2012年5月29日火曜日
Blog-30, 「隣人を哀れむ」その一。
Blog-30
29-5-2012
「隣人を哀れむ」、その一。
先日のニュースで、藤村官房長官談として、韓国大法院(最高裁)の「元徴用朝鮮人労働者個人の請求権」を妥当とした判定に関し、韓国側へこの件は「日韓基本条約」で「完全かつ最終的に解決済み」である、との発言を公表した。以前にもこの大法院は「従軍慰安婦」の個人補償を放置するのは憲法違反である、とも判定した結果、朴明博大統領が日本政府に「補償の実施」を求めた経緯があった。この「基本条約」では、「竹島帰属問題以外の両国間双方のすべての請求権は完結した」、としているから、韓国大法院のいかなる判定にも日本政府は関与しない・・・と、改めて宣告すべきである。
この件も含めて、今回はお隣り「朝鮮半島」と日本との関連について、二回にわたって私見を述べたい。
朝鮮半島と日本との関りは、縄文時代以前から脈々と継続しているはずで、一衣帯水の九州北西岸から山口県にかけて朝鮮族と全く変わらない「顔つき」をした沢山の人たちを見かけるのもその証拠であろう。それだけ人的往来と混血があり、原始的文化の交流さえ存在していたという事である。この平和な共存関係に変化が現れ始めたのが、秦の始皇帝による中国統一以降である。以後朝鮮半島は、中国大陸の影響下に置かれ続けてきたが、その一番大きな影響が中国文明の導入であり、その中でも特に「儒教」の影響は「朝鮮文明形成」を決定ずけ、その後「絶対君主制」を説いた朱子学の導入と共に「朝鮮半島民族」の基本的な「民族性」を形成する重要な要素となり、今日まで連綿と継承されている。
「儒教思想」は、長幼の序列によって説かれ、仁、義、礼、智、信、を基本にして、上に「敬うべき長老」と、下に「教えを垂れるべき幼劣者」を必要とした。朝鮮民族は、国家として「中国を長老」、「日本列島を幼劣」、自分たちをその「中葉」(中間)として位置づけることで、自分たち自身に「儒教的安定感」を持たせてきた。すなわち、「長」から中華思想と文化を直接授受することで、「中葉」にある自分たちの優越性を誇り、自分たちの「下層的立場」にある日本に、その「教えを伝授」することで自己満足をしてきた。それだけでは済まず、日本人は朝鮮民族を「長老」として崇めて「教えを請う」のみならず、自分たちを師として「敬うべき」存在である、との優越観念を民族的性癖として固定させてしまった。
朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の「三韓」時代から新羅の「半島統一」、高句麗の「新羅併合」と続き、それまでは「比較的に」民族の独自性を守っていた。しかし、1392年、高麗の武将、李成桂が祖国に反旗を翻して、大国「明」の支援で「李王朝」を樹立した直後、明の太宗から「朝鮮王」として冊封を受けることで「中国の属国」になった。15世紀以降、朝鮮民族は、中国大陸国家の「属国」としての立場に甘んじ続け、自ら「小中華国家」として中華帝国の保護下に安座した。儒教、朱子学を「国学」として漢暦、漢字を使って、中国以上の「小封建国家」として自らを満足させたまま、躍進する西欧勢力の存在に眼を閉じたまま、すべての対応を宗主国「清朝」に頼り、国家近代化を否定したまま19世紀の極東アジアの混乱期に直面した。
しかし、西欧諸国に「眠れる獅子」として一目置かれていたはずの清国が、イギリスが仕掛けた「アヘン戦争」で一蹴されたために「張子の虎」であったことが判明。以後、ロシアを含めた西欧列強が、清国領土のみならず朝鮮半島へまでも「簒奪」の魔手を伸ばしてきた。自分たちの「長」であり宗主国である清国が頼れないことは理解出来ても、明治維新を成し遂げて近代国家形成過程にある「幼劣的立場」にある日本には、面子の問題としても頼れない。そこで李王朝の迷走が始まった。傾清派、傾露派、傾米派、傾仏派と「日本以外」の強国に半島保護を求めて、国政は乱れに乱れたまま「日韓併合」まで続いた。
一方、日本は、西欧列強の「飽くなき侵略性」を、早くも16世紀の織豊時代から感知して、徳川時代初頭から「鎖国」を以って、日本の植民地化を避けてきた。それでも19世紀前半に入ると西欧の「開国圧力」が増したために、国家近代化のための大改革「明治維新」を断行して西欧圧力に対抗出来る「国家近代化」を成し遂げて植民地化を避けたのみならず、短期間で有色人種国で史上最初の「五大列強国」のひとつにのし上がった。
李王朝下の朝鮮半島は、アジア諸国でも珍しいほど「蛮性」を有した専制国家体制を維持し続けていた。住民は、極少数の特権階級、すなわち「王族」、貴族である「両班」、自由人である「中人」、特殊技能を有する「常人」と、ほんの一握りの階級の下に、住民の大部分が売買の対象にさえされていた奴婢、奴隷、農奴に属する「賎人」階級で構成され、更にその下に、「白丁」と呼ばれたアンタッチャブルで、特殊部落に隔離されて屠殺や特殊手工業を専業とする非人階級さえ存在した。住民の殆どが文盲で、世のすべてが「賄賂」と「讒言」で動く世界でもあった。罪人に対する拷問は公開され、しばしば無罪の者が賄賂と拷問による「自白」で有罪を宣せられ、残虐な方法で公開処刑をされた。国内にインフラは無く、教育制度も両班を対象とした学校が二校あったのみで、国政は極少数の「科挙」試験合格者である両班出身者によって取り仕切られていたが、すべて「宗主国」と「王族」の意向と自分たち特権階級の利益に従ったものに過ぎなかった。
こんな状況が五百年も続いた後、「日清、日露戦争」に続いて、1910年の「日韓併合」があり、日本の指導で、法律とインフラの整備による朝鮮半島の近代化が開始された。国内の行政制度は日本に準じたものとなり、王族以外の「階級制度」はすべて廃止され、住民はおしなべて「平等」になり、教育制度も「ハングル」を教育普及手段として小学校から教え始めたことにより、短期間に国民の識字率が上がった。ハングルは、1446年に世宋によって公布された朝鮮語の表音文字であったが、「漢字」に固執する事大主義者たちと小中華主義に染まった上流社会から無視され普及しないまま放置されいた。この「ハングル」の普及により、教育の向上のみならず、行政目的が国内の隅々まで伝達されるようになり、「併合」以降の発展の基礎となった。
日本政府は、併合初年度から朝鮮半島が独立経営できるように膨大な資金を投入した。農業地帯「南鮮」の生産性を高めるために、鉱物資源が豊富な「北鮮」の鉱山開発を手がけて窒素工場を始め、多くの重化学工場を作り、その電気供給のために、鴨緑江に世界でも最大規模の水豊発電所を建設して朝鮮半島の生産性と独立採算性を高めた。半島の山野は住民の乱伐で樹木は無く、すべて禿山であった。その植林指導を行ったのも朝鮮半島を管理する「総督府」であった。併合後、半島の生活環境は年毎に改善され、住民生活は眼に見えて向上していき、住民の大部分が日本式行政制度を受け入れていた。その間、日本人の半島への移住は、人口三千万人弱に対して3%以下でしかなかった。(終戦後の南北朝鮮からの日本人引揚者総数が、満州からの疎開者約15万人を含めても92万人強でしかなかった)。
日本国民は、日中戦争開始に伴い、多くの勤労青年たちが「徴兵」により軍籍に入り、中国大陸の戦線と、後には太平洋戦線に投入されて、その多くが戦死したが、「準日本国」であった朝鮮半島の男子にも、日本国の一部であった台湾の青年たちにも「徴兵制度」は適用されず、彼らからは「志願兵」以外の「戦争」による犠牲者はでなかった。
現在の南北朝鮮半島民は、「日帝36年間の圧政」と声高に叫び、いかに過酷な生活が課せられたか、という事を声高に叫んでいるが、事実は上述のごとく「李王朝時代」の地獄の生活と奴隷制度から朝鮮民族を解放したのは「日本政府」であり、36年間の「併合時代」によって、朝鮮半島は、中国本土、満州にも勝る「近代化」が成し遂げられたのであった。
日本の敗戦は、米国を主体とした連合軍によるもので、朝鮮民族は「全く関与」していない。日本の敗戦後も、朝鮮人の親日感情には何ら変化は無かった。しかし戦後、日本統治時代の事績を全く知らない李承晩が亡命先のハワイから帰国して、米国の支持で大統領に就任した。その直後、南北朝鮮間で「朝鮮動乱」が起こり、日本が営々として築き挙げたインフラと産業施設のすべてが壊滅したのみならず、李承晩の偏狭な性格が、併合時代に育てられた有能な政府官僚の大部分を「親日的」であり過ぎるとして、30万人以上を投獄し、殺害したために、貴重な人的遺産まで失ってしまった。それと同時に数々の「反日政策」を打ち出し、国際法に違反して公海上に「李承晩ライン」を設け、竹島を取り込むと同時に「親日分子の処分」、「日本文明の否定」、「国交途絶」等々の施策を打ち出した。特に後世まで影響が残っているのが、小中学校での徹底した「反日教育」であり、その教育を受けて育った韓国人たちが現在、従軍慰安婦、徴用工、竹島帰属、日本所有の半島文化財の返還要求、等で大騒ぎをしている人たちである。
朝鮮半島が中国大陸の「属国」になって以来、抵抗できない絶対的権力者に対する「恨みつらみ」を抱き続ける「恨(ハン)の文化」が民族的特性に加わった。絶えず「恨みの対象」を求めつづけて、終生「恨」を忘れない、という煩悩の一種である。現代韓国の「恨」の対象は、李承晩以降に叩き込まれた「反日教育」をベースにした「日本の存在」自体である。自分たちより「儒教的に下層」にあるはずの日本に「36年間支配」され、現在も圧倒的な知的財産、経済力と公徳心を具えている日本のすべてが「恨」の対象である。彼らは、因果関係には関心が無く、平常心も理性も投げうって、ただひたすらに激情に走って、やみくもに「反日」を唱えることが「恨」の正義であり、自己再認識の手段である、と信じている。優秀な民族ではあるが、誠に厄介な隣人でもある。長くなり過ぎるので、南北問題に関しては、次回「その二」で述べる。
シドニーは、あと三日で「冬」を迎える。いくら温暖な気候でも深夜の寒さは格別である。今朝も二時半起きでパソコンと格闘、今は七時半、すでに両足が冷え切っている。姪からの助言「熱い紅茶に、生しょうがと黒砂糖を入れて飲みなさい・・・」との事、早速試してみるか・・・。
小筆の「ブログ通覧」は、yahoo で「豪洲太朗のシドニー通信」を検索、ご意見等は、直接 kentokura@hotmail.com へ。
2012年4月24日火曜日
Blog-(29), 「羞恥文化」を失った日本。
Blog-(29)
24-4-2012
「羞恥文化」は何処へ、
古き良き日本の生活習慣に「恥を知る・・・」と云う伝統的な精神文化があった。つまり、日常を、いかに「謙虚に生きるか」と云うことで、公道や天道に反する事、人倫に悖る事、人心に劣る事、近隣への迷惑、虚言を弄する事、等々、すべてが「恥を知らない人間」の行為として蔑まされていたし、「やくざ」の世界でさえ「こんな半端者と笑ってやって下さい・・・」と畏まったのが、世界でも希な日本文化の特徴であり、美徳でもあった。
この文化圏では、「己の恥を知る」事が最大の美徳であり、「恥を知れ・・・」と叱責される事が最大の侮辱であった。人は、すべからく「世間様に恥を掻かないように努め」、「自己規制」をしながら自分自身を戒めた。己の「恥を雪ぐ」ためには、身を挺して孤山や僧院に籠り、時には自決さえしたものであった。前大戦中、無謀な戦争を起こした軍部首脳は別として、日本軍は世界で最も勇敢な将兵を抱えていた。将兵のすべてが「己の本分」を知り、それに「悖る」行動を「恥としていた」からであった。この古き良き文化が世界最強の軍隊を育んだ主因であることを悟ったアメリカは、戦後教育ですべての「恥じを知る文明」を亡失させた。その結果が、「厚顔無恥」、「軽佻浮薄」、「礼譲知らず」な日本人が蔓延り、大道を闊歩する今日の散々たる現状である。「恥を知る、誇り高き日本人」が消えうせた結果、と云うことである。今回は、人類史上希なる日本の「羞恥文化」について私見をのべる。
まず、民主党の政権公約、マニフェストから述べる。たったの二年半前、鳩山由紀夫を党首とする民主党が「華々しいマニフェスト」を掲げて、人材と新鮮味に飽きられてマンネリに落ち込んでいた自公政権を破って政権に就いた。「コンクリートから人へ」、「官僚主導から政治主導の行政」、「天下り禁止」、「国会議員の定数削減」等々、実に新鮮で晴れやかな公約であり、国民はこぞって民主党を支持して政権を与えた。しかし二年半後の現在、この公約が何一つ実現していないのみならず、国民が予想もしなかった「消費増税」が出てきた。不適任な「閣僚任命」に対する「問責」が六件も続き、四人が「更迭」され、内政のみならず外交にも蹉跌を来たしている現状は、すでに全世界から相手にされない国家に成り下がってしまった。
二年半で三人の首相をたらい回しにした上での「東日本大震災」である。国家の赤字財政に追い討ちをかけた「復興予算」の発生、危機的財政状況にあるにも拘わらず、「ばら撒き予算」の編成を続け、景気回復の目途さえついていない現状であるにも拘わらず「消費増税」である。おまけに、党員資格停止され、公判中の小沢前幹事長が政権を揺さぶる始末。とんでもない発言と異常な虚言で降ろされた鳩山首相、原発事故で無能さを曝け出した菅首相、仕事もろくに出来ない大臣が続き、罷免騒ぎで内閣が揺れている現政権、等々、思いついて挙げただけでも十指に余る失態を重ねながら、それでもまだ「政権にしがみ付いている」のが民主党の現状である。彼らが「恥を忘れた」亡国の民の最たる者たちであろう。
二大政党であったはずの政党政治が、リーダーの統率力の欠如と結束力不足から分裂して、無数の弱小政党が蔓延る日本の国会、なんとも手の下しようがない無意味な議論が繰り返され、無駄な議事運営が性懲りも無く続いている。「出口さえ見えない」閉塞状況を続けて恥じない国会議員たちの浅ましい姿に、国民はあきれ返っているのが現状である。この状況打破に解決策はあるのか ? 残念ながら「ノー」である。今の与野党すべての国会議員にはその能力も気力も見られない。要するに、自分たちの「無能」に対して「恥じる」見識さえないのである。
政権公約にも拘わらず、一旦廃止が決まった、国交省の「八ン場ダム」工事再開、高速道路建設再開にも驚かせられているが、なし崩し的に進行している整備新幹線延長工事再開、全然自粛の気配さえない「天下り」の実態、行政法人の無駄遣いも野放しのようだ。これらも役人たちの「無恥的行為」に違いない。民間では、世界を騒がせている東電の「原発事故」、東電首脳部に自分たちの「手抜かり」で大事故を引き起こし、国民のみならず世界に迷惑を掛けている、という自覚さえ見えず、政府に「一兆円」にも及ぶ「公的資金」を当然のごとく要求し、その上での17%にも上る独善的な「値上げ」である。そこには恐縮して謝罪する気持ちも、こんな大事故を起こしたプロとしての「反省」もなければ、過失事故を「恥じる」謙虚さも見られない。
街には「振り込め詐欺」が横行し、電車内で化粧をしたり、平気で自分勝手な行動をする若者たちには「羞恥心」の欠片も見られない。こんな「羞恥心亡失」の日本人が大道を闊歩しているのが現代日本社会の悲劇である。
昨年の「東日本大震災」では、多くの被災者たちが相互援助をし合い、無数の庶民がボランティアで援助に献身した。世界中から善意の支援の手が差し伸べられ、想定外の義捐金が集まった。世界は、被災者たちの忍耐力と互助精神を賞賛して止まなかった。特に世界が驚いたのは、あの悲惨な状況下にありながら、治安に一切の乱れが無かったことである。これらの現象は、世界の常識では考えられない「奇跡的な」出来事であった。この事実は、「羞恥文化」を受け継いでいる日本人の「普遍の公徳心」と「民度の高さ」の証明でもあった。「僻地東北」と呼ばれていた被災地には、未だに日本の良俗「羞恥文化」が残っていた・・・、という事だろう。
今年の漢字は「絆」である。日本人全体の「心の繋がり」と世界中の人々との「絆」を願って選ばれた漢字が、被災地の「ガレキ処理」受け入れで破綻を来たしている。口では、心の絆で被災地を支援しよう、と述べていた人たちが、自分たちが住む環境に「ガレキ処理」の依頼が来ると「反対運動」を起こしているのだ。「奇麗ごと」は口先だけの方便で、自分たちの身に降りかかる風評被害だけは避けたい、という利己心の現れであろう。これも「羞恥心」の欠如というべきか・・・。
現在、福井県にある大飯原発再稼動について、枝野産経相と橋下市長の論争が繰り返されている。全国にある50基の原発の内、稼働中はたったの一基のみ。膨大な政府資金と政府交付金をつぎ込んで次々と建設してきた原発であるが、安全性の問題、定期検査とストレステストで49基が稼動停止中。その内の一基が大飯原発である。これが再稼動出来ないとなると、政府主導で推し進めてきた「原発優先の電源政策」の失敗が公にならざるを得ない。産経相は「火力発電」への転換を図ると3兆円のコスト高になると云ってるらしい。しかし、膨大な「原発交付金」は、停止中の原発と周辺自治体にも支払いが続いているが、この支給を停止した場合のバランスは公表していない。原発再稼動は、完全停止によって政府が受けるはずの過去の「原発依存政策」への批判から逃れるための「詭弁」としか思えないし、火力以外の「安全な発電」への研究を怠ってきた歴代政府への責任追及の恐れもある。これも「無恥の行為」と云わざるを得ない。国家大計を立てずに後手ゴテの「あと始末」に終始した政府と官僚たちの失策が現状を招いているとしか思えない。
先日、アメリカで石原都知事が、「尖閣諸島を東京都が買い取る・・・」と宣言した。理由は、中国のあくなき「海洋覇権」への食指と攻勢に日本政府が対抗措置を取らないことに業を煮やした結果であったらしい。小筆も大賛成である。領海侵犯の中国漁船、巡視艇に体当たりまでした船長を起訴もせずに釈放させた民主党政権、中国の海洋調査船の度々の領海侵犯、と自国領海と主張する中国巡視船の眼に余る行動を黙視続けてきた歴代日本政府の不甲斐無さには、全国民が辟易していたところである。東京都は、小笠原諸島、硫黄島、鳥島、等々の僻地諸島を「都内」としている。それに新しく尖閣諸島が加わっても、何ら支障はないはずである。都知事の発言は、日本全国から支持された。それに慌てた官房長官が「政府が買うのも選択肢だ」と宣った。こんな恥ずかしい発言を平気でするのを「恥知らず」と云うことも知らないらしい。このように日本全国が「無羞恥行為」で溢れている現実を憂うのは小筆だけではないはずだ。
明後日26日には、小沢一郎へ「東京地裁判決」が出される。果たして「判決は如何に・・・」、ここにも「羞恥心を亡失」した御仁がいた。シドニーは秋、涼しくはなったが、例年になく降雨続き・・・、澄み切った秋空が懐かしい・・・。
小筆、豪洲太朗への連絡は、kentokura@hotmail.com へ、Blog 通覧は、yahoo で「豪洲太朗のシドニー通信」を検索して下され。
2012年3月9日金曜日
Blog-(28), 「倫理亡失の日本社会」
Blog-(28)
9-3-2012
「倫理亡失の日本社会」
ほんの4、50年前までの日本では、「そんな事は人倫に悖る・・・」とか「そんな事をしたら他人様に笑われる・・・」、「お天道様に顔向けできない・・・」或いは「そんな恥ずかしい事が出来るか・・・」等の言葉が、よく日常会話に出ていた。日本の古き良き伝統で、自分の行動を「他人の眼」で見て自己規制をする習慣が一般社会に浸透していたからである。この道徳律に基づいて「自己規制」する生活習慣が「不道徳な犯罪」を未然に防いでいたのだと思っている。この社会常識は、封建時代以前から培われていた日本古来の神道精神に加えて、多分に儒教思想が加わった伝来仏教の教えが合わさって日本独特の「倫理観」を形作り、民間に自然伝承したものであった。
この倫理観は、明治維新以降、終戦まで、学校教育に「修身科目」として取り込まれて、児童たちの公徳心の涵養と共に、一般の「社会規範」として機能していた。従って、すべての日本人が「何らかの形」で社会共通の「自己規範」を身に付けていたから、貧しいながらも「人情味豊か」で「安泰な」社会生活が営まれていたのだと思う。
しかし最近では、このような言葉を発する日本人がいなくなったのみならず、死語にさえなったのか、殆ど聞かれなくなった。戦後、学校で「修身科目」が教えられなくなったからであろう。先日、「公民」の教科書を見たが、所謂「公徳精神」の教えは無く、社会全般の極一部に辛うじて「家族関係」の重要性が無機的に述べてあるだけであった。現代の学校制度が「道徳教育」を無視している証拠であろう。戦後教育の最大欠陥は、「修身」教育の廃止による国民道徳の荒廃である。
その結果と云うべきであろうが、信じられないような理不尽な事件が続いている。その最悪で、最も卑劣なケースが、身寄りのない老人を対象にした「振り込め詐欺」である。孤独に苛むお年寄りの弱みに付け込んで「金を騙し取る」などは、人間として最低の犯罪である。それに加えて、か弱き「幼児虐待」事件がある。いたけない無抵抗の幼児に暴力を振るう、想像しただけで身震いがするほどおぞましい行為を平然とする大人の存在。或いは自己本位の「モンスター・ピアレント」が学校に押しかけて、教師に無理難題をごり押しする、等々、すべて抵抗できない社会の弱者に対する犯罪である。以前は、お年よりや子供たちは、「社会全体で守ってあげる」存在であり、自分の個人的要求は「分をわきまえて」謙虚に、そして控えめにするものであった。
それにも増して最近頻発している企業ぐるみの事件がある。小は、レストランの「残り物」の使いまわし、「食肉偽称」、ビル建築の「強度偽装」、「インサイダー取引」、等々で、身勝手極まりない仕業である。大手ではオリンパス、大同製紙、マルチ商法、AJT事件と天下り厚生官僚の関与、東電原発事故後、明るみになった下請け企業、酷使の実態と、自分たちの過失で起こした大事故による損失を、電気料金の値上げで補うと発表したケースのように、「自らの過失」で発生した損害を被災者である一般市民に転嫁し、損害額を肩代わりさせる、という浅ましく、無責任極まりない姿勢である。これら一連の事件の頻発で、どのテレビニュースを見ても、毎日誰かが頭を下げて謝罪しているのが実情である。
これら上に、国会と中央省庁の醜態がある。昨年、最高裁は、「一票格差」を違憲と判決したが、両議院はこの判決を一年間も放置したまま平気な顔をしていた。これは、彼ら衆参両議員たちの「憲法」と「三権分立」に対する根本認識の欠如であり、議員資格の欠落である。国政を審議するのが職務であり、義務であるはずの議員たちが、政党間の主義主張の相違で「審議拒否」をするために、審議が膠着して全く進展していないのに、臆面もなく、歳費と政党助成金だけは貪っている永田町族の浅ましい姿に通じている。
中央省庁の官僚は、国家と国民に尽くすべく雇われた「公僕」のはずである。しかるに、官僚の本分を忘れて、「手抜き目的」の行政法人を乱立させた上に、お互いの「縄張り争い」と利己的な「天下り」を国益に優先させ、「省益目的」のため行政まで歪曲させている。
これらの行為すべての原因は、自分の職責に対する「誇りと義務感」の欠如であり、彼らの精神の根底に流れているのが、人間としての「倫理感」と「責任感」の亡失が原因である。このような現象が出現し続けている現代の日本社会は、国民全体が共有すべき「道徳律」が失われた結果であり、日本社会の将来にとって、これほど重大な危機はない。
これらの事件に関する詳細は、その都度マスコミで報道はされているが、「何故、こんな事件が起こるようになったのか・・・」と云う「日本社会の根源」に触れた記事に出会ったことがない。日本の将来に関する由々しき大問題であるから、今回はこの問題について私見を述べる。
日本以外のほとんどの国が、何らかの宗教を「国教」として定め、その教典を生活規範として日常生活を営んでいる。仏教、イスラム、ヒンドー、カソリック、キリスト教、正教系、その他、諸々の原始宗教、等々、大小無数の宗教グループが「民族単位」、「国家単位」で存在しているが、その各々が、国内法と、独自の教理の両方に従って生活しているために、社会全般の均一性が保たれている。国民のすべてが、「同質」の思考と生活規範を共有しているために、精神的にも非常に安定した社会を構成している。
しかし日本の場合はどうであろうか? もちろん、一部には熱心な信者がいて、彼ら自身の宗教コードに従って日常生活を律してはいるが、その比率は世界水準に比べるとゼロに近い。日本民族が「無宗教」と云われている所以であろう。こと宗教に関しては、日本人ほど「大らかな」というか「無関心」な民族は珍しい。
古来、日本には、自然信仰の「八百万の神」がいて、太陽信仰の神道があり、幾多の仏教系列と新参のキリスト教系、その上に新興宗教まであり、一見「多神教国家」に似ているが、他国からは「無神論国家」と見られている。理由は、例えば、我々の日常生活において、新生児の誕生に際しては「初詣」とそれに続く「七五三」でお宮参り、お寺で「法事」、「クリスマス」を祝い、「神前結婚式」を挙げて、死んだら「お寺」で葬式をした後、お墓に祀られる。中には、神前結婚式の後、外国へ新婚旅行に行って、再度「教会」で挙式するカップルさえいる。その上で、念入りにも「成田離婚」まで用意されている。このような状態であるから、宗教が日本人の「生活規範」になりえない。そんな理由から、歴史的に日本独自の「道徳規範」が自然発生して「社会生活」の潤滑油として機能し続づけてきたのだと思う。
それが敗戦により「修身教育」が廃止されたのみならず、子供たちが囲炉裏や火鉢を囲みながら祖父母から聞かされた「躾」や「身嗜み」或いは「公徳心」の話が、自然に人格養成に役立っていた。それらが核家族化や修身教育の廃止によって、日本人が寄って立つべき、共通の社会規範が消失してしまったと云えよう。
オーストラリアの国教は、Anglican, 英国教会で、国勢調査によると人口の70% 近くが「アングリカン」と答えているそうだ。その次がカソリックで、その他の宗教は中近東からの移民たちが持ち込んだイスラム教が目に付く程度である。従って、国民の大半は、大なり小なり「新約聖書」が規範している規律の影響を受けて生きている。小筆は、三十才の時、香港のバプチスト教会で洗礼を受けたクリスチャンであるから、自覚はしていないが、日常生活も多分にバイブルの規範に制約されているのではないか、と思っている。従って、オーストラリア人たちとも、多分に共有している「生活規範」があるために、あまり日常生活での違和感はない。今では、むしろ日本人との思考の偏差に驚く機会が多いいために、想定思考との誤差、つまり日常生活における「常識的行動」の差異に戸惑うことが多々ある。
戦後日本人は、軍国主義に懲りた占領軍の政策で「寄ってたつべき」道徳規範を亡失した。その結果、道徳心のみならず、国内、国外で「共同生活」をするのに必要な「社会共通の生活規範」まで失ってしまった。国旗掲揚、国歌斉唱の意味が分からない教師たちの存在が、その典型である。「日本再生」の第一歩は、「教育再生」であり、国民意識の改革から始めなければならない。現、永田町族の見識では、当然無理である。小筆、豪洲太朗が「維新の会」、「石原新党」に期待する理由がお判り戴けたと思う。
豪州の気候、近年変調を来たしているが、地震を憂う日本へ19日から三週間弱訪問。発鰹と冷酒、それに「桜見物」が楽しみだ。その間、連絡は090-3008-7549.か、メールはkentokura@hotmail.com へ、「豪洲太朗のシドニー通信」もご通覧を請う。
9-3-2012
「倫理亡失の日本社会」
ほんの4、50年前までの日本では、「そんな事は人倫に悖る・・・」とか「そんな事をしたら他人様に笑われる・・・」、「お天道様に顔向けできない・・・」或いは「そんな恥ずかしい事が出来るか・・・」等の言葉が、よく日常会話に出ていた。日本の古き良き伝統で、自分の行動を「他人の眼」で見て自己規制をする習慣が一般社会に浸透していたからである。この道徳律に基づいて「自己規制」する生活習慣が「不道徳な犯罪」を未然に防いでいたのだと思っている。この社会常識は、封建時代以前から培われていた日本古来の神道精神に加えて、多分に儒教思想が加わった伝来仏教の教えが合わさって日本独特の「倫理観」を形作り、民間に自然伝承したものであった。
この倫理観は、明治維新以降、終戦まで、学校教育に「修身科目」として取り込まれて、児童たちの公徳心の涵養と共に、一般の「社会規範」として機能していた。従って、すべての日本人が「何らかの形」で社会共通の「自己規範」を身に付けていたから、貧しいながらも「人情味豊か」で「安泰な」社会生活が営まれていたのだと思う。
しかし最近では、このような言葉を発する日本人がいなくなったのみならず、死語にさえなったのか、殆ど聞かれなくなった。戦後、学校で「修身科目」が教えられなくなったからであろう。先日、「公民」の教科書を見たが、所謂「公徳精神」の教えは無く、社会全般の極一部に辛うじて「家族関係」の重要性が無機的に述べてあるだけであった。現代の学校制度が「道徳教育」を無視している証拠であろう。戦後教育の最大欠陥は、「修身」教育の廃止による国民道徳の荒廃である。
その結果と云うべきであろうが、信じられないような理不尽な事件が続いている。その最悪で、最も卑劣なケースが、身寄りのない老人を対象にした「振り込め詐欺」である。孤独に苛むお年寄りの弱みに付け込んで「金を騙し取る」などは、人間として最低の犯罪である。それに加えて、か弱き「幼児虐待」事件がある。いたけない無抵抗の幼児に暴力を振るう、想像しただけで身震いがするほどおぞましい行為を平然とする大人の存在。或いは自己本位の「モンスター・ピアレント」が学校に押しかけて、教師に無理難題をごり押しする、等々、すべて抵抗できない社会の弱者に対する犯罪である。以前は、お年よりや子供たちは、「社会全体で守ってあげる」存在であり、自分の個人的要求は「分をわきまえて」謙虚に、そして控えめにするものであった。
それにも増して最近頻発している企業ぐるみの事件がある。小は、レストランの「残り物」の使いまわし、「食肉偽称」、ビル建築の「強度偽装」、「インサイダー取引」、等々で、身勝手極まりない仕業である。大手ではオリンパス、大同製紙、マルチ商法、AJT事件と天下り厚生官僚の関与、東電原発事故後、明るみになった下請け企業、酷使の実態と、自分たちの過失で起こした大事故による損失を、電気料金の値上げで補うと発表したケースのように、「自らの過失」で発生した損害を被災者である一般市民に転嫁し、損害額を肩代わりさせる、という浅ましく、無責任極まりない姿勢である。これら一連の事件の頻発で、どのテレビニュースを見ても、毎日誰かが頭を下げて謝罪しているのが実情である。
これら上に、国会と中央省庁の醜態がある。昨年、最高裁は、「一票格差」を違憲と判決したが、両議院はこの判決を一年間も放置したまま平気な顔をしていた。これは、彼ら衆参両議員たちの「憲法」と「三権分立」に対する根本認識の欠如であり、議員資格の欠落である。国政を審議するのが職務であり、義務であるはずの議員たちが、政党間の主義主張の相違で「審議拒否」をするために、審議が膠着して全く進展していないのに、臆面もなく、歳費と政党助成金だけは貪っている永田町族の浅ましい姿に通じている。
中央省庁の官僚は、国家と国民に尽くすべく雇われた「公僕」のはずである。しかるに、官僚の本分を忘れて、「手抜き目的」の行政法人を乱立させた上に、お互いの「縄張り争い」と利己的な「天下り」を国益に優先させ、「省益目的」のため行政まで歪曲させている。
これらの行為すべての原因は、自分の職責に対する「誇りと義務感」の欠如であり、彼らの精神の根底に流れているのが、人間としての「倫理感」と「責任感」の亡失が原因である。このような現象が出現し続けている現代の日本社会は、国民全体が共有すべき「道徳律」が失われた結果であり、日本社会の将来にとって、これほど重大な危機はない。
これらの事件に関する詳細は、その都度マスコミで報道はされているが、「何故、こんな事件が起こるようになったのか・・・」と云う「日本社会の根源」に触れた記事に出会ったことがない。日本の将来に関する由々しき大問題であるから、今回はこの問題について私見を述べる。
日本以外のほとんどの国が、何らかの宗教を「国教」として定め、その教典を生活規範として日常生活を営んでいる。仏教、イスラム、ヒンドー、カソリック、キリスト教、正教系、その他、諸々の原始宗教、等々、大小無数の宗教グループが「民族単位」、「国家単位」で存在しているが、その各々が、国内法と、独自の教理の両方に従って生活しているために、社会全般の均一性が保たれている。国民のすべてが、「同質」の思考と生活規範を共有しているために、精神的にも非常に安定した社会を構成している。
しかし日本の場合はどうであろうか? もちろん、一部には熱心な信者がいて、彼ら自身の宗教コードに従って日常生活を律してはいるが、その比率は世界水準に比べるとゼロに近い。日本民族が「無宗教」と云われている所以であろう。こと宗教に関しては、日本人ほど「大らかな」というか「無関心」な民族は珍しい。
古来、日本には、自然信仰の「八百万の神」がいて、太陽信仰の神道があり、幾多の仏教系列と新参のキリスト教系、その上に新興宗教まであり、一見「多神教国家」に似ているが、他国からは「無神論国家」と見られている。理由は、例えば、我々の日常生活において、新生児の誕生に際しては「初詣」とそれに続く「七五三」でお宮参り、お寺で「法事」、「クリスマス」を祝い、「神前結婚式」を挙げて、死んだら「お寺」で葬式をした後、お墓に祀られる。中には、神前結婚式の後、外国へ新婚旅行に行って、再度「教会」で挙式するカップルさえいる。その上で、念入りにも「成田離婚」まで用意されている。このような状態であるから、宗教が日本人の「生活規範」になりえない。そんな理由から、歴史的に日本独自の「道徳規範」が自然発生して「社会生活」の潤滑油として機能し続づけてきたのだと思う。
それが敗戦により「修身教育」が廃止されたのみならず、子供たちが囲炉裏や火鉢を囲みながら祖父母から聞かされた「躾」や「身嗜み」或いは「公徳心」の話が、自然に人格養成に役立っていた。それらが核家族化や修身教育の廃止によって、日本人が寄って立つべき、共通の社会規範が消失してしまったと云えよう。
オーストラリアの国教は、Anglican, 英国教会で、国勢調査によると人口の70% 近くが「アングリカン」と答えているそうだ。その次がカソリックで、その他の宗教は中近東からの移民たちが持ち込んだイスラム教が目に付く程度である。従って、国民の大半は、大なり小なり「新約聖書」が規範している規律の影響を受けて生きている。小筆は、三十才の時、香港のバプチスト教会で洗礼を受けたクリスチャンであるから、自覚はしていないが、日常生活も多分にバイブルの規範に制約されているのではないか、と思っている。従って、オーストラリア人たちとも、多分に共有している「生活規範」があるために、あまり日常生活での違和感はない。今では、むしろ日本人との思考の偏差に驚く機会が多いいために、想定思考との誤差、つまり日常生活における「常識的行動」の差異に戸惑うことが多々ある。
戦後日本人は、軍国主義に懲りた占領軍の政策で「寄ってたつべき」道徳規範を亡失した。その結果、道徳心のみならず、国内、国外で「共同生活」をするのに必要な「社会共通の生活規範」まで失ってしまった。国旗掲揚、国歌斉唱の意味が分からない教師たちの存在が、その典型である。「日本再生」の第一歩は、「教育再生」であり、国民意識の改革から始めなければならない。現、永田町族の見識では、当然無理である。小筆、豪洲太朗が「維新の会」、「石原新党」に期待する理由がお判り戴けたと思う。
豪州の気候、近年変調を来たしているが、地震を憂う日本へ19日から三週間弱訪問。発鰹と冷酒、それに「桜見物」が楽しみだ。その間、連絡は090-3008-7549.か、メールはkentokura@hotmail.com へ、「豪洲太朗のシドニー通信」もご通覧を請う。
2012年2月2日木曜日
「平成維新、到来!!」
Blog-(27)
1-2-2012
「平成維新、到来!!」
先日、「石原新党」結成にご本人自身が本気になったようだ。関西の「大阪維新の会」の橋下、松井連合、中京地区の河村市長と大村知事、等々が、政界改革に動きだせば、各地の「若い知事」たちも、間違いなく同調して「地方連合体」として動き出す可能性が出てきた。
彼らが共同戦線、小筆の仮称「平成新党」を立ち上げれば、55体制以来続いている、国益無視、大計不在、目標不明の「政治の混迷」に新風を吹き込んでくれる事は間違いない。恐らく「平成新党」の登場によって、現下の既存政党は、国政のみならず地方も含めたすべての選挙で大敗して、ほぼ全議席を失うはずであるから、「平成新党」の「政権奪取」も夢ではない。
この「平成新党」の政策目標は、「首相公選」と「道州制」導入(小筆のBlog-19を参照されたし) 、と「憲法改正」を「キィ・ワード」にして、すでに都知事が公表している、「国を守る」、「小さな政府」と「中福祉」、「デフレ克服」、「貿易立国」、「国民の意識改革と教育行政の改革」、参議院を廃止して「一院制」を採用する、等々を掲げ、これに、参院廃止の代わりに立法に関して、憲法への合憲性のみを審議する「憲法審査院」を併設して、疑問点のある「法律案件」が生じた時にのみ、衆議院が指名する学識経験者だけを招集して審議する、と付則すれば完璧になる。石原都知事が公表した政治目標は、「国政の常識」であり、決して特別なものではない。
従って、大阪維新の会の掲げる「公約」とも、中京連合の「減税」とも、地方連合体が間違いなく掲げる「地方への権限委譲」とも合致して、共同戦線が成立する可能性があり、「平成新党」は、一大勢力となって「平成の大改革」が可能になる。
政治には「時勢」と云うものが強烈に影響するものである。民主党の「政権奪取」時の例が示すように、有権者はその「時勢」に惑わされて「民主党の実態」が読めなかったので支持した。しかし今度の「平成新党」には、石原新党に属する、経験豊かで常識的な「老人連合」が付いているので心配はない。当分の間は、「時代の勢い」と国民すべてからの政権信託への「熱望」によって「政権支持」が続くはずである。それに反して、民主党の例を見るまでもなく、すべての既存の政党は、すでに国民の信望を失って退潮期に入っているので、あらゆる選挙において勝ち目が見えず、「平成新党」の必勝は確実である。
戦後、占領軍下で作られた現行憲法は、日本国民の意思を反映していないから、多くの「不都合」を包摂している。しかし、憲法改正には、衆参両議員の三分の二以上の賛成で発議する必要がある。従って「平成新党」が、次回の衆議院選挙を「憲法改正」を旗印にして候補者を立てて、480議席の内317議席以上を獲得して、次の参院選で160議席獲得すれば、憲法改正の「発議」が可能になる。その上で、首相公選、道州制導入、一院制のみならず、議員定数削減、歳費改定、消費税漸増、等々を掲げた「憲法改正案」を国民投票に掛ければ、国民の過半数以上が必ず賛成して「平成改革」が断行できる。物事には「勢い」があり、その勢いに乗って、一挙に改革を押し進めるのが日本のためである。
想えば、明治維新は、薩長土肥、すべて「地方政府」の下級藩士が、「自浄能力」を失った「世襲の殿様」や「家老」たちを突き上げて為した偉大な政変であった。太平洋戦争では、軍閥政権が行き詰まり「終戦」の決定さえも出来なかったものを昭和天皇の聖断によって「戦争終結」が実現し、占領軍によって「昭和維新」が成し遂げられて、日本の戦後政治が始まった。戦後続いた政党政権も同様な過程を経て、すでに「自浄能力」を失ったから、機能しなくなったのである。
昭和二十年八月、日本全土は米軍の空爆によって、まさに「灰燼の中」にあった。それを、対米戦で辛うじて生き長らえて生還した青年たちの必死の努力で「戦後復興」がなった。その必死の努力の成果を、「団塊の世代」とその子供たちが「喰い散らかして」今日の日本を作ってしまった。その「甘えの構造」の典型が、現在の衆参両議院議員たちの「無責任さ」と「驕り」、官僚たちの「無節操さ」で象徴されている。国政の舵取りをすべき国会議員たちが、自分の票田である「選挙民」に媚を売り続けた結果が、現在の何ともしがたい「財政赤字」を生み、毎年の歳入を遥かに上回る歳出で「自分の票田」を買い続けて来たのである。数年を経ずして、くるくる代わる首相と閣僚たちの「低質性」に呆れ果てた官僚たちが、政府の方針に関係なく、仲間内で「ざる法」にまとめて「政治の舵取り」をしてきているのも、彼らの偏向した「憂国の情」の発露でもあったはずだ。
戦後の議会政治が、本来あるべき姿で機能していると思い、彼らに「何か」を期待している国民は一人もいない上に、「選ぶべき政党と候補者がいない」、そんな無益な政治が過去20年以上も続いてきた。その当然の結果が、今日の膨大な財政赤字とデフレ経済、円高不況、輸出の低下、外国からの低評価、等々、すべての「日本国の機能」が完全に劣化し続けてきた原因である。要するに、現在の日本には、日本の将来を考えて「国政を思索する」政治家がいないのである。国会での彼らの仕事は、与党批判、他党の揚げ足を取る事と自己温存、付和雷同して離合集散を繰り返しているだけである。今回の「石原新党」の決断と「維新の会」と「中京連合」の行動力が巻き起こした新風が、現国会の「機能低下」に辟易していた全国民から大歓迎をされているは当然の結果である。
戦後の55年体制の崩壊が始まっていた「末期症状」の日本に、やっと平成の「神風」が吹き始めたのである。「歴史の変革は、地方から始まる・・・」、明治維新の例を見るまでもなく、これが歴史の常識である。大阪、東京、名古屋、そして多分、仙台、新潟、四国、九州とこの「国政改革」の波紋は時と共に波及して、次期「衆院選」で頂点に達するはずである。その選挙によって、民主、自民、公明、その他諸々の弱小政党がすべて淘汰されて、石原新党、維新の会、第三勢力になるはずの「地方政治連合」を中核とした全く新しい「平成新党」がリードする「新生日本」が誕生して、新鮮で全うな平成日本の「政治運営」が始まるはずで、その原動力になるのが、石原新党と維新の会である。
現在の日本には、潜在的だが膨大な「国内資源」が眠っている。その一つは、世界でも類を見ない「高高度の工業技術力」、すなわち「人的資源」である。それに加えて、未開拓の「エネルギー源」である「潮力利用」と「深深海資源開発」、特に何処の国にも手がつけられないほど困難な「潮力発電装置」と「深海採掘装置」の技術開発があり、その上に「兵器輸出の解禁」も加えられる。大手の企業は、自力で国際市場に出て行けるが、中小企業にはその力がない。この潜在力を海外市場に伸ばすことを「国策」として支援すれば、現在の「不況」のかなりの部分が解消されるはずである。日本が持っている世界的な最高水準の技術が充分に「生かされてない」のが現状である。これらの潜在力を精査して伸ばしてゆけば、現状の経済不況のかなりの部分が解消されるはずである。
そして、国家最大の危機である「財政赤字」の解消も、新政府で解決可能である。「小さな政府」は、国会議員の定員大削減、参院の廃止と学識経験者への依頼で成り立つ「憲法審査院」の設置で、少なくとも現行議員242名、32パーセント以上の議員数削減になり、参院維持費の大幅削減が可能である。そして「道州制」の導入は、地方行政府の統廃合と共に膨大な人件費の削減に繋がり、各本省の地方事務所の解消と悪名高い「独立行政法人」の統合、廃止も可能になり、大きな経費削減を生み出すことになるはずである。その上で、教育制度の改定により「日本を愛する国民」を育てることだ。軍拡を続ける中国、無理難題をごり押しする朝鮮半島、いつ暴発するか分からない隣国ロシア、日本を取り巻く「国際環境」は決して安易なものではない。その危機感と認識を失くした日本国民を育てたのは、米政府の意向を汲んだ「戦後教育」であった。世界的に観ても「高高度な民度」を保っている日本国民の最大の欠陥は「国防意識」の欠如である。戦前の「軍閥政治」のトラウマが原因で、戦後の日本人は、「国民の義務」である「国を守る」という基本的な意識と責任感まで亡失してしまった。これを取り戻せるのは「教育」しかないし、それを早急に取り戻すことは、「国の責任」であり「国家の義務」でもある。
新党、維新、中京連合、そして地方連合の指導者たちよ、是非、小異を捨てて大同につき、日本の未来のために「平成新党」を実現して頑張ってくれ、老人連合、「石原新党」の賞味期限は長くて七年、その後は、若い諸君たちの世界だ。今、「日本再生」を期待出来るのは君たちしかいないのだから・・・。
今年のオーストラリアの夏は、涼しすぎて「変調」である。しかし小筆の心は、石原新党と維新の会への期待で大いに燃え上がっている。まだ一ヶ月先の事ではあるが、三月九日から三週間訪日する。それまでに、彼らの「平成新党」が機能し始めることを祈っている。
訪日期間中のコンタクトは、携帯電話、090-3008-7549、豪洲太朗宛、
ブログの通覧は、yahoo の「豪洲太朗のシドニー通信」か http://goushutaro.blogspot.com/
小筆のメールは、kentokura@hotmail.com
1-2-2012
「平成維新、到来!!」
先日、「石原新党」結成にご本人自身が本気になったようだ。関西の「大阪維新の会」の橋下、松井連合、中京地区の河村市長と大村知事、等々が、政界改革に動きだせば、各地の「若い知事」たちも、間違いなく同調して「地方連合体」として動き出す可能性が出てきた。
彼らが共同戦線、小筆の仮称「平成新党」を立ち上げれば、55体制以来続いている、国益無視、大計不在、目標不明の「政治の混迷」に新風を吹き込んでくれる事は間違いない。恐らく「平成新党」の登場によって、現下の既存政党は、国政のみならず地方も含めたすべての選挙で大敗して、ほぼ全議席を失うはずであるから、「平成新党」の「政権奪取」も夢ではない。
この「平成新党」の政策目標は、「首相公選」と「道州制」導入(小筆のBlog-19を参照されたし) 、と「憲法改正」を「キィ・ワード」にして、すでに都知事が公表している、「国を守る」、「小さな政府」と「中福祉」、「デフレ克服」、「貿易立国」、「国民の意識改革と教育行政の改革」、参議院を廃止して「一院制」を採用する、等々を掲げ、これに、参院廃止の代わりに立法に関して、憲法への合憲性のみを審議する「憲法審査院」を併設して、疑問点のある「法律案件」が生じた時にのみ、衆議院が指名する学識経験者だけを招集して審議する、と付則すれば完璧になる。石原都知事が公表した政治目標は、「国政の常識」であり、決して特別なものではない。
従って、大阪維新の会の掲げる「公約」とも、中京連合の「減税」とも、地方連合体が間違いなく掲げる「地方への権限委譲」とも合致して、共同戦線が成立する可能性があり、「平成新党」は、一大勢力となって「平成の大改革」が可能になる。
政治には「時勢」と云うものが強烈に影響するものである。民主党の「政権奪取」時の例が示すように、有権者はその「時勢」に惑わされて「民主党の実態」が読めなかったので支持した。しかし今度の「平成新党」には、石原新党に属する、経験豊かで常識的な「老人連合」が付いているので心配はない。当分の間は、「時代の勢い」と国民すべてからの政権信託への「熱望」によって「政権支持」が続くはずである。それに反して、民主党の例を見るまでもなく、すべての既存の政党は、すでに国民の信望を失って退潮期に入っているので、あらゆる選挙において勝ち目が見えず、「平成新党」の必勝は確実である。
戦後、占領軍下で作られた現行憲法は、日本国民の意思を反映していないから、多くの「不都合」を包摂している。しかし、憲法改正には、衆参両議員の三分の二以上の賛成で発議する必要がある。従って「平成新党」が、次回の衆議院選挙を「憲法改正」を旗印にして候補者を立てて、480議席の内317議席以上を獲得して、次の参院選で160議席獲得すれば、憲法改正の「発議」が可能になる。その上で、首相公選、道州制導入、一院制のみならず、議員定数削減、歳費改定、消費税漸増、等々を掲げた「憲法改正案」を国民投票に掛ければ、国民の過半数以上が必ず賛成して「平成改革」が断行できる。物事には「勢い」があり、その勢いに乗って、一挙に改革を押し進めるのが日本のためである。
想えば、明治維新は、薩長土肥、すべて「地方政府」の下級藩士が、「自浄能力」を失った「世襲の殿様」や「家老」たちを突き上げて為した偉大な政変であった。太平洋戦争では、軍閥政権が行き詰まり「終戦」の決定さえも出来なかったものを昭和天皇の聖断によって「戦争終結」が実現し、占領軍によって「昭和維新」が成し遂げられて、日本の戦後政治が始まった。戦後続いた政党政権も同様な過程を経て、すでに「自浄能力」を失ったから、機能しなくなったのである。
昭和二十年八月、日本全土は米軍の空爆によって、まさに「灰燼の中」にあった。それを、対米戦で辛うじて生き長らえて生還した青年たちの必死の努力で「戦後復興」がなった。その必死の努力の成果を、「団塊の世代」とその子供たちが「喰い散らかして」今日の日本を作ってしまった。その「甘えの構造」の典型が、現在の衆参両議院議員たちの「無責任さ」と「驕り」、官僚たちの「無節操さ」で象徴されている。国政の舵取りをすべき国会議員たちが、自分の票田である「選挙民」に媚を売り続けた結果が、現在の何ともしがたい「財政赤字」を生み、毎年の歳入を遥かに上回る歳出で「自分の票田」を買い続けて来たのである。数年を経ずして、くるくる代わる首相と閣僚たちの「低質性」に呆れ果てた官僚たちが、政府の方針に関係なく、仲間内で「ざる法」にまとめて「政治の舵取り」をしてきているのも、彼らの偏向した「憂国の情」の発露でもあったはずだ。
戦後の議会政治が、本来あるべき姿で機能していると思い、彼らに「何か」を期待している国民は一人もいない上に、「選ぶべき政党と候補者がいない」、そんな無益な政治が過去20年以上も続いてきた。その当然の結果が、今日の膨大な財政赤字とデフレ経済、円高不況、輸出の低下、外国からの低評価、等々、すべての「日本国の機能」が完全に劣化し続けてきた原因である。要するに、現在の日本には、日本の将来を考えて「国政を思索する」政治家がいないのである。国会での彼らの仕事は、与党批判、他党の揚げ足を取る事と自己温存、付和雷同して離合集散を繰り返しているだけである。今回の「石原新党」の決断と「維新の会」と「中京連合」の行動力が巻き起こした新風が、現国会の「機能低下」に辟易していた全国民から大歓迎をされているは当然の結果である。
戦後の55年体制の崩壊が始まっていた「末期症状」の日本に、やっと平成の「神風」が吹き始めたのである。「歴史の変革は、地方から始まる・・・」、明治維新の例を見るまでもなく、これが歴史の常識である。大阪、東京、名古屋、そして多分、仙台、新潟、四国、九州とこの「国政改革」の波紋は時と共に波及して、次期「衆院選」で頂点に達するはずである。その選挙によって、民主、自民、公明、その他諸々の弱小政党がすべて淘汰されて、石原新党、維新の会、第三勢力になるはずの「地方政治連合」を中核とした全く新しい「平成新党」がリードする「新生日本」が誕生して、新鮮で全うな平成日本の「政治運営」が始まるはずで、その原動力になるのが、石原新党と維新の会である。
現在の日本には、潜在的だが膨大な「国内資源」が眠っている。その一つは、世界でも類を見ない「高高度の工業技術力」、すなわち「人的資源」である。それに加えて、未開拓の「エネルギー源」である「潮力利用」と「深深海資源開発」、特に何処の国にも手がつけられないほど困難な「潮力発電装置」と「深海採掘装置」の技術開発があり、その上に「兵器輸出の解禁」も加えられる。大手の企業は、自力で国際市場に出て行けるが、中小企業にはその力がない。この潜在力を海外市場に伸ばすことを「国策」として支援すれば、現在の「不況」のかなりの部分が解消されるはずである。日本が持っている世界的な最高水準の技術が充分に「生かされてない」のが現状である。これらの潜在力を精査して伸ばしてゆけば、現状の経済不況のかなりの部分が解消されるはずである。
そして、国家最大の危機である「財政赤字」の解消も、新政府で解決可能である。「小さな政府」は、国会議員の定員大削減、参院の廃止と学識経験者への依頼で成り立つ「憲法審査院」の設置で、少なくとも現行議員242名、32パーセント以上の議員数削減になり、参院維持費の大幅削減が可能である。そして「道州制」の導入は、地方行政府の統廃合と共に膨大な人件費の削減に繋がり、各本省の地方事務所の解消と悪名高い「独立行政法人」の統合、廃止も可能になり、大きな経費削減を生み出すことになるはずである。その上で、教育制度の改定により「日本を愛する国民」を育てることだ。軍拡を続ける中国、無理難題をごり押しする朝鮮半島、いつ暴発するか分からない隣国ロシア、日本を取り巻く「国際環境」は決して安易なものではない。その危機感と認識を失くした日本国民を育てたのは、米政府の意向を汲んだ「戦後教育」であった。世界的に観ても「高高度な民度」を保っている日本国民の最大の欠陥は「国防意識」の欠如である。戦前の「軍閥政治」のトラウマが原因で、戦後の日本人は、「国民の義務」である「国を守る」という基本的な意識と責任感まで亡失してしまった。これを取り戻せるのは「教育」しかないし、それを早急に取り戻すことは、「国の責任」であり「国家の義務」でもある。
新党、維新、中京連合、そして地方連合の指導者たちよ、是非、小異を捨てて大同につき、日本の未来のために「平成新党」を実現して頑張ってくれ、老人連合、「石原新党」の賞味期限は長くて七年、その後は、若い諸君たちの世界だ。今、「日本再生」を期待出来るのは君たちしかいないのだから・・・。
今年のオーストラリアの夏は、涼しすぎて「変調」である。しかし小筆の心は、石原新党と維新の会への期待で大いに燃え上がっている。まだ一ヶ月先の事ではあるが、三月九日から三週間訪日する。それまでに、彼らの「平成新党」が機能し始めることを祈っている。
訪日期間中のコンタクトは、携帯電話、090-3008-7549、豪洲太朗宛、
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2011年12月31日土曜日
「新年を迎えて」
Blog-(26)
1-1-2012
「新年を迎えて・・・」
皆様、新年おめでとうございます。今年が祖国、日本にとって「より良い一年間」になりますように、心から願っております。
さて、昨年は実に悲しい一年間でした。天災津波に人災原発、無能な総理と閣僚、経済界の無責任、円高不況、それにも増して民主党の瓦解状態と野党の無気力、民主党の選挙公約詐欺、等々、何一つ心に響く「朗報」が聴けなかったのに、「忍耐強い日本国民」は不満の声ひとつ上げなかった。地球全体を覆う「異常気象」、日本全体を覆う「異常政局」、シドニーから眺める「祖国の姿」に何か重大な異変が生じつつあるのではないかと心配し続け、窮極にある日本を救う方法を考え続けた一年でもありました。
平成24年の年頭にあたり、政治に関する明るい「希望」から述べます。
一つ目は、「大阪維新の会」の活躍です。現在日本の政党政治は全く機能せず、すでに末期的症状を呈していて、日本の政治を崩壊状態にしています。これは、民主党だけの責任ではなく戦後の「政党政治」の失敗の累積から来ています。その中で、70%近くも占めている二世、三世議員たちの無能さに加えて、彼らと特定利益グループの後援候補しか当選できない選挙制度に欠陥があります。そんな「政治的逼塞状態」の中で、先日の「都構想」を掲げて勝利した「大阪ダブル選挙」は、まさに幕末の志士活動に匹敵する「歴史的価値」があったと思います。橋下新市長の決断力と行動力は、幕末の坂本竜馬を彷彿させるものがあり、それに刺激された名古屋の河村市長、大村県知事たちの「追従構想」も含めて、日本の地方自治体制へ大変革をもたらすのみならず、必ず「中央政府のあり方」にも波及する可能性を持っております。日本への「道州制」導入は、行政組織の大改革のみならず、国家経営の根本にも大きな変革をもたらす潜在性を秘めています。その上、国の天文学的な借金を減少させ、垂れ流し状態の「赤字財政」を是正する「唯一の可能性」も兼ね備えています。各級レベルの議会、行政組織の統合、合理化と大幅な人員と経費削減、独立行政法人の見直し、等々、現体制では不可能な改革を、この「維新の会」は「国民の支持」のもとに遂行できる可能性があるからです。日本国民は、おとなし過ぎて自主性皆無の付和雷同型、珍しくて新鮮に見える物にすぐ飛びつきます。民主党の時も同様でした。国民は、次回の国政選挙で間違いなく「維新の会公認候補」に投票しますので、「政権奪取」も可能です。あとは、「維新の会」の政策実行能力の問題が残りますが、平成の「竜馬」が新機軸を打ち出して、強力な「舵取り」をすれば、官僚たちは優秀ですから何事でも実現可能です。どちらにしても「駄目もと」で、現今続いている無能内閣よりはマシなはずで、失敗しても「現状より悪く」はならないからです。そんな理由で「維新の会」の国政奪取に絶大なる望みを託しています。
二つ目は、「長老連合」の旗揚げです。「亀の甲より年の劫」、亀井先生の旗振りに同調する政界長老が「揃い踏み」を試みています。これも「政界再編成」の一つの方法です。現体制では、与党も野党も共に政権担当能力も実力も無いから、長い経験を持つ彼ら「長老」の行動が「何かを変える」基点にはなるはずです。ただし、「石原都知事主導」が原則になります。「長老連合」全員がいくら頑張っても、体力的にせいぜい四年間くらいしか持たないはずですから、その間に「次期政権候補」を育てて「本物の育成」を待つのも選択肢の一つです。
三つ目は、「首相公選」を掲げた国民運動を興すことです。旗振りは「維新の会」でも可能です。「アラブの春」ではありませんが「ツィッター」、「フェイスブック」等、若者を動かせる「インターネット」をフル活用して「新しい風」を吹き起こす事です。安保闘争、大学紛争、秋葉原族のように、何か「わけが分からなくても」若者が熱狂出来る「目標」を掲げて「一大運動」を引き起こせばよいのです。そのテーマが「首相公選」です。すべての若者は選挙権を持っています。彼らを惹きつける「首相公選制度実現」を主題に掲げて、付属的に老人受けをする「政治と政策」を提示すれば、現在各党にに分散している平均投票率50%の一部と「浮動票」のすべてが掻っ攫えて、「政権与党」になれます。「維新の会」が乗らなければ、誰か「旗振り候補」になりませんか? 「やる気」と「潔癖さ」を兼備した候補者ならば、アイデアはいくらでも提供します。
さて次は、あまり新年の話題には相応しくない予測です。
「野田政権」は、どちらにしても長く無いでしょう。彼の責任という事ではなくて、民主党自体が、すでに「崩壊」し始めているからです。2009年9月に政権を取ってから2年4ヶ月、彼らの選挙公約は何一つ実現していません。その上、鳩山、菅、野田と三人もの首相と幾人もの閣僚が、世論調査で「不適任」の烙印を押されています。鳩菅両人は自分の党員から引導を渡されました。その他ご存知の閣僚たちも退任寸前状態になっています。民主党には、この程度の人材しか居ないのですから、まして立派な総理大臣候補なぞ、望む方が無理なのです。現在の分裂状態の民主党が、一旦「解散総選挙」に持ち込めば、「民主党の惨敗」は必至ですから、「政権を保持」したまま代表の首を挿げ替えて、新代表で「政権維持」を図るはずですから、衆議院選挙は来年九月まではないと見ています。しかし、党内選挙で「だれが新代表候補になりますか?」、先回の「代表選挙」以上に「小物」選びの「茶番劇」にしかならないはずです。小沢一郎? 彼は多分「有罪」になると思いますし、もし党内で彼の再登場を許したら、国民は「民主党」を完全に見限り、この政党は消滅します。その間、内政、外政ともに「日本の劣化」は益々進行して、「国際的信用」を完全に失い、取り返しのつかない局面にまで突き進む可能性があります。
神聖であるはずの「選挙公約」のすべてが「実現不可能」と判った今、民主党を信用している国民は一人もいないと思います。その上で、公約の議員定数、議員歳費、公務員総人件費の削減もせずに、国民に払わせる「消費税」増率を持ち出している現状を有権者は決して許すはずがありません。だからと云って、民主党に代わって「国政を担って欲しい」既存政党が一つも無いのが「現代日本の悲劇」です。
汚職有罪判決で刑務所の「臭い飯」を喰っていた宗男先生が「仮釈放」でシャバに出てきた途端、何ら反省する様子もなく、「公民権停止中」にも拘わらず、しゃあしゃあと新党結成の旗揚げをしています。国税からの「政党助成金目当て」は明らかです。総額は一億円強、五人で分けても一人二千万円、無職の彼には「助成金様さま」で、新党を立ち上げたはずです。この程度の「倫理観」しか持ち合わせていない人物を選び続けた北海道の選挙民は、今、何を考えているのでしょうか? 一郎先生の公判が今月10日から再開されます。国民のすべてと検察が「有罪」と考えているのに、ご本人は「党員資格停止」中にも拘わらず106人もの民主党議員を傘下に納めて「党内党」作りで政治を壟断しようとしています。民主党は彼が参画して作った政党です。彼は、09年の衆議院選挙で政権奪取をした時の「選挙公約」策定にも参画しているはずです。その公約のすべてが「反故」にされ、国民は民主党の公約詐欺に引っかかったのも同然です。そんな立場の彼が、公判中にも拘わらず「党代表」の首の挿げ替えを画策しているのです。こんな民主党ですから「沈没する船からネズミが逃げ出すように」離党する党員が増えていますし、まだまだ増えるでしよう。野党に取っては「またとないチャンス」のはずですが、誠に残念ながら、このチャンスを生かせる「野党」も「人材」もいません。これは、現代日本の悲劇だとは思いませんか? 小筆が、未熟の「維新の会」や熟れすぎの「長老連合」に期待を寄せざるを得ない理由です。
現在の国会は、「魑魅魍魎の世界」と何ら変わるところがありません。与野党共に、自分たちが「国民を騙している」という感覚がまるでないから、都合の悪いことには頬かむりをして、自分勝手なことだけを平気で実行しているのです。民主党の「選挙公約」違反は、重罪相当の詐欺と同じことです。彼らは、それさえ理解していないのです。「腐敗永田町」の実情がご理解戴けたと思います。
「お目出度い元旦」早々、皆様の心を乱した事をお詫びします。このブログを始めて二年間、26回目の上梓ですが、やはり気になるのは「日本の将来」、その中でも特に「政治環境の悪化」を憂いています。「希望も夢も無い」今日、唯一見つけた光明、それが「維新の会」です。現代の日本では、彼らに頼る以外、何も希望がない・・・。悲しい現実ですが、この「希望の星」に夢を託せることを祈りつつ「お屠蘇」代わりの「白ワイン」で新年を祝います。日本にも皆様にも、佳き一年になりますように・・・。
この「ブログ」シリーズは、http://goushutaro.blogspot.com/ かyahooの「豪州太朗のシドニー通信」で通覧戴けます。 ご意見、質問、ご希望等は、kentokura@hotmail.com 豪洲太朗宛お寄せ下さい。
1-1-2012
「新年を迎えて・・・」
皆様、新年おめでとうございます。今年が祖国、日本にとって「より良い一年間」になりますように、心から願っております。
さて、昨年は実に悲しい一年間でした。天災津波に人災原発、無能な総理と閣僚、経済界の無責任、円高不況、それにも増して民主党の瓦解状態と野党の無気力、民主党の選挙公約詐欺、等々、何一つ心に響く「朗報」が聴けなかったのに、「忍耐強い日本国民」は不満の声ひとつ上げなかった。地球全体を覆う「異常気象」、日本全体を覆う「異常政局」、シドニーから眺める「祖国の姿」に何か重大な異変が生じつつあるのではないかと心配し続け、窮極にある日本を救う方法を考え続けた一年でもありました。
平成24年の年頭にあたり、政治に関する明るい「希望」から述べます。
一つ目は、「大阪維新の会」の活躍です。現在日本の政党政治は全く機能せず、すでに末期的症状を呈していて、日本の政治を崩壊状態にしています。これは、民主党だけの責任ではなく戦後の「政党政治」の失敗の累積から来ています。その中で、70%近くも占めている二世、三世議員たちの無能さに加えて、彼らと特定利益グループの後援候補しか当選できない選挙制度に欠陥があります。そんな「政治的逼塞状態」の中で、先日の「都構想」を掲げて勝利した「大阪ダブル選挙」は、まさに幕末の志士活動に匹敵する「歴史的価値」があったと思います。橋下新市長の決断力と行動力は、幕末の坂本竜馬を彷彿させるものがあり、それに刺激された名古屋の河村市長、大村県知事たちの「追従構想」も含めて、日本の地方自治体制へ大変革をもたらすのみならず、必ず「中央政府のあり方」にも波及する可能性を持っております。日本への「道州制」導入は、行政組織の大改革のみならず、国家経営の根本にも大きな変革をもたらす潜在性を秘めています。その上、国の天文学的な借金を減少させ、垂れ流し状態の「赤字財政」を是正する「唯一の可能性」も兼ね備えています。各級レベルの議会、行政組織の統合、合理化と大幅な人員と経費削減、独立行政法人の見直し、等々、現体制では不可能な改革を、この「維新の会」は「国民の支持」のもとに遂行できる可能性があるからです。日本国民は、おとなし過ぎて自主性皆無の付和雷同型、珍しくて新鮮に見える物にすぐ飛びつきます。民主党の時も同様でした。国民は、次回の国政選挙で間違いなく「維新の会公認候補」に投票しますので、「政権奪取」も可能です。あとは、「維新の会」の政策実行能力の問題が残りますが、平成の「竜馬」が新機軸を打ち出して、強力な「舵取り」をすれば、官僚たちは優秀ですから何事でも実現可能です。どちらにしても「駄目もと」で、現今続いている無能内閣よりはマシなはずで、失敗しても「現状より悪く」はならないからです。そんな理由で「維新の会」の国政奪取に絶大なる望みを託しています。
二つ目は、「長老連合」の旗揚げです。「亀の甲より年の劫」、亀井先生の旗振りに同調する政界長老が「揃い踏み」を試みています。これも「政界再編成」の一つの方法です。現体制では、与党も野党も共に政権担当能力も実力も無いから、長い経験を持つ彼ら「長老」の行動が「何かを変える」基点にはなるはずです。ただし、「石原都知事主導」が原則になります。「長老連合」全員がいくら頑張っても、体力的にせいぜい四年間くらいしか持たないはずですから、その間に「次期政権候補」を育てて「本物の育成」を待つのも選択肢の一つです。
三つ目は、「首相公選」を掲げた国民運動を興すことです。旗振りは「維新の会」でも可能です。「アラブの春」ではありませんが「ツィッター」、「フェイスブック」等、若者を動かせる「インターネット」をフル活用して「新しい風」を吹き起こす事です。安保闘争、大学紛争、秋葉原族のように、何か「わけが分からなくても」若者が熱狂出来る「目標」を掲げて「一大運動」を引き起こせばよいのです。そのテーマが「首相公選」です。すべての若者は選挙権を持っています。彼らを惹きつける「首相公選制度実現」を主題に掲げて、付属的に老人受けをする「政治と政策」を提示すれば、現在各党にに分散している平均投票率50%の一部と「浮動票」のすべてが掻っ攫えて、「政権与党」になれます。「維新の会」が乗らなければ、誰か「旗振り候補」になりませんか? 「やる気」と「潔癖さ」を兼備した候補者ならば、アイデアはいくらでも提供します。
さて次は、あまり新年の話題には相応しくない予測です。
「野田政権」は、どちらにしても長く無いでしょう。彼の責任という事ではなくて、民主党自体が、すでに「崩壊」し始めているからです。2009年9月に政権を取ってから2年4ヶ月、彼らの選挙公約は何一つ実現していません。その上、鳩山、菅、野田と三人もの首相と幾人もの閣僚が、世論調査で「不適任」の烙印を押されています。鳩菅両人は自分の党員から引導を渡されました。その他ご存知の閣僚たちも退任寸前状態になっています。民主党には、この程度の人材しか居ないのですから、まして立派な総理大臣候補なぞ、望む方が無理なのです。現在の分裂状態の民主党が、一旦「解散総選挙」に持ち込めば、「民主党の惨敗」は必至ですから、「政権を保持」したまま代表の首を挿げ替えて、新代表で「政権維持」を図るはずですから、衆議院選挙は来年九月まではないと見ています。しかし、党内選挙で「だれが新代表候補になりますか?」、先回の「代表選挙」以上に「小物」選びの「茶番劇」にしかならないはずです。小沢一郎? 彼は多分「有罪」になると思いますし、もし党内で彼の再登場を許したら、国民は「民主党」を完全に見限り、この政党は消滅します。その間、内政、外政ともに「日本の劣化」は益々進行して、「国際的信用」を完全に失い、取り返しのつかない局面にまで突き進む可能性があります。
神聖であるはずの「選挙公約」のすべてが「実現不可能」と判った今、民主党を信用している国民は一人もいないと思います。その上で、公約の議員定数、議員歳費、公務員総人件費の削減もせずに、国民に払わせる「消費税」増率を持ち出している現状を有権者は決して許すはずがありません。だからと云って、民主党に代わって「国政を担って欲しい」既存政党が一つも無いのが「現代日本の悲劇」です。
汚職有罪判決で刑務所の「臭い飯」を喰っていた宗男先生が「仮釈放」でシャバに出てきた途端、何ら反省する様子もなく、「公民権停止中」にも拘わらず、しゃあしゃあと新党結成の旗揚げをしています。国税からの「政党助成金目当て」は明らかです。総額は一億円強、五人で分けても一人二千万円、無職の彼には「助成金様さま」で、新党を立ち上げたはずです。この程度の「倫理観」しか持ち合わせていない人物を選び続けた北海道の選挙民は、今、何を考えているのでしょうか? 一郎先生の公判が今月10日から再開されます。国民のすべてと検察が「有罪」と考えているのに、ご本人は「党員資格停止」中にも拘わらず106人もの民主党議員を傘下に納めて「党内党」作りで政治を壟断しようとしています。民主党は彼が参画して作った政党です。彼は、09年の衆議院選挙で政権奪取をした時の「選挙公約」策定にも参画しているはずです。その公約のすべてが「反故」にされ、国民は民主党の公約詐欺に引っかかったのも同然です。そんな立場の彼が、公判中にも拘わらず「党代表」の首の挿げ替えを画策しているのです。こんな民主党ですから「沈没する船からネズミが逃げ出すように」離党する党員が増えていますし、まだまだ増えるでしよう。野党に取っては「またとないチャンス」のはずですが、誠に残念ながら、このチャンスを生かせる「野党」も「人材」もいません。これは、現代日本の悲劇だとは思いませんか? 小筆が、未熟の「維新の会」や熟れすぎの「長老連合」に期待を寄せざるを得ない理由です。
現在の国会は、「魑魅魍魎の世界」と何ら変わるところがありません。与野党共に、自分たちが「国民を騙している」という感覚がまるでないから、都合の悪いことには頬かむりをして、自分勝手なことだけを平気で実行しているのです。民主党の「選挙公約」違反は、重罪相当の詐欺と同じことです。彼らは、それさえ理解していないのです。「腐敗永田町」の実情がご理解戴けたと思います。
「お目出度い元旦」早々、皆様の心を乱した事をお詫びします。このブログを始めて二年間、26回目の上梓ですが、やはり気になるのは「日本の将来」、その中でも特に「政治環境の悪化」を憂いています。「希望も夢も無い」今日、唯一見つけた光明、それが「維新の会」です。現代の日本では、彼らに頼る以外、何も希望がない・・・。悲しい現実ですが、この「希望の星」に夢を託せることを祈りつつ「お屠蘇」代わりの「白ワイン」で新年を祝います。日本にも皆様にも、佳き一年になりますように・・・。
この「ブログ」シリーズは、http://goushutaro.blogspot.com/ かyahooの「豪州太朗のシドニー通信」で通覧戴けます。 ご意見、質問、ご希望等は、kentokura@hotmail.com 豪洲太朗宛お寄せ下さい。
2011年12月12日月曜日
Blog-(25)「12月8日に思う」
日米開戦は小筆が二才の末、当然記憶にはないが、以後北朝鮮に疎開して終戦を迎えるまでの緊張感と帰国後の貧困生活、進駐軍の権威、等々は幼心にも鮮明な記憶として残っている。そして今、開戦後70年を迎えて考えることは「何故日本は無謀な対米戦に踏み切ったのか?」と云う疑問である。この難題に挑戦することで現代日本が直面している「国難回避」への答えが編み出せないかと思い下記を羅列、友人知己の皆さんと一緒に考えを進めてみたいと思っている。
その前に、明治維新以後の日本の歩みを見る。徳川幕府崩壊後、明治新政府の最大の課題は、西欧列強の圧迫を回避するため国政の近代化と富国強兵であった。そのために手がけたのが、近代的国軍を創設し、天皇を中心とする立憲制度を確立した。欧米諸国や清国、朝鮮王朝から見ても、当時の日本は単なる「島国王国」くらいにしか見られていなかった。その新興国「日本」がいつの間にか実力を蓄え、威勢を伸ばして欧米や近隣諸国へ「対等な口」を利く様になったので、近隣諸国、特に清国と朝鮮は「生意気な日本」と思い始めたのであろう。そんな国際環境の中で「明治日本」の軍備は充実され、民族伝来の「武士道」で鍛えられた「将校団」によって、農工商階級から徴募された「召集兵」が近代戦可能な軍団へと練兵された。当然、国民の4%弱しかいなかった「士族階級」からの将校要員は絶対数として不足していたから、全国から士族以外の頭脳明晰な子弟も選別して「陸海軍士官学校」で教育をした。彼らは、江戸時代までは最下層の庶民階級であったが、帝国陸海軍の将校になったことで、「官員様」と尊称れた政府機関のエリート官僚と同様に扱われる「特権階級」になり上がり、「選良意識」を持ち始めた。その過程として彼らは、台湾遠征、朝鮮出兵、日清、日露戦争、北清事変、シベリア出兵、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争と勝ち進み、結果として帝国日本陸海軍、最後の大戦争となった「太平洋戦争」での敗戦に続く皇軍史と共に生きた。
私観ながら、北清事変までは「国家の命運」を賭した「必死の戦い」であり、中堅将校層までは維新以前に「武士道」をもって教育された年代であった。しかしシベリア出兵あたりから、維新後の士族、庶民階級出身の将校が軍指導部を占めるようになり、連戦連勝の気概から「武人の本分」を忘れて、自分たちの選良意識を驕る風潮が出始めた。彼らは、政治理念から離反して、軍部独自の「軍略」と軍人の「栄誉欲」が混じった「個人感情」をベースに、軍人には硬く禁じられていた「政治関与」を始めた。もちろんその背景には、大正期の優柔不断な内閣、何事も決められない国会、個人利益の追求しか頭にない産業界への不満もあったと思う。そんな彼ら軍事官僚が、第一次大戦を好機に、「軍略」を政治に優先させて国を動かす「伝家の宝刀」として使ったのが、天皇陛下のみに許されていた「統師権」であった。この天皇の大権発動には、政府も国会も国民も反対できないことを知った彼らは、以後、「統師権」を盾にして勝手に軍を運用し始めた。それが満州事変であり、支那事変と呼ばれた日中戦争であった。政府はすでに、戦局の「蚊帳の外」に置かれて、陸軍中枢のエリートが勝手に国家予算を使って兵を進めた。アジアの資源と市場の争奪を賭した対米戦争もしかり、そこには日本政府の「関与」も天皇の意思も、国民の存在も、全く反映できない「軍閥政治体制」を確立してしまった。そして引き起こしたのが対米戦で、陸海軍の大元帥であった天皇専権の統師権は、陛下の聖慮の届かないところで「壟断」されて、少壮軍部官僚の意思だけであの大戦争に突入した。
しかし、華々しかった緒戦の勢いは、圧倒的な米軍の反抗に効しきれず、次々と敗北を重ねていった結末が広島、長崎への原爆投下であった。それでも軍部政権は「終戦工作」に踏み切れず、無為な人的、物的損傷を重ねていった。現実はすでに壊滅的状況にあったが、戦争を始めた軍部も、戦時内閣もマスコミも、国民の誰一のとして「停戦交渉開始」を口に出すだけの勇気がある日本人がいなかった。しかし昭和天皇だけは、末期的戦況を見極められ、国内に充満している嫌戦気分を明察されて、自らの英断をもって終戦の「詔勅」を発せられ、日本の壊滅を阻止された。未曾有の大戦争の結果は、将兵、民間人併せて320余万人の死者と全国の焦土化、そして人心の荒廃、と云う結末をもって、近代日本を蹂躙した「軍閥」が終焉した。
終戦直後、最後の陸軍大臣であった下村定大将は国会で、陸軍解体にあたり一言述べます、と前置きした上で、「一部の陸軍軍人が独善的で横暴な措置」と「不当なる政治干渉」を採った結果、「このような悲痛な状況を国家にもたらした過去の罪科」を詫びて謝罪すると同時に、「幾多純忠なる軍人の功績」は消されるべきでなく、「無数の戦没英霊」に対しては深い同情を賜りたい・・・、と懇請した。
軍閥勃興の間、華々しい戦果とそれを持ち上げたマスコミ報道に、国民は自我を忘れて感激、興奮して皇軍賞賛に夢中になった。そして国民もマスコミも、軍部の横暴に眼をつむり、正論を述べる国民を国賊扱いにした。軍部エリートは、自分たちの思考の是非や国際社会への影響を考慮することなく「野望達成」に血道を上げた。その間、非エリート将校や召集兵、国民の生命は「自分たちの勲章」のために無為に犠牲にされ、無益な戦場に投入され、継戦目的のためのみに殺戮され続けた。「天皇のため」、「帝国日本のため」、「聖戦完遂」と自分たちの都合の良い標語を勝手に連ねて自国民を殺戮していった軍部選良たちは、母国の敗戦後も生き残り、「畳の上」で死んでいった。小筆は過去、数人の「陸大卒」に会う機会があった。いずれの方も頭脳明晰なのは流石であったが、「人間性」はとても尊敬し、心服できる人たちではなかった。「この程度の人物が軍隊を動かしていたのか・・・」と落胆し「負けて当然であった・・・」とも思った。
「日本の政治」を武力をもって「簒奪した」軍部は、日本の敗戦で消滅したが、以後日本国民は「文民統治」の美名の下に、戦力保持を否定した幻想的な「平和憲法」に呪縛されて国家を守る自衛隊を卑下し続けてきた。「民主政治」の象徴としての「政党政治」の下、国会の横暴を許し、無能な二世、三世議員、利益代表グループ選出の議員たちの勝手な行動も許し続けている。短期間でころころと変る首相と閣僚たちに愛想をつかしたのか、各省庁の高級官僚たちは、誰一人として政府方針にも主務大臣の指示に従わない。面従腹背、勝手に省益と保身に専念し、国益と民益を見失い、「善政」どころか因習固執に憑かれて勝手気ままに旧習踏査に憂き身を費やしている姿は、戦前の軍閥官僚と何ら変わりが無い。
現在の日本は、危機的な状態にある。第一は、膨大な「財政赤字」である。第二は、台頭する「中国の軍事的脅威」であり、第三は「国民の気概亡失」である。これらに比べれば「日本経済の低迷」などは解決可能な簡単な問題である。赤字財政の増進は、日本存亡に係わる重大課題であるのに、歴代政権は赤字幅低減に無関心で「借金」を重ね続けている。現、野田政権ですら「赤字容認」の上、行政経費の削減無しに復興財源確保のために「増税」を決行しようとしている。「国民に負担を強いること」への反省も罪の意識もまるで無い。中国の軍事的脅威は、すでにカウントダウンの状況にある。中国の経済的破綻は時間の問題であり、国内事情の緊迫により、自国民の目を「外国からの危機感」に向けて逸らすのは歴史の常識であり、軍部がそれに着手した時、中国政府は「軍部の暴発」を食い止められるか? という重大問題を抱えている。恐らく中国軍部は、「尖閣諸島」あたりを占領して「内圧」を逸らせる可能性がある。その時、日米安保が機能するかどうか? 機能しない場合は、どうして日本は「国家主権」を守るのか?
現代の「日本国民」は贅沢に慣れすぎて、自ら困難に立ち向かう「気概」に欠けている。戦後教育の欠陥が今頃になって表面化してきている。北方四島、竹島の不法占拠と中国の尖閣諸島への異常な関心事は現実問題である。しかし、日本国内にはこれらの不法占拠と侵略意図に関心を示す「若者」が居ないどころか、政府でさえ長年「頬かむり」を続けている。こんな事で日本の国家主権が守れるのか?? 大きな疑問が残る。小筆の野田政権への期待は大いに裏切られた。「野田政権よ、お前もか・・・」という感じである。決断が鈍く時間が掛かる、不適切な閣僚人事、特に防衛大臣と消費担当大臣の任命と参院での問責決議無視を見ては、この内閣を見限った。「寄せ集め政党」、「烏合の衆」民主党の命脈はすでに尽きている、と確信している。
今年のシドニーの夏は涼しい限り、初夏の輝きが感じられない。それでも「年末」は近づき、今夜は娘とオペラハウスでヘンデルの「メサィア」を聴きにいく。せめてもの気晴らしになるかも知れない、と期待しつつ・・・。
その前に、明治維新以後の日本の歩みを見る。徳川幕府崩壊後、明治新政府の最大の課題は、西欧列強の圧迫を回避するため国政の近代化と富国強兵であった。そのために手がけたのが、近代的国軍を創設し、天皇を中心とする立憲制度を確立した。欧米諸国や清国、朝鮮王朝から見ても、当時の日本は単なる「島国王国」くらいにしか見られていなかった。その新興国「日本」がいつの間にか実力を蓄え、威勢を伸ばして欧米や近隣諸国へ「対等な口」を利く様になったので、近隣諸国、特に清国と朝鮮は「生意気な日本」と思い始めたのであろう。そんな国際環境の中で「明治日本」の軍備は充実され、民族伝来の「武士道」で鍛えられた「将校団」によって、農工商階級から徴募された「召集兵」が近代戦可能な軍団へと練兵された。当然、国民の4%弱しかいなかった「士族階級」からの将校要員は絶対数として不足していたから、全国から士族以外の頭脳明晰な子弟も選別して「陸海軍士官学校」で教育をした。彼らは、江戸時代までは最下層の庶民階級であったが、帝国陸海軍の将校になったことで、「官員様」と尊称れた政府機関のエリート官僚と同様に扱われる「特権階級」になり上がり、「選良意識」を持ち始めた。その過程として彼らは、台湾遠征、朝鮮出兵、日清、日露戦争、北清事変、シベリア出兵、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争と勝ち進み、結果として帝国日本陸海軍、最後の大戦争となった「太平洋戦争」での敗戦に続く皇軍史と共に生きた。
私観ながら、北清事変までは「国家の命運」を賭した「必死の戦い」であり、中堅将校層までは維新以前に「武士道」をもって教育された年代であった。しかしシベリア出兵あたりから、維新後の士族、庶民階級出身の将校が軍指導部を占めるようになり、連戦連勝の気概から「武人の本分」を忘れて、自分たちの選良意識を驕る風潮が出始めた。彼らは、政治理念から離反して、軍部独自の「軍略」と軍人の「栄誉欲」が混じった「個人感情」をベースに、軍人には硬く禁じられていた「政治関与」を始めた。もちろんその背景には、大正期の優柔不断な内閣、何事も決められない国会、個人利益の追求しか頭にない産業界への不満もあったと思う。そんな彼ら軍事官僚が、第一次大戦を好機に、「軍略」を政治に優先させて国を動かす「伝家の宝刀」として使ったのが、天皇陛下のみに許されていた「統師権」であった。この天皇の大権発動には、政府も国会も国民も反対できないことを知った彼らは、以後、「統師権」を盾にして勝手に軍を運用し始めた。それが満州事変であり、支那事変と呼ばれた日中戦争であった。政府はすでに、戦局の「蚊帳の外」に置かれて、陸軍中枢のエリートが勝手に国家予算を使って兵を進めた。アジアの資源と市場の争奪を賭した対米戦争もしかり、そこには日本政府の「関与」も天皇の意思も、国民の存在も、全く反映できない「軍閥政治体制」を確立してしまった。そして引き起こしたのが対米戦で、陸海軍の大元帥であった天皇専権の統師権は、陛下の聖慮の届かないところで「壟断」されて、少壮軍部官僚の意思だけであの大戦争に突入した。
しかし、華々しかった緒戦の勢いは、圧倒的な米軍の反抗に効しきれず、次々と敗北を重ねていった結末が広島、長崎への原爆投下であった。それでも軍部政権は「終戦工作」に踏み切れず、無為な人的、物的損傷を重ねていった。現実はすでに壊滅的状況にあったが、戦争を始めた軍部も、戦時内閣もマスコミも、国民の誰一のとして「停戦交渉開始」を口に出すだけの勇気がある日本人がいなかった。しかし昭和天皇だけは、末期的戦況を見極められ、国内に充満している嫌戦気分を明察されて、自らの英断をもって終戦の「詔勅」を発せられ、日本の壊滅を阻止された。未曾有の大戦争の結果は、将兵、民間人併せて320余万人の死者と全国の焦土化、そして人心の荒廃、と云う結末をもって、近代日本を蹂躙した「軍閥」が終焉した。
終戦直後、最後の陸軍大臣であった下村定大将は国会で、陸軍解体にあたり一言述べます、と前置きした上で、「一部の陸軍軍人が独善的で横暴な措置」と「不当なる政治干渉」を採った結果、「このような悲痛な状況を国家にもたらした過去の罪科」を詫びて謝罪すると同時に、「幾多純忠なる軍人の功績」は消されるべきでなく、「無数の戦没英霊」に対しては深い同情を賜りたい・・・、と懇請した。
軍閥勃興の間、華々しい戦果とそれを持ち上げたマスコミ報道に、国民は自我を忘れて感激、興奮して皇軍賞賛に夢中になった。そして国民もマスコミも、軍部の横暴に眼をつむり、正論を述べる国民を国賊扱いにした。軍部エリートは、自分たちの思考の是非や国際社会への影響を考慮することなく「野望達成」に血道を上げた。その間、非エリート将校や召集兵、国民の生命は「自分たちの勲章」のために無為に犠牲にされ、無益な戦場に投入され、継戦目的のためのみに殺戮され続けた。「天皇のため」、「帝国日本のため」、「聖戦完遂」と自分たちの都合の良い標語を勝手に連ねて自国民を殺戮していった軍部選良たちは、母国の敗戦後も生き残り、「畳の上」で死んでいった。小筆は過去、数人の「陸大卒」に会う機会があった。いずれの方も頭脳明晰なのは流石であったが、「人間性」はとても尊敬し、心服できる人たちではなかった。「この程度の人物が軍隊を動かしていたのか・・・」と落胆し「負けて当然であった・・・」とも思った。
「日本の政治」を武力をもって「簒奪した」軍部は、日本の敗戦で消滅したが、以後日本国民は「文民統治」の美名の下に、戦力保持を否定した幻想的な「平和憲法」に呪縛されて国家を守る自衛隊を卑下し続けてきた。「民主政治」の象徴としての「政党政治」の下、国会の横暴を許し、無能な二世、三世議員、利益代表グループ選出の議員たちの勝手な行動も許し続けている。短期間でころころと変る首相と閣僚たちに愛想をつかしたのか、各省庁の高級官僚たちは、誰一人として政府方針にも主務大臣の指示に従わない。面従腹背、勝手に省益と保身に専念し、国益と民益を見失い、「善政」どころか因習固執に憑かれて勝手気ままに旧習踏査に憂き身を費やしている姿は、戦前の軍閥官僚と何ら変わりが無い。
現在の日本は、危機的な状態にある。第一は、膨大な「財政赤字」である。第二は、台頭する「中国の軍事的脅威」であり、第三は「国民の気概亡失」である。これらに比べれば「日本経済の低迷」などは解決可能な簡単な問題である。赤字財政の増進は、日本存亡に係わる重大課題であるのに、歴代政権は赤字幅低減に無関心で「借金」を重ね続けている。現、野田政権ですら「赤字容認」の上、行政経費の削減無しに復興財源確保のために「増税」を決行しようとしている。「国民に負担を強いること」への反省も罪の意識もまるで無い。中国の軍事的脅威は、すでにカウントダウンの状況にある。中国の経済的破綻は時間の問題であり、国内事情の緊迫により、自国民の目を「外国からの危機感」に向けて逸らすのは歴史の常識であり、軍部がそれに着手した時、中国政府は「軍部の暴発」を食い止められるか? という重大問題を抱えている。恐らく中国軍部は、「尖閣諸島」あたりを占領して「内圧」を逸らせる可能性がある。その時、日米安保が機能するかどうか? 機能しない場合は、どうして日本は「国家主権」を守るのか?
現代の「日本国民」は贅沢に慣れすぎて、自ら困難に立ち向かう「気概」に欠けている。戦後教育の欠陥が今頃になって表面化してきている。北方四島、竹島の不法占拠と中国の尖閣諸島への異常な関心事は現実問題である。しかし、日本国内にはこれらの不法占拠と侵略意図に関心を示す「若者」が居ないどころか、政府でさえ長年「頬かむり」を続けている。こんな事で日本の国家主権が守れるのか?? 大きな疑問が残る。小筆の野田政権への期待は大いに裏切られた。「野田政権よ、お前もか・・・」という感じである。決断が鈍く時間が掛かる、不適切な閣僚人事、特に防衛大臣と消費担当大臣の任命と参院での問責決議無視を見ては、この内閣を見限った。「寄せ集め政党」、「烏合の衆」民主党の命脈はすでに尽きている、と確信している。
今年のシドニーの夏は涼しい限り、初夏の輝きが感じられない。それでも「年末」は近づき、今夜は娘とオペラハウスでヘンデルの「メサィア」を聴きにいく。せめてもの気晴らしになるかも知れない、と期待しつつ・・・。
2011年11月6日日曜日
Blog-(24),
6-11-2011.
「ある教育者」
先般訪日の折、仙台で40年近く複数の学習塾を経営している女性と話す機会があった。彼女の塾は、ご自身の経験と知人の教育者と共同で開発した「特異なプログラム」で塾生たちを成功裏に育てていた。その経緯と彼女自身の生涯に大いに感銘を受けたので、是非とも我が知友諸氏ともこの貴重な経験を分かち合い、教育の原点と日本将来の教育方法について考えてみたい。
彼女が塾を開くに至った過程は、小学校に通っていたご自分の二人のお嬢さんへの「補習教育」が契機であった。当時の文部省の教育方針、すなわち学年単位、クラス単位の生徒の平均的理解度をベースにカリキュラムを組み、平均値の生徒を対象とした学習指導をしていた、とのことで、能力のある生徒はクラス教育では物足らないので学習意欲を失い、平均値に至らない生徒は授業に付いて行けないために落伍していたのだそうだ。この状況を二人の娘を通じて知った彼女は、担任の先生とも幾度か会って話をしたそうだが、地方学校の一担当教師では到底手に負える問題ではなく、教育方針の欠陥を知りつつ現状改定には至らなかったそうだ。そこで彼女は、自分で各学科の「理解度」を判定する基準を設けて、二人の娘の国理英数の「基礎学力」の修得度を探り出した。その結果、各教科の基礎が解っていない科目は、いくら次の課程を教えても理解出来ないことを知り、各科目の基礎を徹底的に習熟させることから手をつけてみた。結果は上々で、娘たちの理解度が直ちに上がっていき、その科目の勉強自体に興味を示すようになったそうだ。娘たちが好成績で上級学校に進学すると、彼女はこの貴重な体験を何とか実社会で生かしたいと考えて、既存の学習塾の臨時教師になり、不特定多数の塾生への指導方法を体験した。この塾でも「平均的な塾生」を対象にした教育指導方法を採っていたために、「塾の落ちこぼれ」が出ていたことを知った。この体験を元に「個人指導」を徹底させる「塾経営方針」を研究した結果、塾で知り合った教師仲間が「個人指導カリキュラム」を研究していたので彼と話し合い、「○✕式回答方式」を一切排除した国理英数の基礎科目を学科別に各々50教程に細分化した教科書を作り、その教程で各塾生の能力と習熟程度に合わせて、徹底的に「基礎教育」から積み上げていく方式を開発して今日まで教え続けているそうだ。
最年少は3才児から、年長者は大学受験生までが、同じ教室で各自異なった「教程」を自習しながら、理解出来ない箇所は、いつも教室に控えている教師の指導を仰いで修得する方法を採用しているとのこと。彼女曰く「基礎教育が身についていない生徒には、何を教えても理解出来ないから、基礎教育の本質から教えているのだ・・・」そうだ。各科目の基礎を理解した生徒たちは、ただちにその科目に興味を示すとともに、猛烈なスピードで「理解力を深めていく」そうで、大学受験の高校生と机を並べた小学校入学前の児童が、小学校高学年用の難問をすらすらと回答している、かと思えば、高校入試を目指す中学生が、小学生用の基礎教育の問題に挑戦している姿もある、とのことであった。彼女は、今日まで恐らく4万人近くの塾生を育て上げて、世に送り出してきたそうだが、全員がそれぞれの志望校に入学し、東北の雄「東北大学」や大学入試の最難関、東大医学部へ進学した生徒たちも数え切れないほどいて、各々が希望した社会分野で成功を収めているそうだ。彼らのすべてが、自分たちが経験した「学校教育」よりも、「彼女の塾」で学んだ「教育方式」のほうがはるかに有意義であったことを知っているために、自分たちの子供や孫たちまでも「彼女の塾」に通わせている家庭が沢山あるのだそうだ。
入塾希望者が来ると、彼女は必ず父母と児童と共に直接面接して、その児童の人間としての「成熟度」を見極めるのが大切な第一歩だそうで、その次に「各科目の理解度」を探り出して、その子の「能力に合った」教材を選び、繰り返し教科の「基礎」から教え込む、とのことだ。「むら気」が強く「忍耐力」の弱い子供たちでも、自らの性格の欠陥点を悟らせ、努力の仕方を教えると、真剣に教材と取り組むようになり、自ら理解しようと努めるようになり、進んで一段上の教程に挑戦するようになる、とのことである。従って彼女の塾では、世間で騒いでいる「学級崩壊」や「教師無視」の塾生など一切経験したことが無い、とのことであった。彼女は、この方式を基にして、カナダ、アメリカ、オーストラリア等、英語圏から英会話教師を雇い入れて「英会話教室」も成功裏に経営しているとのことだ。
この話を聞いていて小筆は、「教育の原点とは何か」、という最重要なポイントを悟ることが出来た。併せて「日本の戦後教育は完全に間違っている」と思った。何故なら初等教育から中高等教育、大学教育に至るまで「一貫した背骨」の無い、おざなりな教育をしている、としか思えないからである。この「背骨」とは、学習する前に生徒たちが学ぶべき「精神」と「姿勢」の教えが抜けているからに他ならない。まず、人間として「なぜ勉強をしなければならないか?」という「基本精神」が教えられていないから、生徒たちが目標とする「人間像」が描けていない。本来なら、それを教えるべき教師が「自己の確立」をしていないから、生徒たちにこの目標を教えることが出来ないのだ。「卒業」と「進学」のみが、唯一の登校目標であり、上級学校に行く目的が「より良い中学、高校、そして大学」に進学して「より良い就職先に採用される」ことのみが人生の最大目的になってしまっているから、その間に、「人間として、日本人として何をなすべきか」という大前提が存在しない。結果として、個人主義に徹した人間ばかりが増えて自分が所属している「日本国」というコミュニティーへの「帰属意識」さえ生まれてこない。その上、自分の事しか考えられない「無責任」な国民が育ってしまった、ということであろう。
優秀で頭脳明晰な子供は沢山いる筈だが、それ以上に鈍感な児童も沢山いる。彼らを一堂に集めて「同じ方法で教えても」、より出来る子供には不満足であろうし、出来ない子供には理解不能なので、当然授業自体に飽きてくる。教える教師も情熱を失うのは当然の成り行きであろう。そんな教育方法を戦後66年間も続けてきたのだから、日本全体がおかしくなったのは当然であった。
先日、世界の人口が70億人を突破した。二百年前の人口がたったの10億人であったのだから、猛烈な勢いで人口増加が進んでいる。あと50年すると90億人を超えると予測されている。しかし、日本を始めとする先進諸国では人口減少傾向が激しく、老齢社会化が国家危機として現実化している。それにも増して、この地球上のエネルギー資源の枯渇と食料供給能力の限界が現実化しつつある。そんな中での「人口爆発」である。近い将来、世界的に「利己的である」と云われている中国とインドの人口が地球全体の人口の三分の一を占めるそうで、50年後には60才以上の老齢人口率が26%を超えるのだそうだ。砂漠化が進むアラブ諸国やアフリカの人口爆発は急速に進んでいるそうで、現在の日本からは想像も予測も出来ない世界環境が出現して「資源戦争」、「食料確保戦争」が出現するのも時間の問題であろう。その折に、我々の日本が生存できるか否かは「すべて教育」の成果に掛かっているはずである。そんな近未来を控えた地球で生き抜かねばならない日本の教育が現状のような体たらくでは、「日本国の生存も危うい」と危惧せざるを得ない。
「基礎教育」の重要性は、世界に冠たる日本の「町工場」の卓越した職人技を見ても判るように、叩き上げの親方から「基礎技術」を手取り足取り、徹底的に教えられるもので、見よう見真似で簡単に修得できるものではない。この「職人技」が息吹いている事や彼女のような無欲無私の「塾経営者」が存在している事が「日本の凄さ」でもある。無資源国の日本が、将来生き残る道はただひとつ「技術立国」でり、それを「支える」のが基礎教育である。そんな日本が「教育」を疎かにして、巷の「塾」や「町工場」に「人材育成」を頼っているようでは日本の将来は暗澹たるものになるのは必定である。国民は「国家の財産」であり、その国民を生かすも殺すも、すべて「政府の教育方針」にあり、国家の将来は「基礎教育」の確立にある。仙台の「ある教育者」との会話が、日本の将来にまで飛躍するのも、小筆の高齢化と杞憂が成せる技かもしれないが、「基礎教育」の重要性は、国家根本の要であり、絶対に必須条件である。日本人同胞諸氏よ、日本の将来のためも、未来の日本を背負って立つ子供たちのためにも、現行の「教育制度」の改革を進めねばならない、と思うのだが・・・。
シドニーの至る所に、初夏を告げる花「ジャカランダ」が咲き乱れてきた。くすんだユーカリの緑の中に、突然現れる「濃い紫色の杜」。ジャカランダの花見酒は、やっぱりドライな白ワインが合っているようだ。
「ある教育者」
先般訪日の折、仙台で40年近く複数の学習塾を経営している女性と話す機会があった。彼女の塾は、ご自身の経験と知人の教育者と共同で開発した「特異なプログラム」で塾生たちを成功裏に育てていた。その経緯と彼女自身の生涯に大いに感銘を受けたので、是非とも我が知友諸氏ともこの貴重な経験を分かち合い、教育の原点と日本将来の教育方法について考えてみたい。
彼女が塾を開くに至った過程は、小学校に通っていたご自分の二人のお嬢さんへの「補習教育」が契機であった。当時の文部省の教育方針、すなわち学年単位、クラス単位の生徒の平均的理解度をベースにカリキュラムを組み、平均値の生徒を対象とした学習指導をしていた、とのことで、能力のある生徒はクラス教育では物足らないので学習意欲を失い、平均値に至らない生徒は授業に付いて行けないために落伍していたのだそうだ。この状況を二人の娘を通じて知った彼女は、担任の先生とも幾度か会って話をしたそうだが、地方学校の一担当教師では到底手に負える問題ではなく、教育方針の欠陥を知りつつ現状改定には至らなかったそうだ。そこで彼女は、自分で各学科の「理解度」を判定する基準を設けて、二人の娘の国理英数の「基礎学力」の修得度を探り出した。その結果、各教科の基礎が解っていない科目は、いくら次の課程を教えても理解出来ないことを知り、各科目の基礎を徹底的に習熟させることから手をつけてみた。結果は上々で、娘たちの理解度が直ちに上がっていき、その科目の勉強自体に興味を示すようになったそうだ。娘たちが好成績で上級学校に進学すると、彼女はこの貴重な体験を何とか実社会で生かしたいと考えて、既存の学習塾の臨時教師になり、不特定多数の塾生への指導方法を体験した。この塾でも「平均的な塾生」を対象にした教育指導方法を採っていたために、「塾の落ちこぼれ」が出ていたことを知った。この体験を元に「個人指導」を徹底させる「塾経営方針」を研究した結果、塾で知り合った教師仲間が「個人指導カリキュラム」を研究していたので彼と話し合い、「○✕式回答方式」を一切排除した国理英数の基礎科目を学科別に各々50教程に細分化した教科書を作り、その教程で各塾生の能力と習熟程度に合わせて、徹底的に「基礎教育」から積み上げていく方式を開発して今日まで教え続けているそうだ。
最年少は3才児から、年長者は大学受験生までが、同じ教室で各自異なった「教程」を自習しながら、理解出来ない箇所は、いつも教室に控えている教師の指導を仰いで修得する方法を採用しているとのこと。彼女曰く「基礎教育が身についていない生徒には、何を教えても理解出来ないから、基礎教育の本質から教えているのだ・・・」そうだ。各科目の基礎を理解した生徒たちは、ただちにその科目に興味を示すとともに、猛烈なスピードで「理解力を深めていく」そうで、大学受験の高校生と机を並べた小学校入学前の児童が、小学校高学年用の難問をすらすらと回答している、かと思えば、高校入試を目指す中学生が、小学生用の基礎教育の問題に挑戦している姿もある、とのことであった。彼女は、今日まで恐らく4万人近くの塾生を育て上げて、世に送り出してきたそうだが、全員がそれぞれの志望校に入学し、東北の雄「東北大学」や大学入試の最難関、東大医学部へ進学した生徒たちも数え切れないほどいて、各々が希望した社会分野で成功を収めているそうだ。彼らのすべてが、自分たちが経験した「学校教育」よりも、「彼女の塾」で学んだ「教育方式」のほうがはるかに有意義であったことを知っているために、自分たちの子供や孫たちまでも「彼女の塾」に通わせている家庭が沢山あるのだそうだ。
入塾希望者が来ると、彼女は必ず父母と児童と共に直接面接して、その児童の人間としての「成熟度」を見極めるのが大切な第一歩だそうで、その次に「各科目の理解度」を探り出して、その子の「能力に合った」教材を選び、繰り返し教科の「基礎」から教え込む、とのことだ。「むら気」が強く「忍耐力」の弱い子供たちでも、自らの性格の欠陥点を悟らせ、努力の仕方を教えると、真剣に教材と取り組むようになり、自ら理解しようと努めるようになり、進んで一段上の教程に挑戦するようになる、とのことである。従って彼女の塾では、世間で騒いでいる「学級崩壊」や「教師無視」の塾生など一切経験したことが無い、とのことであった。彼女は、この方式を基にして、カナダ、アメリカ、オーストラリア等、英語圏から英会話教師を雇い入れて「英会話教室」も成功裏に経営しているとのことだ。
この話を聞いていて小筆は、「教育の原点とは何か」、という最重要なポイントを悟ることが出来た。併せて「日本の戦後教育は完全に間違っている」と思った。何故なら初等教育から中高等教育、大学教育に至るまで「一貫した背骨」の無い、おざなりな教育をしている、としか思えないからである。この「背骨」とは、学習する前に生徒たちが学ぶべき「精神」と「姿勢」の教えが抜けているからに他ならない。まず、人間として「なぜ勉強をしなければならないか?」という「基本精神」が教えられていないから、生徒たちが目標とする「人間像」が描けていない。本来なら、それを教えるべき教師が「自己の確立」をしていないから、生徒たちにこの目標を教えることが出来ないのだ。「卒業」と「進学」のみが、唯一の登校目標であり、上級学校に行く目的が「より良い中学、高校、そして大学」に進学して「より良い就職先に採用される」ことのみが人生の最大目的になってしまっているから、その間に、「人間として、日本人として何をなすべきか」という大前提が存在しない。結果として、個人主義に徹した人間ばかりが増えて自分が所属している「日本国」というコミュニティーへの「帰属意識」さえ生まれてこない。その上、自分の事しか考えられない「無責任」な国民が育ってしまった、ということであろう。
優秀で頭脳明晰な子供は沢山いる筈だが、それ以上に鈍感な児童も沢山いる。彼らを一堂に集めて「同じ方法で教えても」、より出来る子供には不満足であろうし、出来ない子供には理解不能なので、当然授業自体に飽きてくる。教える教師も情熱を失うのは当然の成り行きであろう。そんな教育方法を戦後66年間も続けてきたのだから、日本全体がおかしくなったのは当然であった。
先日、世界の人口が70億人を突破した。二百年前の人口がたったの10億人であったのだから、猛烈な勢いで人口増加が進んでいる。あと50年すると90億人を超えると予測されている。しかし、日本を始めとする先進諸国では人口減少傾向が激しく、老齢社会化が国家危機として現実化している。それにも増して、この地球上のエネルギー資源の枯渇と食料供給能力の限界が現実化しつつある。そんな中での「人口爆発」である。近い将来、世界的に「利己的である」と云われている中国とインドの人口が地球全体の人口の三分の一を占めるそうで、50年後には60才以上の老齢人口率が26%を超えるのだそうだ。砂漠化が進むアラブ諸国やアフリカの人口爆発は急速に進んでいるそうで、現在の日本からは想像も予測も出来ない世界環境が出現して「資源戦争」、「食料確保戦争」が出現するのも時間の問題であろう。その折に、我々の日本が生存できるか否かは「すべて教育」の成果に掛かっているはずである。そんな近未来を控えた地球で生き抜かねばならない日本の教育が現状のような体たらくでは、「日本国の生存も危うい」と危惧せざるを得ない。
「基礎教育」の重要性は、世界に冠たる日本の「町工場」の卓越した職人技を見ても判るように、叩き上げの親方から「基礎技術」を手取り足取り、徹底的に教えられるもので、見よう見真似で簡単に修得できるものではない。この「職人技」が息吹いている事や彼女のような無欲無私の「塾経営者」が存在している事が「日本の凄さ」でもある。無資源国の日本が、将来生き残る道はただひとつ「技術立国」でり、それを「支える」のが基礎教育である。そんな日本が「教育」を疎かにして、巷の「塾」や「町工場」に「人材育成」を頼っているようでは日本の将来は暗澹たるものになるのは必定である。国民は「国家の財産」であり、その国民を生かすも殺すも、すべて「政府の教育方針」にあり、国家の将来は「基礎教育」の確立にある。仙台の「ある教育者」との会話が、日本の将来にまで飛躍するのも、小筆の高齢化と杞憂が成せる技かもしれないが、「基礎教育」の重要性は、国家根本の要であり、絶対に必須条件である。日本人同胞諸氏よ、日本の将来のためも、未来の日本を背負って立つ子供たちのためにも、現行の「教育制度」の改革を進めねばならない、と思うのだが・・・。
シドニーの至る所に、初夏を告げる花「ジャカランダ」が咲き乱れてきた。くすんだユーカリの緑の中に、突然現れる「濃い紫色の杜」。ジャカランダの花見酒は、やっぱりドライな白ワインが合っているようだ。
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