2014年6月26日木曜日
隣国の憂鬱、
Blog-44.
25-6-2014.
「鬱陶しい隣国」
最近、年齢のせいか中韓の雑音が「耳に残って」,穏やかで無い日々が続いている。その中でも、特に気になっている事が幾つかあるが、一番気になっているのが韓国政府が発表した在日韓国籍、青年男女の「徴兵制度」の実施決定である。要するに、韓国々籍を持っている「在日青年男女」は、母国、韓国に戻り「2年間前後」の兵役に就くかねばならない、という新しい法律が制定されたのである。この制度は、旧日本帝国陸海軍」でも採用されていた、外国在住の日本国籍の青年男子に対する「兵役義務」であったから、格別問題はないのだが、小筆が「心配している」のは、昨年11月の統計で、南北両系統の朝鮮人在日人口の総計が、54万5401名、それとは別に、同両国からの帰化人が、29万6千人余り、合計84万2千人以上の朝鮮民族が、すでに日本に住んでおり、少なからぬ彼らが、芸能界、マスコミ、暴力団や自称右翼団体を構成して、表と闇の世界を牛耳っている現状である。兵役年齢は、18才から37才の青年男女に適用されるので、この範囲に属する韓国人々口は約20万人、その連中が「本国」へ戻って、2年余りの「戦闘訓練」と「思想教育」を受け、あらゆる「武器」の取り扱いに習熟し、さらに反日思想にも「磨きを掛けた」後、「日本」へ戻って来るのである。それでなくても「在日」には、「反日感情」をもった人間が多いのに、本国に戻り、2年余にわたり、徹底した「反日教育」と「軍事訓練」を受けたて戻ってきたら、どういう事になるか? 想像しただけでも「身の毛がよだつ」のは、小筆だけではあるまい。それでなくても「在日の犯罪指数」は高く、刑務所人口も在日系が、日本人のみならず、他国籍人口をも圧倒している現実を考えた時、20万人にも及ぶ「反日勢力」、それも2年余にもわたり軍事訓練を受けた「反日韓国人青年男女」が、日本国内に常時居住することになる・・・、という状況を考えると、この徴兵制度が韓国の「国内問題」ではなくて、実は「日本の安全」を脅かす重大な治安問題である事がわかる。
日本の自衛隊総数は22万8千人余り、予備自衛官47900人余り、全国の警察官28万2千人弱を加えても55万8千人に満たない。それも全員が、対外防備と国内警備のために、日本全国に散開しているのが現状である。都市部に集中している在日が、「反日テロ」を起こした場合、当然、日本人住民を盾にして応戦するはずであるから、いくら自衛隊が優秀で、警察組織が充実していても、80万余りの朝鮮系在日とそれに同調する可能性がある百万人に近い中国系住民の警備と鎮圧に全力を集中させることは難しいと思われる。
そのテロに、朝鮮系、韓国系「帰化人政治家たち」と「自治体基本条例」で参政権を得た半島系住民が地方自治体の議会を支配したら、我々の「祖国日本」は、彼らの「支配下に置かれる」可能性が十分にある。終戦直後の混乱時に[朝鮮占領軍」と自称して、連合軍が武装解除した帝国陸海軍の武器を奪い、同じく武装解除されていた警察官と警察署や軍需物資集積所を襲ったのみならず、民間人をも襲い、暴虐、陵辱の限りを尽くした歴史的事実と、平成21年9月から3年3ヶ月近く続いた「帰化人政党、民主党内閣」の下で、日本の国情を無視した滅茶苦茶な政治をしたことを忘れてはならない。終戦当時は、連合軍が「進駐軍」として日本の「治安維持」に当たっていたが、その管理下での彼らの暴虐であったから、ある程度は抑制が効いて、それ以上の事件には発展しなかったが、その折に彼らに対抗出来た「日本人」は、外道と呼ばれた「任侠団体」、即ち「やくざ」たちだけであった。それでも、焼け野原になった主要駅前広場は、すべて彼ら朝鮮人と一部華僑系暴力団の支配下に置かれた「闇市」で不法占拠され、そこの日本人地主たちは、暴力で追い払われ結果、自分たちの「土地」まで強奪された。世間が落ち着き、闇市が消えた跡地は、大部分が「在日系」が経営するパチンコ屋になって今日に至っている。
終戦後、朝鮮半島は「38度線」を境に南北朝鮮に二分され、ソ連軍支配下の「北朝鮮政府」と、米軍配下の「南朝鮮政府」が成立した。北の金日成政府は、早々に「南侵攻」を計画し、ソ連軍の支援を受けて「軍備」を整えたが、南の大統領になった李承晩は、米国政府の信用が得られず、「軍備強化」の支援が受けられなかった。しかし、南北対立は日毎に激しくなり、一触即発の状況が生まれたために、李承晩は南鮮国内の「容共分子」と目された元労働党々員で構成された「保導連盟」所属員男女約20万人を狩り集めて、裁判もなしに次々と処刑した。
そして1950年6月、北朝鮮軍がソ連軍から補給された戦車部隊を先頭に越境南下して「朝鮮戦争」が開始されると、軍備が充実していなかった「南鮮軍」は、たちどころに撃破され、首府であったソウルを落されて、半島南端の港町「釜山」に追い詰められた。その間国連では、米国の主導で安全保障理事会が開催され、常任理事国の一員「ソ連」の欠席により、国連軍による「南鮮支援」が決議されて、その総司令官に東京に滞在していたマッカーサー元帥が任命された。彼は、着任と同時に北鮮軍への反撃を開始、旧日本軍参謀部が作成していた「仁川逆上陸作戦」を採用して、北朝鮮軍への逆襲に成功した。国連軍が、北鮮軍を中朝国境である鴨緑江まで追い詰めた時、毛沢東が「北朝鮮支援」を決め、人民義勇軍30万余りを参戦させたために戦勢は逆転して、国連軍は38度線まで押し戻された後に「休戦交渉」に入った。
その間、南鮮人一般市民の犠牲者は40万人以上、将兵は66万人と云われているが、正確な数字は未だに不明である。北朝鮮側の犠牲者数は、未発表であるために一切不明であるが、戦闘規模から推定して、南側と「同等乃至それ以上」であったと推測されている。それ以外にも、南北両地域で南軍兵士による「通匪容疑」、北鮮軍による「反共容疑」で、部落単位、郡単位の殺戮が繰り返され、棲ましいばかりの同胞相殺するジェノサイドが展開された。
昭和19年、朝鮮総督府の「鮮人統計数」が2512万人であったから、恐らく「朝鮮戦争の犠牲者」は、南北合わせて250万から300万人以上、朝鮮半島人口の15%以上であったと想像される。その人口被害よりも、日本政府が日清戦争以後、三年余りの朝鮮半島「統監時代」と、その後36年近くの「日韓併合時代」につぎ込んだ膨大なインフラ投資と国家経営上の知的財産のすべてが消失乃至は破壊されたことであった。その結果もあって、金日成は、不足した「労働力補充」のために、在日朝鮮人の「本国帰還事業」を興し、朝鮮人の妻となっていた7千人余りの日本人妻を含む9万4千人余りを、「地上の楽園へ」との甘言に乗せて北鮮に帰国させた。
この間、半島南部の済州島では李承晩政権に反対し、南北統一選挙実施を要求する島民たちが反政府暴動を起こしたために、韓国政府は、軍警のみならず暴力団まで動員して鎮圧にあたった。中には、日本へ密航して生きながらえた島民たちも多数いたが、28万人余りいた島民が9年後には3万人に減るまで殺戮が繰り返された。因みにこの時期、済州島を逃れて「日本へ密航」して来た島民たちが、後に「旧日本政府に強制連行」されて来日した労務者であると偽り、各種の政府補償を要求し続けている「在日グループ」である。
明治維新以降、近代国家を形成した「大日本帝国」は、日清戦争により「朝鮮半島と台湾」を清国の属領から開放して、日本政府の保護下に置くと共に、満州大陸も独立させて植民地的行政地域に加えた。朝鮮半島では、「韓国統監」時代を経て、「日韓併合」時代、約40年間を通じて「準国家的位置」を与え、その間、朝鮮人の80%以上を占めていた奴隷身分の「白丁」と「農奴」を解放し、義務教育制度を確立することで、朝鮮人全般の「知的能力」を向上させることに努めた。しかし国民の3%以下しか居なかった王族とそれを取り巻く両班(貴族)たちの反発と、清国が駄目なら「ロシアに頼る」という「事大主義」により、新興日本帝国は、世界一と云われた陸軍国「ロシア帝国」との戦争に入り勝利を得て、朝鮮半島の安全を確保した。以後、第一次世界大戦後のベルサイユ平和会議にも、李王朝廷は密使を送り「大韓民国」の独立認可を認めるよう請願しようとしたが、連合国に相手にされず、この請願は失敗した。このような「反日姿勢」は、その後も李王朝周辺では継続したが、朝鮮半島全域では日韓併合により、日本政府の総合投資が始まり、朝鮮半島の近代化は急速に進展した。国内の法整備、交通機関、港湾施設のみならず、学校建設、口語でしか無かった朝鮮語を15世紀に作られた「ハングル文字」を普及させて、無学であった底辺庶民の読解力を高め、教育の普及に努め、国民の健康管理の普及により「平均寿命」と「体位向上」が図られた結果、外面的には一応「文明国家」の一員と呼ばれるようにはなれたが、しかし、40年弱の「日本統治」の成果も、誠に残念ながら、朝鮮半島人の「嗜虐性」、「虚言癖」、「忘恩気質」「誇大妄想性」までを改善するには、余りにも「短過ぎた年月」であったと云えそうである。
朝鮮民族の「嗜虐性」と「残忍性」に関しては、今日の在日犯罪の特異性を見るまでも無く、遠くは「蒙古襲来」時、蒙古兵の先兵となって対馬に押し寄せてきた「高句麗兵」が行った島民に対する「残虐非道」の殺戮、日本の敗戦直後、朝鮮居住の日本人婦女子への陵辱、朝鮮戦争時、彼らが同胞に加えた暴虐や虐殺、ベトナム戦争当時、無抵抗のベトナム婦女子、子供に対する想像を絶する殺戮や陵辱を思い起こすだけでも「おぞましい」ことであるが、もし日本国内で、「本国で軍事訓練を受けた在日青年たち」が武装蜂起して、「国内テロ」を起こした場合の悲惨さは想像するに難くない。
これらの「想定」から日本を防御し、二千八百年に近い皇統を守り、皇室の尊厳を維持するためにも、日本政府は何らかの対抗処置を採る必要がある。例えば、外交問題として、韓国政府に「在日徴兵制度」の廃止を求める、とか、徴兵期間終了後の「再入国拒否」とか、再入国に際し「誓約条項」を設ける等々を実施するのに併せて、日本も「徴兵制度」か「民兵制度」を導入して、万一の場合の「対抗組織」を構築して「国内治安」と「民衆保全」を確かにする計画を作成し、実施せざるを得ないと思っている。老齢化が進んでいる日本国内の「労働力」を確保するために、政府は「技術労務者20万人の受け入れ」を計画しているらしいが、この「亡国政策」の中止もさることながら、韓国の「在日徴兵制度」は、もっと緊急度の高い問題であると思っているから、早急に対策を講じる必要がある。
小筆の安倍政権への期待は大きい。この機会を逃したら「日本再生実施」は、二度と巡ってこないのでは無いか、とさえ危ぶんでいるほど「大いなる期待」を寄せている。その期待が、韓国政府の「在日韓国人の徴兵問題」で消滅しないように、「神頼み」ならぬ「安倍頼み」の日々を過ごしている。また月末から二週間の訪日である。その間、日本に在って、この課題実施の方法を改めて考えたいと思っている。日本では、「夏の冷酒と刺身」が待っているようだ!!
この間の連絡は、kentokura@hotmail.com 又は、090-3008-7549. 豪州太郎まで、
2014年3月31日月曜日
「自虐史観」
Blog-43,
31-3-2014
「自虐史観」の退潮
誠に喜ばしい事である。 戦後69年間、日本国民の心の中に鬱積して、国家将来に重大な悪影響を及ぼし、なおかつ青少年の「愛国心」まで蝕み続けて来た「自虐史観」に、やっと退潮の兆しが見え始め、日本人自身が「大東亜戦争」の真意に覚醒されてきた、と云うことだ。このマイナス史観への「疑問視」と安倍政権の「全うな国家観」の相乗効果により、日本の未来に「明るい兆し」が見えてきた事を心から喜んでいる。今回は、この慶事について、私見を述べたい。
そもそも「自虐史観」とは何であったのか? 国家開闢以来、二千八百年近く、誇り高く、自己規律に厳しく、そして高潔であり続けた「日本民族」には、生活は貧しくても、謙遜や謙譲、遜る、と云う思考を生活の基準として貫き、その上に形成されたのが「武士道の規範」で、上に忠節、仲間に惻隠、下に憐憫の情を保つ、と云う基本的な人生規範が置かれてきた。人々は、その生活規範に縛られた人生を送り、その規範に反する行為を「最大の恥」としてきた。しかしその反面、自らを「卑しめ」、「自虐し」、他人を「誹謗、中傷し、更に貶める」ことも「最大の恥」として、すべての日本人が、清貧を貫き、「天を崇め」、「皇室を敬い」、「誇り高く」、「親に孝」、「清く正しし」人生を送る事を最大の徳目として、歴史を受け継いできた。従って、日本人には、「自らを貶め」、他人を「いたぶる」という習慣が存在しなかった事は、歴史が証明するところである。その証拠は、奈良、平安朝時代から武家政治となり、それなりの国内戦も経験し、やがて明治維新以降、内戦が途絶えた代わりに、台湾征伐、日清、日露戦争、北進事変、シベリア出兵、大東亜戦争と続いた「対外戦争」においても、どの時代ひとつを取り上げても、従軍した将兵の軍規は厳しく守られ、占領地での略奪、暴行は厳しく戒められていた。占領地や係争地での敵兵や原住民との間での「略奪」や「係争」は皆無に等しく、その上、日本軍と現地住民との交流は、他国のいかなる戦争とも全く異なって、誠に「平和的で良心的な占領政策」が実行されてきた。その典型が、台湾であり、朝鮮半島であり、満州国の「経営」に顕著に現れていた。特に、大東亜戦争では、参戦した日本軍将兵たちの隅々までに、「アジア植民地の解放」という大義名分が徹底されていたために、将兵の戦意は高く、軍規は厳正に守られ、占領地の住民との交流も、常に大切にあつかわれていた。この日本が採用し、成功させた「占領地統治方針」は、前近代における欧米列強による「搾取的植民地経営」とは全く異なった「融和、共生、共存」を原則とした方式であった。
他方、欧米列強と云われていた「英米仏蘭西」諸国の植民地統治方式は、「武力統治」、「徹底的搾取」と「愚民政策」を基本とした、「原住民の奴隷化」を主題とした「植民地経営」であったために、一旦開始された「大東亜戦争」では、進撃してくる「日本軍」は、アジア各地で「解放軍」として歓迎された。
明治維新以降、日本の「近代化」と「対外進出」は、欧米にとって目障りな存在となった。その上、台湾、朝鮮半島と満州大陸での「民生向上を基本とした植民地経営」は、彼らがアジア、アフリカで維持し続けていた有色人種地域での「植民地経営」を根幹から脅かす存在となった。特に、「植民地獲得戦」に出遅れた米国には焦りがあった。独立後、北米大陸内の英国、フランス、スペインの植民地を武力で自国領とし、カリブ海とハワイ王朝を併合した後、フィリピンを含む中部太平洋からスペイン勢力を追い払うと、米国の目標は、フィリピンをベースにした中国と満州大陸に向けられてた。しかし、日本の台頭で「アメリカの野望」は阻止されてしまった。その「新興日本」の勃興を潰し、米国の野心を成就するためには、なんとしても「日本の力」を削が無ければならなくなった。特に第一次大戦後開かれたベルサイユ平和会議で、日本代表が提案した「人種差別廃止決議」は、米国の野心を根底から覆すものとなった。以後、第一次大戦で疲弊した欧州諸国に代わって、米国が日本と対峙する国際情勢が出現し、米国は、事毎に日本と対立する状況となった。混乱を極めていた中国大陸の存在は、米国の中国進出の絶好の機会であった。しかし、そこに立ちはだかったのが「日本」であり、その日本の「植民地経営」が大成功を収めるに至ったため、米国は、本国で「排日運動」を強化すると共に「中国支援」を開始した。日本が主導した「満州建国」には、コミンテルンと共謀して潰しに掛り、それが無理と知ると、中国大陸で始まった「日中戦争」で公然と蒋介石軍の支援を開始した。そして米国は、日本に無理難題を押し付け、貿易制限に入り、日本を追い詰めて「真珠湾攻撃」に追い込んだ。
日米開戦に伴い、南太平洋地域の戦場での対日戦の激化と共に、米英豪連合軍は、彼らは驚くべき「日本軍の戦意と勇猛さ」に直面した。所謂「死を恐れぬ」日本軍将兵との攻防戦は、西洋人の常識では到底理解できない「敢闘精神」が示された。シンガポール占領を目指した山下中将指揮の第25軍は、たった4万余名の将兵で、15万余名の「英連邦軍」を長躯々逐し、敗走させ、二ヶ月余りで三百余年守り抜かれた大英帝国、東洋の牙城シンガポールを陥落させた。米国のアジアの拠点、フィリピンも数日間の攻撃で主要都市を陥され、アジア全域の総司令官であったマッカーサーは、マニラ湾の孤島、コレヒドール要塞に逃げ込んだ。三百七十年余年、オランダに支配され続けたインドネシア全域も半年を経ずして日本軍の支配下に置かれた。この日本軍の鬼神の如き進撃にルーズベルトもチャーチルも、驚くだけでなく、まさに悪夢を見ている状況に落し入られた。
ヨーロッパ戦線でヒトラードイツとの戦闘に苦戦していた米軍は、対日戦の開始と共に、陸軍兵力を増強するために、国内で「敵性国民」として強制収容所に入れていた「日系二世」の青年たちを召集することを決定した。政府にも陸軍上層部でも、当初は「敵性米国人」である日系人の徴兵を危ぶんだが、実際に新兵訓練所での「初年兵訓練」が始まると、上層部は二世部隊の知能と錬度の高さに驚かされた。西太平洋での「対日戦」には、「同族相克」の危険性があると見られたので、二世部隊はすべて欧州戦線での「対独戦」に投入されることになった。二世部隊は、それまでに白人部隊が突破出来なったドイツ軍陣地を次々と制覇して、軍司令部を驚かせ、やがて軍司令部、秘蔵の「決戦部隊」との地位を得た。
開戦当初、優勢を誇った日本軍も、時間の経過と共に「物資の補給」が困難になり、特に太平洋地域の戦場では「消耗戦」が繰り広げられ、米軍が無尽蔵に投入してくる「物量作戦」に、時と共に疲弊圧迫されて劣勢に立たされ始めた。しかし米軍首脳部を驚かせた事は、日本軍が「決して降伏しない」のみならず、一兵たりとも自ら投降して来ないことであった。「降伏」よりも「玉砕」して果てることを選ぶ日本軍将兵の精神構造と、後に実施された「カミカゼ・アタック」は、米国に言い知れぬ戦慄を与えた。
ワシントンでは、太平洋戦線で交戦中の敵国、日本兵の勇猛さと、欧州戦線での米陸軍日系二世部隊の活躍を実見した結果 連合軍と本国政府は、日本軍の厳しい「軍規の源泉」と占領地での「宥和政策」が成功した原因を探るために、敵国日本を徹底的に「学習、分析」する、「日本全般」の研究に着手した。「戦略的調査団」を組織して、日本の都市への効果的な空爆方法の研究から、島嶼防衛に従事している日本軍守備隊の殲滅作戦のみならず、幅広く「日本文化」、「日本人の性格」の調査にまで及んだ。その中で特筆されるのが、人類学者、ルース・ベネディクト女史に委嘱して作成された調査報告書が、後に出版された「菊と刀」であった。彼女はこの著書で、日本民族の特性として「集団目標を明確に意識しなくても、この意識は個人の意思を超越する傾向が強い」ということに言及している。即ち、日本民族は、時により「群集心理」が個人的意思を超越する習性を持っていると解析し、日本兵の勇猛果敢な性格は、彼らの学習成果ではなく、「歴史が培った民族的な特質」から醸し出されていると判断した。この分析を元に、太平洋諸島での対日戦闘の「軍略」が練られた。それは、極力「地上戦闘」を避けて、進撃要路の重要点のみを「空爆又は艦砲攻撃」をもって潰し、側防的な敵陣は、飛び越して進撃する、と云う「蛙飛び作戦」と、日本国民全般の「戦意亡失」を目論んだ「非武装都市」への絨毯爆撃が確立された。併せて、戦勝後の日本での「占領政策」が策定されれ、そのひとつが、日本人の「民族的な誇り」を徹底的に破壊させるための「自虐史観」の扶植と、「日本人が共有する道徳観」を分断させるために、日本軍が占領地で実施したとする数々の「残虐行為」の「虚偽報道」を実施し、併せて日本人左翼勢力を支持して「反右翼的活動」を支援することであった。その裏には、米軍が実施した「非戦闘員居住都市」への無差別爆撃と広島、長崎へ投下した二発の「原爆投下」による非戦闘員への大量殺戮行為を糊塗する目的があった。
日本の軍国主義を徹底的に矯正し、解放されたアジア人に反日感情を吹き込み、日本軍の残虐性を周知徹底させるために、占領地各地で「戦争犯罪人」の裁判を公開した。所謂「極東軍事裁判」である。裁判は、連合国から選ばれた、裁判官、検事、弁護団、によって構成され、「適用された法律」のすべてが、法曹界では「変則禁止」とされている「事後法の適用」であった。戦争責任を追及する「A級裁判」、ジュネーブ軍事法規違反を裁く「B級裁判」、日本軍将兵による民間人への犯罪を裁く「C級裁判」とあり、すべて連合国検事団によって召喚された「証人たち」の証言と証拠によって審判が進行された結果、多くの日本軍将兵が裁かれ、5.600余名の有罪判決と一千余名の刑死者を出した。日本は戦に破れた、しかしアジアのすべての植民地は解放され、やがてその波はアフリカにも及んだ。
マッカーサーが退任後、本国議会での公聴会での発言を記したい。「過去、日本は自衛のために米国と戦い、敗戦を迎えた結果、左翼系米人の策略で憲法九条を受け入れ、自国さえ自ら守れない国家にされた。私は、極東裁判とその結果である日本の「自虐史観」は、日本が受けるものではなく、我々米国自身が学ぶべきものである、と確信している・・・」と言及した。
今週末から2週間訪日、13日の日曜日、カウラ市長以下幹部と横浜保土ヶ谷にある「英連邦戦没者墓地」に墓参すると共に、カウラの日本人墓地での「70周年記念、慰霊祭」の広報活動にあたる。日本人有志の協力で建設途上にある「カウラの桜並木道」、市長以下に本物の「日本の桜」を鑑賞してほしいと願っている。連絡は、090-3008-7549.まで、シドニー在、戸倉勝禮
2014年1月12日日曜日
Blog-42. 「都知事選について」
Blog-42,
6-1-2014.
都知事選挙に思う、
猪瀬知事の辞任に伴う知事選挙が、今月23日に告示され、来月9日に「投開票」が決定され
た。今回の都知事選挙は、従来の知事選挙とは「全く異なった意味」を持つ、もっとも重要な選挙であると思っている。理由は、現在日本が置かれている国際環境と地殻変動の可能性が、深く関係しているからである。その第一の理由は、中国と韓国の執拗なまでの「反日攻勢」と、崩壊寸前の北朝鮮事情であり、第二が何時発生しても可笑しくない「南海トラフ直下型巨大地震」突発の可能性である。
この状況下で、どちらのひとつが発生しても、「肝心要」は、時の為政者の「指導力と決断力」が大いに関係してくる。日本は、神戸淡路地震の時の村山総理の拙速始動による六千余の人命の損失と、福島原発事故当時の管直人の「無能な采配」により、未だに膨大な損害を受け続けている。日本国民は、この「愚」を決して繰り返してはならない。私は安部総理の治世能力と指導力を大いに買っているし、彼の「決断力」に加えての「外交手腕」も高く評価しているので、是非、総理の信じる「新しい日本体制」の早期実現に向けて尽力願いたいと願っているから、敢えてこのブログを上梓した。
戦後69年間、日本の政治家は、日本本来の政治姿勢を忘れた「亡国政治」に漬かり続け、甘んじてきたと見ている。亡国とは、日本の「国体の無視」、「国益を忘れた外交」、「学校教育の軽視」、「近隣諸国への諂い」、最悪の姿勢が「国家に生命を捧げた忠臣たちを無視」、すなわち、「靖国参拝」を怠ってきた事実であった。
戦後作り上げられた、この日本の政治姿勢が、中韓北露の、特に「特亜三ヶ国」の日本への侮りを増長し、現下の「修復し難い」関係を形成してしまった。すなわち「日本には何を言っても、何をしても良い・・・」という侮りである。竹島不法占拠、日本人拉致、尖閣諸島、東シナ海の海底ガス田、借金の踏み倒し、ロシアの北方四島不法占拠、等々を羅列するだけで「憤怒」がこみ上げてくるばかりの「侮りを受け続けている」のが、戦後69年間の日本の実態であった。
その混乱した「日本の政治」を正すべく「再登場」したのが「安部晋三」、「安倍内閣」であった。たった一年余りの期間とは云え、戦後日本の「悪の淀み」をすべて打ち払うべく、最大の努力をしてくれている。「正論が言える宰相」こそ真の政治家であり、一国を統率し、導くリーダーである。戦後99代の総理大臣の中でも「際立った実行力」を見せてくれている姿は頼もしいかぎりである。小筆は、安倍晋三は、戦後精神的に混乱し続けてきた日本を、間違いなく「再生」し、正しい「新生日本」を実現してくれる宰相であると確信している。
その、安倍内閣にとって、今回の都知事選は、総理総裁を「首都東京」から支える重大な責務を持つ選挙であり、決して「石原都政以前」の状態に逆戻りさせてはならない「重要な選挙」であると位置づけている。軍事政権化した中国政府の現状、崩壊寸前の南北朝鮮政府の状況を考えてみれば、その対応が十分に発揮出来る都知事は、当然軍隊(自衛隊)を有効に指揮監督出来る能力が、強く求められる。「平民である」都知事にも、当然要求されるこの事態対応に直面して、軍事面の指揮のみならず、「何時発生しても不思議では無い」と、現在予測される直下型大震災への対応にも、「軍司令官」を経験されている「田母神俊雄閣下」の立候補は、天恵である、とさえ思って感謝している。
想い起こせば終戦直後、中国人、朝鮮人、あるいは、一部の不良台湾人たちが、日本の「司法の混乱」に乗じて「何をしたか」、若者の世代では想像も出来ない「悪辣な事件」と無法限りない「不正行為」と数限りない「暴虐事件」を引き起こした過去がある。現在、在日している彼らが、次に来る日本の混乱時に、これらの無法を再現しないという保障は無い。それは、在日朝鮮系の「犯罪発生率」から推測しても、当然起こりうる事態である。その時には、当然、自衛隊と警察が「司法出動」して、治安の維持に当たることになるが、現下の法律では、自衛隊の出動には、総理と都道府県の「長」の要請と許諾が必要である。その時、自衛隊出身の田母神都知事がいれば、総理大臣との「直接会話」で、「最善の処理方法」を考え、実行してくれる事が可能である。しかし、他の候補者の誰一人として、田母神候補以上の「能力と経験」を積んでいる「立候補者」はいない。ましてや「在日韓国、朝鮮系人たち」に好意的な人物などは、前民主党政権時の例を見るまでも無く、「真っ平ごめん」である。従って、田母神閣下以外、どの誰が「都知事職」に就いても、これらの緊急事態には、間違いなく「対応を誤る」可能性があると確信している。
予測される「国難」に際し、国政担当の安倍総理を、東京都を率い、全国都道府県を取りまとめて、内閣総理大臣を支援する体制確立をすべき「田母神都知事」の存在こそ、近未来に「発生可能」な人災と天災に対応すべき「国家体制作り」の基本であると信じている。
終戦後日本人の変節は、連合軍、特にマッカーサー司令部が実施した「公職追放令」が、戦後の「自虐思想」の扶植に効果を及ぼしている。「公職追放」とは、戦時中「日本の軍国主義」に協力的であった、と連合軍司令部が判定した、各界の重鎮、約5千5百人余りを「すべての職場」から追放した事件である。この現実を見た日本人が、「アジアの植民地、すべての解放」を目指した「大東亜戦争」が、実は「侵略戦争であった」との「連合軍側の意思」が刷り込まれ、以後日本社会に、徐々に「自虐思想」が浸透してきた直接の原因ととなった。戦時中拘禁されていた、左翼、共産党員たちは、マッカーサーの指令で釈放された。解放後、彼らは「日本の共産化」を目指して暴れまわった結果が目に余ったために、「レッド・パージ」(左翼に対する公職追放)が実施されて、国内は沈静化したが、彼らはしたたかで、穏健で受けの良い「社会党」に衣替えをして、日本国内の「左翼化」を続けて今日に至っている。
占領軍の命令が「絶対」であった終戦直後の日本は、それでなくとも生活が困窮している時に、「職」を奪われ、「食」の道を断れた経験は、日本人の「心を」」根底から変えてしまい、大東亜戦争は「平和に対する犯罪」であった、とする連合軍が強制した「自虐的史観」を、日本人に恐怖とともに刷り込むことに成功した。以後、共産党、社会党、その他の「左翼かぶれ」たちのプロパガンダが、国内を席巻し、教育界にまで忍び込んだ「日教組」によって幼少の児童たちにまでも「自虐思想」、すなわち「光輝ある日本の伝統と公徳心」が「悪である」という刷り込みが始まり、社会全体を支配して今日に至っている。
その「悪習に染まり」、「国家目標まで亡失した」戦後日本を、「再建、再起」しょうと決意をしたのが、他ならぬ安倍晋三率いる「現安倍内閣」であり、彼の「靖国参拝」が、国民支持率91%を超えた事で、国民全般が「待ち望んでいた政権」が発足した事を証明した。その高支持率を保ち、尚一層の「安倍支持」を昇華させるためには、「政府のお膝元」である「東京都の協力」が絶対不可欠である。それを支援すべく都知事選に立候補したのが、田母神俊雄閣下である。
誠に残念なことであるが、現在の自民党には、「旧世代の悪弊に染まった古参党員」が多数逼塞している。彼らの本質は、「自虐、諂い、金権、妬み、その上に権力志向、等々」旧弊のすべてを併せ持っ古参党員である。安倍自民にも、旧自民時代の「自虐党員、諂い党員、金権党員、等々」の旧悪のすべてを併せ持っている者が多数現在しているが、彼らは日本の「国益」には一切無関心で、自己利益の追求のみが目的で「政治家」を続けている。現に、一部自民党員には、枡添候補を推薦する動きもある。しかし、日本の近未来と将来を考えると、この候補者では、予想される「緊急事態」には対応出来ないのみならず、逆に「ドサクサ」にまぎれて、前民主党政権のように、「更なる政治的特権」を彼ら「特亜」に与える可能性さえある。もし田母神閣下以外の候補者が当選した場合、国民の91%以上が「熱望」している「安倍内閣」による「国家改造」の目標達成への道程が破壊されかねない。小筆は、是非とも「田母神都政」を実現させて安倍内閣を支えさせ、田母神都政の協力によって、「戦後レジーム」からの脱却を図ると共に、憲法改正を実現させて「日本の国体を守る」ためにも、総理と都知事お二人の協力によって、「日本再建」を果たして戴きたいと切に願っている。小筆の長年の夢が実現するか、しないのか、それが分かるのが、二月九日、我が人生、75年と二日目の「出来事」になる。その日が、吉と出るか凶と出るか、選挙権の無い自分には「何事も出来ないが」、FBF仲間の皆さんとBlog同志の皆様のお力とご協力に頼るのみである。皆さん、「日本の将来」と「日本の未来を背負って立つ子供たち」のためにも、今回の都知事選挙を真剣にお考え戴き、是非、田母神俊雄候補者に「ご一票」を投じて戴けますように心からお願い申し上げます。シドニー在、戸倉勝禮。
2013年12月31日火曜日
リベレーター、植民地の解放者、
Blog-41
31-12-2013.
「リベレーター」(被圧迫民族の解放者)
過日、南アのネルソン・マンデラ元大統領が亡くなられた。彼は学生時代に、悪評高かった人種差別法「アパルトヘイト」に抗議して、国家反逆罪で終身刑を宣告され、毎日「石割り」の重労働を科せられ、「27年間」もの獄中生活を強いられた。後に、国際社会からの抗議が強まり、釈放されて大統領になった人物である。その後も「穏健派のアフリカ人」として、全アフリカの民族間の融和と和解を訴え続け、「ノーベル平和賞」を授与された偉人であった。彼が残した言葉の中で、印象的だったのは、「なぜ、日本人はアフリカを開放してくれなかったのか・・・」と云う言葉であった。
ご存知のように15世紀、白人国による「大航海時代」が始まり、地球上のすべての有色人種の土地が「白人国の植民地」となり、想像を絶した奴隷的な植民地統治下に置かれた。それ以後、20世紀の半ばまで、宗主国に搾取され続けたが、アフリカなどでは、住民たちが拉致されて、南北アメリカ大陸に「奴隷」として売られた経験を持つ。
その中で、辛うじて独立を保ち得た「有色人種国」は、日本の他は、支那と属国であった朝鮮半島、タイ国だけであった。 すなわち、アフリカ、南米、中近東、インド亜大陸、東南アジアのすべての「有色人種諸国」が「西欧列強」の植民地にされ、3百余年に近い年月を辛苦呻吟状態に置かれ続けた。日本も危なかった、信長の時代に、フランシスコ・ザビエルが来日して、その可能性を探ったが、当時の日本は、欧州の白人諸国よりも、より高い文武両道の「先進文明」を持っており、内政も武士階級によってしっかりと確立されていたために、彼らも手が出せなかった。
しかし19世紀中期に入ると、西欧の食指は、まず独立国であった「清国」、支那大陸に及び、英国が仕掛けた「アヘン戦争」を契機に、清国への侵略が始まった。当時、すでに衰退期に入っていた清国には欧米に対抗できる力は無く、英米仏の蚕食を傍観するしか術はなかった。しかし日本では、鎖国中とはいえ各藩の青年武士たちが世界情勢を学び、白人国の貪欲な侵略性を見抜き、人類史上稀に見る「明治維新」という無血革命を断行して新政府を樹立して「国難」を避けた。
明治政府は、政権確立当初から、「国防目的」のために国家近代化への道を歩み始め、その要である「国軍」の涵養に力を注いだ。以後、台湾遠征、日清、日露、北清事変、等々、すべての戦いが、日本の独立維持と朝鮮半島保護のための戦いであった。その成果は、台湾割譲と朝鮮半島の独立、後に併合という形で現れた。特に「日露戦争」では、世界最強と云われていた「ロシア陸軍」を満州の原野から壊走させた事実は、有色人種植民地住民の「驚異の的」となった。その上、第一次世界大戦直後、連合国の一員であった日本は、「ベルサイユ平和会議」で、人種差別反対を主張して「有色人種国」から高く評価された経験を持つ。しかし、彼ら「被植民地住民」に取っては、依然として「白人宗主国」からの解放などは、精神的にも力量的にも実現不可能な「夢のまた夢」であった。
後年、中国大陸の覇権を巡り、米国が日本に「仕掛けた謀略」により、日本は「中国と満州の両大陸」での戦いに追い込まれた末、始まったのが日中戦争に続く、米英蘭相手の「大東亜戦争」であった。日本軍の真珠湾攻撃によって火蓋が切られた「西太平洋地域」での戦闘では、半年も経ずして「東南アジア全域の植民地」すべての宗主国軍隊が、敗退敗走させられて、植民地すべてが解放された。日本軍は、各占領地において寸刻をおかずして、「独立国」へ向けた「現地青年たちへの訓導」を始めた。その範囲は、フィリピン、仏領インドシナ半島、ボルネオ、マレー半島、シンガポール、インドネシア、インド亜大陸に及んだ。
長年、白人宗主国には「抵抗不可能」と信じて、三世紀半以上にもわたり、「白人たち」を「神」のように崇め、畏怖服従して、黙々と搾取され続けていた「現地住民たち」にとって、自分たちと変わらない有色人種である「日本軍」の進攻に、短期間で攻め込まれ、嘘のように敗退していく白人部隊の姿は、まさに「晴天の霹靂」であり、自分たちが持っている「力の潜在性」に目覚めた瞬間でもあった。当時、インドネシアの人口は「一億人」以上であったが、宗主国オランダの人口は、「一千万人」にも達していなかった。そのオランダが、マンデラの祖国「南アフリカ」を始め、インドネシア、カリブ海諸国等に「植民地」を持ち、搾取し続けて、すべての富を祖国に運び、「白人帝国」の栄耀栄華を誇り続けた。それらの白人諸国とは、オランダ、スペイン、ポルトガル、英仏米、ドイツ、人口過少のベルギーでさえ、アフリカに植民地を持っていた。彼らの植民地は、主に農耕に適した「赤道周辺」に集中し、香辛料の搾取から始まり、農産物、後には宝石、貴金属類を含む鉱石、石油資源に至った。唯一の例外は帝政ロシアであった。欧州では、「後進国」とされていた「スラブ人ロシア」は、大陸国家であり、「海軍力」を持たず、海上からの植民地獲得戦には参加できなかったが、陸路東進を続けて、シベリア、カムチャッカ、ベーリング海を越えてアラスカまでも版図に加えていた。
その間、宗主国同士の「植民地争奪戦争」が頻繁に起こり、植民地から収奪した「宝物」を他国の船が横取りすることが頻発したために、その防衛のために「公認海賊船」までが現れた。彼ら白人同士の戦争が武器性能、造船技術の向上に大いに貢献した。史上最後の植民地争奪戦争は、18世紀末の「米西戦争」、米国がスペインのカリブ海とフィリピンの植民地を強奪した戦であった。
その間日本は、日清戦争に勝って「台湾の統治権」と朝鮮半島の「独立」を勝ち得た。しかし、朝鮮李王朝には「政権維持、行政能力」が皆無で、日本はやむを得ず「日韓併合」を実施した。日本政府は、台湾、朝鮮半島、後には満州国にも、それまでの「白人諸国」の植民地統治では「決っして見られなかった」多大な社会投資を実施して、「民生の向上」と「社会資本の充実」と何よりも「原住民の教育向上」に力を注いだ。
民族すべてが白人国の支配下のもと、奴隷状態下の圧制に置かれた地域を、先進国では「植民地(Colony)」と呼び、白色人種の当然の権利として「有色人種」の奴隷化が受け継がれていた。その状況からの「開放」を唱え、指導した個人、またはグループを「解放者(Liberator)」と呼ぶ。南アのマンデラもインドのガンジーも、中南米の現地人たちをスペインから解放したボリバー等々少数の指導者も存在したが、彼らが「解放した」のはすべて自国民だけであった。しかし、大東亜戦争で日本軍が解放した植民地は、各種民族が混在した「東南アジア全域」にわたり、その影響は、インド亜大陸から中近東、後にはアフリカにまで及んだ。この大役を果たした「日本と日本人」を、正しく「植民地解放のリベレーター」と呼ぶ者はいない。何故なら、第二次大戦の戦勝国すべてが「植民地の宗主国」であり、敗戦国日本の「戦犯裁判」の主務国であったからに他ならない。
敗戦国日本は、「戦時賠償」の名目で膨大な賠償金を、東南アジア諸国に支払った。「受益国」は、その資金で「新国家」を樹立し、国家財政を賄った。近年になり、その「解放者日本」に対する評価は、解放されたアジア諸国のみならず、宗主国であった白人国からも評価され始めている。先般実施された「安部総理」による一連のアジア歴訪が、心温かく歓迎された理由も、自分たちの「リベレーター、日本国」に対する敬意と感謝、近親間の表明であったと思っている。
以下、各植民地の「宗主国」、「搾取年数」と戦後、日本が支払った「賠償金額」を提示しておく。
インドネシア(オランダ)、340年間、804億円+ 2億米ドル。フィリピン(スぺインから米国)、381年間、1902億円+ 5億5千万米ドル、シンガポール/マレーシア(英国)、147年間、60億円、ビルマ(英国)、124年間、977億円、ベトナム(フランス)、58年間、140億円+ 4千万米ドル、ラオス・カンボジア(フランス)、58年間、ラオスへは10億円、カンボジアには15億円、その他、各国へ「日本人による各種無償役務」が提供された。この賠金額総額は、当時日本の国家予算の60%に相当したが、日本は二年間弱で全額支払いを完了した。それ以外に対戦国ではなかった共産党中国には、ODAとして累計で一兆円以上の支援を与え、韓国には、日韓基本条約締結時に8億相当の米ドルを無償、有償、借款として支払っている。それに反して、彼らの「旧宗主国」は、旧植民地の「新国家誕生」に際し、未だに1銭の賠償金も支払わないのみならず、一言の謝罪も与えていない。オランダなどは、インドネシアの独立に際し、逆に「賠償金」の請求さえしていた。以上の経緯をみても、真のリベレーター、被圧迫異民族の「解放者」は、間違いなく「日本」であり、日本国民であることが明確である。それ故に、東南アジア諸国からは、未だに心からの「感謝」の意を捧げられている。ここで、改めて皆さんに「マンデラ氏の言葉」の意味を味わって戴き、あなた方も、その「日本人の一員」であることを誇りに思ってもらいたいと願い、このブログを記した。2014年がよりよい一年間になり、皆さんが「日本人として自信と誇りを持って、正々堂々と生きて行かれますように!!」との願望から、このブログをお届けします。併せて佳き新年を迎えられますようにご祈念申し上げます。
2013年大晦日、シドニー在住、戸倉勝禮。
2013年8月14日水曜日
Blog-40 「戦後69年を迎えて」
Blog-40.
「戦後69年を迎えて」
私が「敗戦」を迎えたのは、北朝鮮平壌近くの港町、鎮南浦で7才半の時であった。8月9日早暁、ソ連軍の満州侵攻により、11日深夜、我々家族は満州国協和会の留守家族と共に一団となって新京駅(今の長春)から列車に乗って南下、二日がかりで安東から北朝鮮に入り平壌駅に到着したが、平壌市内はすでに日本人避難民で満杯、そこで平壌の外港でもある鎮南浦に列車が回された。その時まで見たことも無い田舎町に驚いたが、そこの日本人も朝鮮人住民たちも皆んな親切で、全くの異郷ではあったが、取りあえず「西本願寺」の本堂で一泊した。翌15日、「終戦の詔勅」があり、日本人は「敗戦国民」となった。協和会幹部であった父は、6月の「根こそぎ動員」で軍籍に戻り延吉守備軍に属していたが「連絡」が取れず生死不明、我々祖母も含めた家族6人は異郷での生活を強いられることになった。その一年間、幼少ながら「敗戦国民」の悲哀を感じ続け、まだ見たことも無い「祖国、日本」への引揚げの早からん事を願い続けた経験は、未だに鮮明な記憶として残り続けている。
さて、「戦後69年」を迎えるにあたり、明治維新以降、昭和20年8月15日、終戦までの「帝国日本史」を「私的史観」として振り返ってみたい。明治維新への契機は「欧米列強」の貪欲な「植民地拡大主義」から「日本を守る」気概から始まった。この国家的危機に鈍感であった「徳川幕府」に危機を感じた諸藩の下級武士たちが立ち上がり、成功させたのが明治維新であった。以後、明治政府は「西欧列強からの国土防衛」を目標に、「日本の近代化」と「国軍充実」に努める一方、国民全般の「近代化への覚醒」に努めた。当時の世界は、南米、アフリカ両大陸、中近東、インド亜大陸、東南アジアと中国の一部が、すべてが西欧諸国の植民地であった。そんな世界環境の中で、清国は「明治維新」以降、近代化を押し進める日本を侮って、北洋艦隊を日本に歴訪させて威嚇し、ロシアは満州への浸透意図を鮮明にすると共に、朝鮮半島略取意図を露にし始めた。この国際環境の中で、新興国日本は、陸海軍の軍備拡充に努め、「国防戦力」を充実させていった。その後、日本は「国防の要諦」として、清国の属国であった朝鮮半島の「独立」をめぐって日清戦争に突入して勝利を収め、「朝鮮半島の独立」と台湾、膨湖諸島の割譲、遼東半島租借と賠償金2億テールを勝ち取った。しかし、独仏露は即、「三国干渉」をもって日本を威嚇し、清国に更なる2億テールの追加賠償を認めさせる代わりに、日本に遼東半島の放棄を迫った。時の日本政府には、彼らに抗する国力は無く「臥薪嘗胆」の決意の元に、この理不尽な干渉を受け入れた。翌年、露国は、遼東半島、ドイツは青島を含む膠州湾、フランスは広州湾、英国は威海衛と九龍半島、等々の租借を清国に認めさせた。これが「植民地争奪」華やかな時代の「砲艦外交」であった。以後、朝鮮半島に対するロシアの「領有意図」は露骨になり、10年後に、日本は「世界の陸軍大国、ロシア」と開戦せざるを得ない状況に追い込まれた。
日清戦争の十年後、日本は「朝鮮半島と満州」の覇権を巡り、世界中が認めていた陸軍大国、ロシア帝国との開戦に踏み切り、苛烈な戦闘の末、辛勝を得て、三国干渉で失った「遼東半島」の租借に成功すると共に、旅順に「関東庁」設け、「満州の大地」に橋頭堡を得た。日露戦争で「東清鉄道」を入手した日本は、当時「無主の大地」と云われた「満州大陸」の開発を目指して国策会社「満州鉄道(株)」を設立し、その開発に着手した。しかし、満州には、漢人馬賊、張作霖が威を張り、ことごとく満州開発阻止に動いたために、帝国陸軍は「満鉄保護」と「満州開発」の目的で、旅順の関東庁に「関東軍」を併設して対抗策に出た。その間、日本の尽力により「独立」を得た「大韓帝国」は、国内改革のみならず国政正常化をも怠り、日本が与えた「独立国」の運営にも失敗を重ね続けて、すべての近代化が発足も出来ない状態が続いていた。西欧11ヶ国の推挙もあって、台湾領有に続き「日韓併合」が実現した。併合後の朝鮮半島の「近代化」には目覚しいものがあり、日本の台湾統治と朝鮮半島経営は、欧米諸国が驚愕するほどの成果を見せ始めた。
日韓併合の4年後、欧州で「第一次世界大戦」が勃発し、ドイツ、オーストリー・ハンガリー帝国連合、オスマントルコ対英仏ロシア連合の「6年間に及ぶ」大戦争が始まり、日本は「日英同盟」の関係上「連合国の一員」として参戦し、山東省青島と中部太平洋のドイツ軍陣地を占領した。その間、ロシアでは「共産主義革命」で帝政ロシアが消滅し、欧州でも古い王国が次々と消えてなくなった。5年余り続いた第一次世界大戦は、欧州列強すべてに甚大な「国力消耗」をもたらした結果、無傷の日本は「世界の最強国」の一員に名を連ねた。ベルサイユ宮殿で行なわれた「平和会議」の席上日本は、有色人種諸国から大いなる期待を持たれた「人種平等宣言」の動議を提出したが、白人参加国の拒否に合い失敗したが、人類史上初めての「人種差別反対動議」提出に、欧米の植民地支配に苦しむ各地の植民地からは、大いなる期待と希望が寄せられた。これら一連の出来事は、維新以降たったの50余年間での出来事であった。以後日本は、史上唯一の「非白人強国」として欧米列強の「妬み」と「慄き」の中で歴史を刻む宿命を背負った。
米国のアジアへの関心は強烈なものがあり、キューバ解放のために米西戦争を起こし、キューバからスペインを追い出した後、即、フィリピンと中部太平洋のスペイン領を領下に収め、中国と満州の大地にまで食指を動かし始めた。しかし、満州事変で張作霖の息子、張学良軍を追い出した「関東軍」は、満州建国を宣言した。中国各地に群雄割拠する漢人軍閥の覇権闘争で混迷を極める中国大陸は無政府状態であった。そこに手を突っ込んだのが「日本陸軍」の好戦派であった。確かに軍人にとって「叙勲」は最大の魅力であり、勲章への道は「戦争」が最大の近道であった。「北支那派遣軍」は、天皇の専権である「統師権」を犯すのみならず日本国政府の意思に反して、勝手に対支那戦線を拡大して行き、「泥沼」にはまり込んでいった。それに反発したのが、中国大陸の「市場開放」を意図する米国であった。米国政府は、対日戦宣布告も無しに蒋介石国府軍に「フライングタイガー」と称する戦闘機部隊を送ったのみならず、ビルマ=混明間に「援蒋ルート」を設けて、公然と軍需物資の支援を始めた。それのみならず、ルーズベルト大統領は、日本が絶対に「承諾し得ない」、明治維新以後に獲得したすべての「版図の放棄」まで求め、在米日本資産の凍結、石油、くず鉄の日本への禁輸措置まで実施して日本を追い詰めた。それが原因で「対米戦争」は開始された。開戦当初、日本軍の占領地域は、中国大陸のおよそ「東半分」、タイを除く仏印、フィリピン、ボルネオ、シンガポールを含むマレー半島、インドネシア、ビルマに及び、彼らの宗主国であった米英蘭仏政府が、1600年代初頭から「東インド会社」名義で植民地支配をはじめ、350数年にわたり搾取し続けた植民地のすべてを短期間で解放したのみならず、現地人を集めて新政府樹立準備要員の教育と独立軍将兵の訓練さえ施した。しかし、日本軍がインド開放を目指す頃から「国力」の衰退が始まり、結果として「敗戦」を迎えた。しかし、日本軍が「解放」したアジアの植民地は、日本の敗戦後に戻ってきた宗主国軍との戦いに、多くの日本軍将兵が参加して彼らの独立を助けた。これらの旧植民地のすべてが、戦後に「独立」を果たして、今日の繁栄を迎えている。
植民地の人口構成のすべては「原住民」で構成され、その上に「極少数の宗主国の白人」が君臨して原住民を搾取するのが常態で、「植民地の主権」は宗主国にあった。彼らは「愚民政策」を取り続け、現地人の教育を拒み続けたので、原住民は「世界情勢」を理解する機会も能力も無いまま、20世紀中葉を迎えたが、ある日突如として「有色人種の日本兵」が現れ、ごく短時間の間に「神とも仰いでいた白人たち」を駆逐し、早くも翌日から植民地時代には想像も出来なかった「現地人主体」の善政が始まった。その善政と原地人教育は日本の敗戦まで続いた。この現実を体験していた多くの現地人指導者たちと住民は、「村山談話と謝罪」を聞き、彼の「歴史音痴」に驚かせられたそうだ。
この輝ける近代史を持つ我が日本の敗戦後は、官民一体となって「死に物狂い」で戦後復興に努め、短期間で戦前にも勝る「新日本国」を作り上げた。しかし、戦前と異なる一点は「国民意思の疎通」である。右翼的、左翼的な意見の相違は常態であるとしても、日本史上決して見られなかった日本人による「反日行動」の出現である。小筆この浅ましい行動を憂う事、大にして何とか矯正出来ないものかと日夜考え続けている。酷暑の続く日本の皆さん、新しい希望の星「安倍政権」を支えて「新日本建設」に協力して下さい、お願いします。
ご連絡は、kentokura@hotmail.com 又は、Tel/Fax: +612-9874-2778. まで、
戦後69年を迎えて、
Blog-40.
「戦後69年を迎えて」
私が「敗戦」を迎えたのは、北朝鮮平壌近くの港町、鎮南浦で7才半の時であった。8月9日早暁、ソ連軍の満州侵攻により、11日深夜、我々家族は満州国協和会の留守家族と共に一団となって新京駅(今の長春)から列車に乗って南下、二日がかりで安東から北朝鮮に入り平壌駅に到着したが、平壌市内はすでに日本人避難民で満杯、そこで平壌の外港でもある鎮南浦に列車が回された。その時まで見たことも無い田舎町に驚いたが、そこの日本人も朝鮮人住民たちも皆んな親切で、全くの異郷ではあったが、取りあえず「西本願寺」の本堂で一泊した。翌15日、「終戦の詔勅」があり、日本人は「敗戦国民」となった。協和会幹部であった父は、6月の「根こそぎ動員」で軍籍に戻り延吉守備軍に属していたが「連絡」が取れず生死不明、我々祖母も含めた家族6人は異郷での生活を強いられることになった。その一年間、幼少ながら「敗戦国民」の悲哀を感じ続け、まだ見たことも無い「祖国、日本」への引揚げの早からん事を願い続けた経験は、未だに鮮明な記憶として残り続けている。
さて、「戦後69年」を迎えるにあたり、明治維新以降、昭和20年8月15日、終戦までの「帝国日本史」を「私的史観」として振り返ってみたい。明治維新への契機は「欧米列強」の貪欲な「植民地拡大主義」から「日本を守る」気概から始まった。この国家的危機に鈍感であった「徳川幕府」に危機を感じた諸藩の下級武士たちが立ち上がり、成功させたのが明治維新であった。以後、明治政府は「西欧列強からの国土防衛」を目標に、「日本の近代化」と「国軍充実」に努める一方、国民全般の「近代化への覚醒」に努めた。当時の世界は、南米、アフリカ両大陸、中近東、インド亜大陸、東南アジアと中国の一部が、すべてが西欧諸国の植民地であった。そんな世界環境の中で、清国は「明治維新」以降、近代化を押し進める日本を侮って、北洋艦隊を日本に歴訪させて威嚇し、ロシアは満州への浸透意図を鮮明にすると共に、朝鮮半島略取意図を露にし始めた。この国際環境の中で、新興国日本は、陸海軍の軍備拡充に努め、「国防戦力」を充実させていった。その後、日本は「国防の要諦」として、清国の属国であった朝鮮半島の「独立」をめぐって日清戦争に突入して勝利を収め、「朝鮮半島の独立」と台湾、膨湖諸島の割譲、遼東半島租借と賠償金2億テールを勝ち取った。しかし、独仏露は即、「三国干渉」をもって日本を威嚇し、清国に更なる2億テールの追加賠償を認めさせる代わりに、日本に遼東半島の放棄を迫った。時の日本政府には、彼らに抗する国力は無く「臥薪嘗胆」の決意の元に、この理不尽な干渉を受け入れた。翌年、露国は、遼東半島、ドイツは青島を含む膠州湾、フランスは広州湾、英国は威海衛と九龍半島、等々の租借を清国に認めさせた。これが「植民地争奪」華やかな時代の「砲艦外交」であった。以後、朝鮮半島に対するロシアの「領有意図」は露骨になり、10年後に、日本は「世界の陸軍大国、ロシア」と開戦せざるを得ない状況に追い込まれた。
日清戦争の十年後、日本は「朝鮮半島と満州」の覇権を巡り、世界中が認めていた陸軍大国、ロシア帝国との開戦に踏み切り、苛烈な戦闘の末、辛勝を得て、三国干渉で失った「遼東半島」の租借に成功すると共に、旅順に「関東庁」設け、「満州の大地」に橋頭堡を得た。日露戦争で「東清鉄道」を入手した日本は、当時「無主の大地」と云われた「満州大陸」の開発を目指して国策会社「満州鉄道(株)」を設立し、その開発に着手した。しかし、満州には、漢人馬賊、張作霖が威を張り、ことごとく満州開発阻止に動いたために、帝国陸軍は「満鉄保護」と「満州開発」の目的で、旅順の関東庁に「関東軍」を併設して対抗策に出た。その間、日本の尽力により「独立」を得た「大韓帝国」は、国内改革のみならず国政正常化をも怠り、日本が与えた「独立国」の運営にも失敗を重ね続けて、すべての近代化が発足も出来ない状態が続いていた。西欧11ヶ国の推挙もあって、台湾領有に続き「日韓併合」が実現した。併合後の朝鮮半島の「近代化」には目覚しいものがあり、日本の台湾統治と朝鮮半島経営は、欧米諸国が驚愕するほどの成果を見せ始めた。
日韓併合の4年後、欧州で「第一次世界大戦」が勃発し、ドイツ、オーストリー・ハンガリー帝国連合、オスマントルコ対英仏ロシア連合の「6年間に及ぶ」大戦争が始まり、日本は「日英同盟」の関係上「連合国の一員」として参戦し、山東省青島と中部太平洋のドイツ軍陣地を占領した。その間、ロシアでは「共産主義革命」で帝政ロシアが消滅し、欧州でも古い王国が次々と消えてなくなった。5年余り続いた第一次世界大戦は、欧州列強すべてに甚大な「国力消耗」をもたらした結果、無傷の日本は「世界の最強国」の一員に名を連ねた。ベルサイユ宮殿で行なわれた「平和会議」の席上日本は、有色人種諸国から大いなる期待を持たれた「人種平等宣言」の動議を提出したが、白人参加国の拒否に合い失敗したが、人類史上初めての「人種差別反対動議」提出に、欧米の植民地支配に苦しむ各地の植民地からは、大いなる期待と希望が寄せられた。これら一連の出来事は、維新以降たったの50余年間での出来事であった。以後日本は、史上唯一の「非白人強国」として欧米列強の「妬み」と「慄き」の中で歴史を刻む宿命を背負った。
米国のアジアへの関心は強烈なものがあり、キューバ解放のために米西戦争を起こし、キューバからスペインを追い出した後、即、フィリピンと中部太平洋のスペイン領を領下に収め、中国と満州の大地にまで食指を動かし始めた。しかし、満州事変で張作霖の息子、張学良軍を追い出した「関東軍」は、満州建国を宣言した。中国各地に群雄割拠する漢人軍閥の覇権闘争で混迷を極める中国大陸は無政府状態であった。そこに手を突っ込んだのが「日本陸軍」の好戦派であった。確かに軍人にとって「叙勲」は最大の魅力であり、勲章への道は「戦争」が最大の近道であった。「北支那派遣軍」は、天皇の専権である「統師権」を犯すのみならず日本国政府の意思に反して、勝手に対支那戦線を拡大して行き、「泥沼」にはまり込んでいった。それに反発したのが、中国大陸の「市場開放」を意図する米国であった。米国政府は、対日戦宣布告も無しに蒋介石国府軍に「フライングタイガー」と称する戦闘機部隊を送ったのみならず、ビルマ=混明間に「援蒋ルート」を設けて、公然と軍需物資の支援を始めた。それのみならず、ルーズベルト大統領は、日本が絶対に「承諾し得ない」、明治維新以後に獲得したすべての「版図の放棄」まで求め、在米日本資産の凍結、石油、くず鉄の日本への禁輸措置まで実施して日本を追い詰めた。それが原因で「対米戦争」は開始された。開戦当初、日本軍の占領地域は、中国大陸のおよそ「東半分」、タイを除く仏印、フィリピン、ボルネオ、シンガポールを含むマレー半島、インドネシア、ビルマに及び、彼らの宗主国であった米英蘭仏政府が、1600年代初頭から「東インド会社」名義で植民地支配をはじめ、350数年にわたり搾取し続けた植民地のすべてを短期間で解放したのみならず、現地人を集めて新政府樹立準備要員の教育と独立軍将兵の訓練さえ施した。しかし、日本軍がインド開放を目指す頃から「国力」の衰退が始まり、結果として「敗戦」を迎えた。しかし、日本軍が「解放」したアジアの植民地は、日本の敗戦後に戻ってきた宗主国軍との戦いに、多くの日本軍将兵が参加して彼らの独立を助けた。これらの旧植民地のすべてが、戦後に「独立」を果たして、今日の繁栄を迎えている。
植民地の人口構成のすべては「原住民」で構成され、その上に「極少数の宗主国の白人」が君臨して原住民を搾取するのが常態で、「植民地の主権」は宗主国にあった。彼らは「愚民政策」を取り続け、現地人の教育を拒み続けたので、原住民は「世界情勢」を理解する機会も能力も無いまま、20世紀中葉を迎えたが、ある日突如として「有色人種の日本兵」が現れ、ごく短時間の間に「神とも仰いでいた白人たち」を駆逐し、早くも翌日から植民地時代には想像も出来なかった「現地人主体」の善政が始まった。その善政と原地人教育は日本の敗戦まで続いた。この現実を体験していた多くの現地人指導者たちと住民は、「村山談話と謝罪」を聞き、彼の「歴史音痴」に驚かせられたそうだ。
この輝ける近代史を持つ我が日本の敗戦後は、官民一体となって「死に物狂い」で戦後復興に努め、短期間で戦前にも勝る「新日本国」を作り上げた。しかし、戦前と異なる一点は「国民意思の疎通」である。右翼的、左翼的な意見の相違は常態であるとしても、日本史上決して見られなかった日本人による「反日行動」の出現である。小筆この浅ましい行動を憂う事、大にして何とか矯正出来ないものかと日夜考え続けている。酷暑の続く日本の皆さん、新しい希望の星「安倍政権」を支えて「新日本建設」に協力して下さい、お願いします。
ご連絡は、kentokura@hotmail.com 又は、Tel/Fax: +612-9874-2778. まで、
2013年6月22日土曜日
「21/7 参院選」について、
Blog-39 22-6-2013
「7/21参院選」について、
参院選まで4週間余り、この選挙で「安倍自民」を勝利させるか、敗北させるかで、日本の将来は大きく変わるはず。この重大な参院選の焦点は「憲法改正」の一点に絞られていると思う。その改憲を前に、まず日本国の「国家主権と憲法」について私見を述べたい。
国家の「主権」とは、領土と国民とそれを統治する政府を備えている「国」に与えられた、国際間、相互による「保全保障」が源泉である。その前提として、各国国民は「自国の安全」と「国際保障」に対して「無限の責任」と「保障確約」をしたものが「憲法」で、その国と国民が持つ「国際的な権利と履行義務」を記述したものである。この憲法には、国内的に定めた「諸々の責任と義務」を網羅した基本条項が述べられているが、究極的には「日本国と日本人」が国際社会に向けて公表した「日本国家の在り方」と「国際社会との関連」に関する基本的態度と約束を表明したものでもある。
さて、現行憲法の成立過程を見ると、終戦直後、日本国民によって選ばれた「国会議員」が作成した憲法案が、当時の「占領軍司令部」に否定され、占領軍が作成した「日本国憲法」案を強制的に議決、公布しろ、と強要された過程がある。その「外国人作成」の「日本国憲法」を今日まで後生大事に「遵法」してきたのが、我々日本国民であつた。しかし、その内容たるや、国家の「根本」たる元首、天皇が「国民の象徴」とされ、国家の安全を「他国の善意」にすがり、「軍隊を持たず」、「交戦権」を自ら否定した憲法であった。自国の安全を第三国または宗主国に委ねたのは、人類史上「植民地」か朝鮮半島のような支那の「属国」のみであり、自分の国を「自ら守る」条項が無い「憲法」は実質的な憲法とは云えず、日本は、国際法でいう「独立国」ではなかったと云える。
サンフランシスコ講和条約で独立を回復した「日本」は、戦後60余年間、名目上は「独立国」ではあったが、憲法上は他国の支配を許す「被支配地」の立場であり続けたと云える。55年体制下の自民党も社会党を始めとする各野党も、米ソ、中国、朝鮮半島への思惑から「国益」を無視して、この「非正常」な国体を黙認し続けてきた。現在も、「帰化人政党、民主党」に見られたように、日本の国益を忖度する以前に、彼らの出身国である朝鮮半島や中国の国益を優先させた政治姿勢に終始してきたし、その他の公明党を含む弱小政党も「日本の国益」よりも、彼らの「政党としての存立」を第一義的に考慮した政局に没頭してきた。その結果、国内では、異常な「国体無視」、「国防意識皆無」、「反日的自虐思想」、「国益無視」の国民が育ち、日本国自体が正体不明の「化け物国家」になってしまった。世界中の何処を探しても、国民が自国の国旗と国歌を厭う国など聞いたことも観たこともない。これらの原因のすべては、「寄って立つべき憲法が不完全」であったことに起因している。
そもそも「憲法」とは、国家の在るべき「理想の姿」を表明したものであり、その理想を実現するための「方法と組織」を記述し、その「理想の国家」を如何に守るべきかを定めた物であるべきである。この意味において、現行憲法は、まさに欠陥だらけで、「素人の英語作文」を「日本語も定かで無い」外国人によって「日本語へ翻訳」されたものであった。その一例が、「国家元首」であるべき「天皇」の存在を「国家の象徴」と表現している。象徴とは、物体に対する憧れの表現であって、人物に対する「日本語の表現」としては適切とは思えないし、「国家元首」が国民の物質的な象徴であれば「偶像崇拝」と変わらず、国政機能の頂点としての「役割」が果せるのか、という疑問が残る。国防に関しても、この憲法と国土と国民を守るのは「国民の普遍の義務」であるはずの条項が、他国の善意に頼り、戦力保持を否定し、国家の交戦権まで否定している。では、他国が「善意」をかなぐり捨てて、日本を侵略してきた時、日本はこの憲法と国家、国民、領土を、どうして「守る」のか、 と云う最大の疑問を避けて通ってきたのは、過去の政治家たちの怠慢であった。現に、日本固有の領土である、北方四島、竹島が侵され、尖閣諸島が危機に面している。この問題を、現行憲法では解決不可能な実情に面している事も「憲法改正」の主たる要件である。
「自国を守る」、これは国家、国民に課せられた「普遍の権利」、「固有の義務」であり、神聖な国家主権の「基本的な原点」である。いかなる国家といえども、何人であっても、他国の「国防権」に干渉したり、これを犯すこと出来ない。そのためにも、「軍隊保持」を否定し、「交戦権」をも自ら「拒否」した憲法9条が、果たして「国際公法」に則った「国法」であるか、という疑問もある。いずれにしても、日本の「現行憲法」を改定して「自主憲法」を制定することは、誰もが肯定するところであり、これに「反対する勢力」は、日本国の「弱体化」を目論む外国勢力の「傀儡」か、自らを貶めて喜ぶ「極度の反日」勢力としか云えない。
「国益を守る」には、当然、軍隊と国家機密を守る機関が必要である。それは、当然、志願制度を伴った「徴兵制度」であり、「機密保護法」の制定である。それには、当然「不良外人」の国外追放も含まれ、「不適当な外国人」の入国拒否も付随する。特に日本国籍取得希望者の「審査」には慎重を期し、日本国の基本である国家元首、天皇への「忠誠」と「日本国民」としての国内法の「遵守、義務履行の誓約」も求めるべきで、「違反者」には当然「国籍返還」の罰則が伴うべきである。国内居住の「反日外国人」の国外追放も、国家防衛のためには必要であり、併せてこの「法整備」も行なう必要がある。
今、この時期に「日本国憲法」を改正して、日本国民自身による憲法策定を実施しないと、祖国日本も、日本国民も、取り返しのつかない「泥沼」に沈み込んで行くに違いないと危惧している。過去「55年体制」下の自民党を経験した安倍晋三総理の国政にたいする危惧感も、この曖昧な憲法を改革せずして「日本再生」は有り得ないという決意だと信じている。
小筆も、何としても現「安倍自民政権下」で憲法改正を実施して貰いたく、その序説として、7月21日の参院選を勝利させて、まず改憲条件を決めた96条の2/3条項を「1/2に改定」して憲法改正を容易にし、「国民の信託」を受けた国会議員の半数以上の「合意」で改憲提案が国民投票にかけられるようにすることが第一。第二は、「国家元首は天皇」と明記して「国体の根源」を明確化し、国家防衛の重責を荷なう「国軍条項」を憲法上で規定する必要がある。憲法は、決して「不羈の大典」ではなく、「時代に即応して」柔軟に改憲されていくべき存在であり、国民の信託を得て組閣した「内閣」の意思を実現化するためにも「1/2条項」は必要不可欠のものであると共に、「国会内の雑音」を防ぎ、内閣が必要とする「改憲条項」を法制化するための必要条件でもある。この度発表された安倍自民作成の「憲法改正案」は、幸いにして正鵠を得ており、この改正案を元に「日本再生」を実現すべく政府の努力を期待している。
我が「日本国」は、有史以来「独立」を保ち続けて2673年、その間、日米戦争では、米国の無差別爆撃と人道違反の非戦闘員の殺戮を目的とした「原爆投下」を受けて敗戦を受容したが、他国の支配を受けたのは「太平洋戦争終結」から「講和条約成立」までの、たった6年余りの期間だけであった。敗戦後日本は、その惨禍から必死の思いで「戦後復興」に尽力して、立派に復興を成し遂げた。この日本人の力は、大戦中に見せた「忠勇無比」の大和魂に勝るとも劣らない偉大な力であった。この未曾有の敗戦にさえ打ち勝った日本民族の底力は、世界の驚異であり続け、その廃墟にあっても、決して失われなかった「高邁な日本精神と公徳心」は、世界の民から賞賛の的になっている。その極度に高い民度と高度な先端技術がもたらす膨大な経済力を有する「日本」が、このようにいい加減な「現行憲法」を墨守していること自体が不自然で、「憲法改正」は当然のことである。そのためにも、来る参院選で「安倍自民」を大勝させて、念願の「憲法改正」を実施する、これこそが「日本再生」の鍵である。日本の皆さん、野党の雑音は無視して「安倍自民」のみを信頼して、日本の未来を開くために、安倍自民の推薦候補者に投票をされることを願っています。
シドニーは真冬、明後日から半月間の訪日を控え、多忙な毎日ですが、7月21日の「参院選」、是非とも「安倍自民からの立候補者」への投票をお願い致します。
その間の連絡は、kentokura@hotmail.com 又は 090-3008-7549. 宛。 戸倉勝禮。
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