍した将兵の軍規は厳しく守られ、占領地での略奪、暴行は厳しく戒められていた。占領地や係争地での敵兵や原住民との間での「略奪」や「係争」は皆無に等しく、その上、日本軍と現地住民との交流は、他国のいかなる戦争とも全く異なって、誠に「平和的で良心的な占領政策」が実行されてきた。その典型が、台湾であり、朝鮮半島であり、満州国の「経営」に顕著に現れていた。特に、大東亜戦争では、参戦した日本軍将兵たちの隅々までに、「アジア植民地の解放」という大義名分が徹底されていたために、将兵の戦意は高く、軍規は厳正に守られ、占領地の住民との交流も、常に大切にあつかわれていた。この日本が採用し、成功させた「占領地統治方針」は、前近代における欧米列強による「搾取的植民地経営」とは全く異なった「融和、共生、共存」を原則とした方式であった。  他方、欧米列強と云われていた「英米仏蘭西」諸国の植民地統治方式は、「武力統治」、「徹底的搾取」と「愚民政策」を基本とした、「原住民の奴隷化」を主題とした「植民地経営」であったために、一旦開始された「大東亜戦争」では、進撃してくる「日本軍」は、アジア各地で「解放軍」として歓迎された。    明治維新以降、日本の「近代化」と「対外進出」は、欧米にとって目障りな存在となった。その上、台湾、朝鮮半島と満州大陸での「民生向上を基本とした植民地経営」は、彼らがアジア、アフリカで維持し続けていた有色人種地域での「植民地経営」を根幹から脅かす存在となった。特に、「植民地獲得戦」に出遅れた米国には焦りがあった。独立後、北米大陸内の英国、フランス、スペインの植民地を武力で自国領とし、カリブ海とハワイ王朝を併合した後、フィリピンを含む中部太平洋からスペイン勢力を追い払うと、米国の目標は、フィリピンをベースにした中国と満州大陸に向けられてた。しかし、日本の台頭で「アメリカの野望」は阻止されてしまった。その「新興日本」の勃興を潰し、米国の野心を成就するためには、なんとしても「日本の力」を削が無ければならなくなった。特に第一次大戦後開かれたベルサイユ平和会議で、日本代表が提案した「人種差別廃止決議」は、米国の野心を根底から覆すものとなった。以後、第一次大戦で疲弊した欧州諸国に代わって、米国が日本と対峙する国際情勢が出現し、米国は、事毎に日本と対立する状況となった。混乱を極めていた中国大陸の存在は、米国の中国進出の絶好の機会であった。しかし、そこに立ちはだかったのが「日本」であり、その日本の「植民地経営」が大成功を収めるに至ったため、米国は、本国で「排日運動」を強化すると共に「中国支援」を開始した。日本が主導した「満州建国」には、コミンテルンと共謀して潰しに掛り、それが無理と知ると、中国大陸で始まった「日中戦争」で公然と蒋介石軍の支援を開始した。そして米国は、日本に無理難題を押し付け、貿易制限に入り、日本を追い詰めて「真珠湾攻撃」に追い込んだ。  日米開戦に伴い、南太平洋地域の戦場での対日戦の激化と共に、米英豪連合軍は、彼らは驚くべき「日本軍の戦意と勇猛さ」に直面した。所謂「死を恐れぬ」日本軍将兵との攻防戦は、西洋人の常識では到底理解できない「敢闘精神」が示された。シンガポール占領を目指した山下中将指揮の第25軍は、たった4万余名の将兵で、15万余名の「英連邦軍」を長躯々逐し、敗走させ、二ヶ月余りで三百余年守り抜かれた大英帝国、東洋の牙城シンガポールを陥落させた。米国のアジアの拠点、フィリピンも数日間の攻撃で主要都市を陥され、アジア全域の総司令官であったマッカーサーは、マニラ湾の孤島、コレヒドール要塞に逃げ込んだ。三百七十年余年、オランダに支配され続けたインドネシア全域も半年を経ずして日本軍の支配下に置かれた。この日本軍の鬼神の如き進撃にルーズベルトもチャーチルも、驚くだけでなく、まさに悪夢を見ている状況に落し入られた。  ヨーロッパ戦線でヒトラードイツとの戦闘に苦戦していた米軍は、対日戦の開始と共に、陸軍兵力を増強するために、国内で「敵性国民」として強制収容所に入れていた「日系二世」の青年たちを召集することを決定した。政府にも陸軍上層部でも、当初は「敵性米国人」である日系人の徴兵を危ぶんだが、実際に新兵訓練所での「初年兵訓練」が始まると、上層部は二世部隊の知能と錬度の高さに驚かされた。西太平洋での「対日戦」には、「同族相克」の危険性があると見られたので、二世部隊はすべて欧州戦線での「対独戦」に投入されることになった。二世部隊は、それまでに白人部隊が突破出来なったドイツ軍陣地を次々と制覇して、軍司令部を驚かせ、やがて軍司令部、秘蔵の「決戦部隊」との地位を得た。  開戦当初、優勢を誇った日本軍も、時間の経過と共に「物資の補給」が困難になり、特に太平洋地域の戦場では「消耗戦」が繰り広げられ、米軍が無尽蔵に投入してくる「物量作戦」に、時と共に疲弊圧迫されて劣勢に立たされ始めた。しかし米軍首脳部を驚かせた事は、日本軍が「決して降伏しない」のみならず、一兵たりとも自ら投降して来ないことであった。「降伏」よりも「玉砕」して果てることを選ぶ日本軍将兵の精神構造と、後に実施された「カミカゼ・アタック」は、米国に言い知れぬ戦慄を与えた。  ワシントンでは、太平洋戦線で交戦中の敵国、日本兵の勇猛さと、欧州戦線での米陸軍日系二世部隊の活躍を実見した結果 連合軍と本国政府は、日本軍の厳しい「軍規の源泉」と占領地での「宥和政策」が成功した原因を探るために、敵国日本を徹底的に「学習、分析」する、「日本全般」の研究に着手した。「戦略的調査団」を組織して、日本の都市への効果的な空爆方法の研究から、島嶼防衛に従事している日本軍守備隊の殲滅作戦のみならず、幅広く「日本文化」、「日本人の性格」の調査にまで及んだ。その中で特筆されるのが、人類学者、ルース・ベネディクト女史に委嘱して作成された調査報告書が、後に出版された「菊と刀」であった。彼女はこの著書で、日本民族の特性として「集団目標を明確に意識しなくても、この意識は個人の意思を超越する傾向が強い」ということに言及している。即ち、日本民族は、時により「群集心理」が個人的意思を超越する習性を持っていると解析し、日本兵の勇猛果敢な性格は、彼らの学習成果ではなく、「歴史が培った民族的な特質」から醸し出されていると判断した。この分析を元に、太平洋諸島での対日戦闘の「軍略」が練られた。それは、極力「地上戦闘」を避けて、進撃要路の重要点のみを「空爆又は艦砲攻撃」をもって潰し、側防的な敵陣は、飛び越して進撃する、と云う「蛙飛び作戦」と、日本国民全般の「戦意亡失」を目論んだ「非武装都市」への絨毯爆撃が確立された。併せて、戦勝後の日本での「占領政策」が策定されれ、そのひとつが、日本人の「民族的な誇り」を徹底的に破壊させるための「自虐史観」の扶植と、「日本人が共有する道徳観」を分断させるために、日本軍が占領地で実施したとする数々の「残虐行為」の「虚偽報道」を実施し、併せて日本人左翼勢力を支持して「反右翼的活動」を支援することであった。その裏には、米軍が実施した「非戦闘員居住都市」への無差別爆撃と広島、長崎へ投下した二発の「原爆投下」による非戦闘員への大量殺戮行為を糊塗する目的があった。  日本の軍国主義を徹底的に矯正し、解放されたアジア人に反日感情を吹き込み、日本軍の残虐性を周知徹底させるために、占領地各地で「戦争犯罪人」の裁判を公開した。所謂「極東軍事裁判」である。裁判は、連合国から選ばれた、裁判官、検事、弁護団、によって構成され、「適用された法律」のすべてが、法曹界では「変則禁止」とされている「事後法の適用」であった。戦争責任を追及する「A級裁判」、ジュネーブ軍事法規違反を裁く「B級裁判」、日本軍将兵による民間人への犯罪を裁く「C級裁判」とあり、すべて連合国検事団によって召喚された「証人たち」の証言と証拠によって審判が進行された結果、多くの日本軍将兵が裁かれ、5.600余名の有罪判決と一千余名の刑死者を出した。日本は戦に破れた、しかしアジアのすべての植民地は解放され、やがてその波はアフリカにも及んだ。  マッカーサーが退任後、本国議会での公聴会での発言を記したい。「過去、日本は自衛のために米国と戦い、敗戦を迎えた結果、左翼系米人の策略で憲法九条を受け入れ、自国さえ自ら守れない国家にされた。私は、極東裁判とその結果である日本の「自虐史観」は、日本が受けるものではなく、我々米国自身が学ぶべきものである、と確信している・・・」と言及した。  今週末から2週間訪日、13日の日曜日、カウラ市長以下幹部と横浜保土ヶ谷にある「英連邦戦没者墓地」に墓参すると共に、カウラの日本人墓地での「70周年記念、慰霊祭」の広報活動にあたる。日本人有志の協力で建設途上にある「カウラの桜並木道」、市長以下に本物の「日本の桜」を鑑賞してほしいと願っている。連絡は、090-3008-7549.まで、シドニー在、戸倉勝禮

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