2010年3月19日金曜日

「教育再生」-3. オーストラリアの教育事情

 オーストラリアの教育制度を述べる。面積で日本の二十二倍、人口はたったの二千二百万人余り、まさに過疎大陸である。各州によって制度が多少異なるので、シドニーがある人口四百三十万人、面積で四倍のニュー・サウス・ウェールズ州を例にとる。

 学制は、小学校(6-7年間,幼稚園にあたるプレ・スクールを含む)、中高学校、ハイスクール(4-6年間)、大学(3年以上)と専門学校(TAFE,州立技術補習専門学校、夜間部もある)で成り、小-1から高-3までの学年を「通し」で呼ぶ。すなわち小-1 はYear-1(Y-1),中-1はYear-7(Y-7)で、高-3 はYear-12(Y-12)である。義務教育期間は、小学校一年生から10年間(Y-10)ないし、落第があるので年令16才までで打ち切り。組織は、高校までは州立(70%)と私立(30%)が並列し、大学は宗教系特殊校,1校を除いてすべて州立のみである。州立のハイスクールには「Selective School」(選良学校)があり、州内を15学区にわけて41校(約5千人分)があり、毎年約15,000人の優秀な生徒たちがこの難関に挑戦している。もちろん学費は無料である。学費は、州立はY-12まで無料、私立は宗教系の経営で、それぞれの学費をとっているがカソリック系は安く、プロテスタント系は高い。約20年前に息子と娘が通った英国教会系の名門私立ハイスクールは、Year-12 時の年間学費が約$9,000.だったが 現在は$24,000.とのこと。優秀な生徒には教科ごとに奨学金を支給しているが、オーストラリアの40代サラリーマンの年間平均所得が税込みで$40,000.余りであるから決して安くは無い。しかし、名門私立校は、どこも満席である。学力のみならず情操教育面で州立をはるかに凌駕しているからで、それだけの学費を払う価値があるからであろう。

 教育方式の特色は、一般教育の早い時期から職業訓練を織り込んだ学科が選択できることである。生徒たちはY-4ころから自分の将来を決める傾向があり、進学意図の生徒とは精神的にも異なった心理状態で授業を受け、ハイスクールに進学するとこの傾向がはっきりと分かれる。大学以上に進学を意図する生徒たちは、Y-11とY-12で一般必須科目以外に、大学の各学部が要求する選択科目を専修する。大学独自の入試は無く、州内一律のHSC (High school Certificate)という一斉試験を受けて、その成績により希望する大学の入学が決まる。TAFEは、一旦就職した社会人が自分の仕事に必要な専門技術を習得するために設けられているもので、各種技術、コンピューター、経営学、法律関連等、多岐にわたり、教科ごとの履修が可能である。年令に関係なく低額の学費で専門技術を学べる制度で、昼間部と夜間部があり修了者には「ディプロマ」が与えられる。

 小筆も41才の時、貿易関連の勉強のために、NSW大学内に設けられたディプロマ・コースに二年間通った。週三日、18:00-21:00で仕事を終えた後からの三時間の授業と論文形式のテストは特に大変であった。開講当初70 人いた生徒が卒業時には27人に減り、英語圏以外の生徒は小筆一人だけ、お陰で卒業式では連邦政府総督から手渡しでディプロマを頂戴して貴重な人生経験をした。これも学生時代に経済的な理由で叶わなかった海外留学の夢を実現したかったからでもあった。

 息子が通学したのは[Trinity Grammar School]のハイスクール部で、シドニー郊外にある120年余りの歴史をもつ英国教会系の男子校、Y-1からY-12まであり生徒数は約千九百人。遠隔地と海外からの生徒たちのために「寄宿制度」も備えている。

 入学試験は、Y-5 の時、国語(英語)と算数の試験があり、Y-6時に将来希望する進学方向により、文系理系の選択科目の試験と家族を含めた面接、家族の通う教会の牧師からの内申書が求められた。

学校は、キリスト教の教理に基づいて、将来のオーストラリア社会を指導できる「紳士育成」を目標に教育を施している。校内には教会堂があり週一時間の宗教学習は必須科目である。入学時、ロドニー・ウエスト校長の訓話は、「諸君は本校において、キリスト教徒として学識を磨き、立派なオーストラリア人として国家に尽くすために修学するのである。社会においては公徳心を以って一般人の指導者にならなければならない・・・」と確固たる修学目標とエリートたるべき精神を述べ、厳しい校則と礼譲が教え込まれることを覚悟させた。まず生徒たちの「オージー・イングリッシュ」を英国貴族が使う「クィーンズ・イングリッシュ」へ矯正すること「上品でウイットに富んだ会話術」の修得から始まった。生徒たちは、男性教師には[Sir・・・」、女性教師には[Mam,・・]の敬称を付け、必ず姿勢を正して受け答えをすることを躾けられ、国歌斉唱と国旗掲揚時には、全員起立して「気を付け」の姿勢をとることが義務づけられている。 学校を訪問すると、必ず誰か生徒が飛んできて、案内を申し出るのが常であった。

学内には、Y-7生から Y-12生までを縦割りにした[House]と名づけた生徒組織があり、各学年約20人、計120人前後で構成されていて、上級生が下級生の躾から校内生活順化や校則指導等に当たり、スポーツ競技のみならず学識競技等も、このハウス対抗で行われていて、「同窓生意識」強化の役割を果たしていた。

一般教科の他に、選択科目には「軍事教練」があり、もちろん実弾射撃や砲撃訓練、夜間演習などもあり、在校中に所定の訓練を終えた生徒は、オーストラリア陸軍「予備伍長」の階級が与えられている。

卒業生は全員、国内か外国の大学に進学し、息子のようにNSW大学を卒業した後、働きながら他の大学で学士、修士、MBA等を取った後、米国の銀行から奨学金を貰ってハーバード大学で国際金融を学び、38才になった現在、英国教会の「牧師」をしながら、ボストンの神学校の博士課程を通信教育で受講している者もいる。

ウエスト校長は、毎朝正門脇に立ち、登校してくる生徒たちに必ずファースト・ネームで呼びかけ、一言二こと本人や家族の近況を尋ねるのが日課であった。九百人近い全生徒の名前と家族構成をすべて記憶しておられ、優しく言葉を掛ける校長に「真の教育者」の姿をみて「良い学校に進学させた・・・」と感激したものであった。この校長は、在校生のみならず卒業生からも神のように慕われていて、隠退された今でも各年度の卒業生たちが、五年に一度開く同窓会には、必ずウエスト校長の臨席を仰ぎ、近況報告をするのが慣わしで、海外居住の同窓生たちもほとんどが参加しているそうである。

 現在は「複合移民国家」なったオーストラリアの教育制度は、基本的にはイギリスの制度をベースに組み立てられていて、上流社会層と庶民階層の子弟が自然に「落ち着く所に落ち着く」ように仕組まれているように思える。家庭環境と親からの遺伝子は当然彼らの子供たちに引き継がれているので、無理に高等教育を施しても吸収しきれない子弟が当然出てくるものである。学歴が低くても、社会に出たあとどんどん能力を伸ばす子弟もいれば、自分の分野で頑張る者も沢山いる。能力のある子弟には、社会が奨学金を出して彼らの持つ潜在力を伸ばしてやり、将来その成果を社会全体が享受する、という考え方には意味があると思える。

小筆の子供たち二人の学費負担はハイスクール卒業までで、後はすべて自分たちで奨学金を貰って高等教育を受けている。息子は六種類の学位を持ち、娘はロンドン大学の大学院の修士号を含めて三つの学位を持っている。彼らの州立小学校時代の友人の多くは義務教育を終えたあと社会に出ているが、彼らの殆どが、いわゆる「庶民階層」として幸せな生活を送っている。

現代日本の学校制度の欠陥は、誰もが一律に高等教育を受けるのが当然である、としていることにある。学校の勉強だけでは希望校に進学出来ないので、幼年時から「塾通い」をして「丸バツ式解答」の記入方法を補習して当然だと思っている。それだけの努力をしても日本児童の学力は世界のトップにランクされていない。教育行政に何か欠陥があることは間違いない。その上問題なのは、学校の教師がこの現状を当然として受け止めているらしい事である。彼らは一体、日々の授業で何を教えているのか、プロの教師として「自分の教え子の塾通い」を恥ずかしいと思わないのか、不思議な現象である。      

オーストラリアにも「塾」はある。しかし、ほとんどの塾が国語である英語での「論文」の要点のとらえ方と書き方を教えている。HSCの試験が大部分「小論文」での解答方式を採用しているからである。

このブログは、小筆の日本出張のため四月はお休み。何かあれば日本の携帯電話、

090-3008-7549. に連絡されたし。 豪洲太朗

2010年2月23日火曜日

「教育再生」-(2)  

 現在日本が直面している「教育環境の混迷」と「常軌を逸脱した社会現象」の原因は、過去の教師たちや生徒、彼らの親たちの責任ではなく、もちろん変容してしまった社会の責任でもなく、すべては戦後教育の基本軸を確定せずに放置してきた政府と文部省に帰するべきである。

 いかなる国にもその国家が持つ固有の文化と伝統があり、その民族の特性を形成していて、良くも悪くも、いわゆる「民族性」というものが滲みでているものである。

 戦前の日本には、諸外国が羨むほどの民族的特質があり良質な文化に溢れていた。だからこそ、多くの外国人が日本の風土を好み、日本人を崇拝していた。しかし、現代の日本は、そのすべてを失ってしまった。確かに他国が真似の出来ない高品質の商品やハイテク製品が世界市場で好まれ、特異な文化を供給し続けているが、それらを享受している彼らが、人間としての日本人を好み、尊敬している訳ではない。むしろ軽率な人間集団として蔑んでいる人たちも多く存在している。 

各国の政府高官が集まる国際会議などの代表たちの行動をみても判るように、日本代表の存在感が全く無いのである。何故か? 答えは簡単である、現在の日本には「日本特有の文化」がなくなって国民の心が離散してしまい、各個人に「日本民族としての確固たる自信」が無いために、影の薄い存在になっているからである。逆説的には「日本固有の文化」のバックボーンを亡失しているから「日本人としての誇りが持てない」のである。

 その原因は戦後教育にある。日本とはいかなる存在であるのか? 日本人が依って立つ根源は何か? 日本人としていかにして生きていくのか?  この民族の根幹に係わる重要な課題を子供たちに教えてこなかったことに起因している。民主教育も結構、機会均等も良い、しかし自分が生まれた国家の根源すら理解しないで、学力だけを詰め込んでも頭でっかち「人の形骸」でしかなく、無味乾燥、品格皆無な存在であるために、人としての魅力がなく、他人から、まして外国人から尊敬される訳が無い。

何故なら、 世界には祖国を離れて、他の文化圏、「外国」で生活している人間が無数にいるが、大部分の彼らの拠り所は「金銭」だけであり、自分さえ金儲けができれば人生満足とする心情で生きている者が驚くほど多くいる。彼らは、他人を騙してまでも平気で金に執着する人間たちである。彼らには、所属している国家の安全よりも金銭の多寡が人生保全の目安であるからだ。彼らにはコミュニティーに所属しているという感覚が無いから「所属社会に対する責務」を感じないボヘミアン的な存在になって、誰からも尊敬されず、むしろ軽蔑されていて各国で大きな社会問題になっている。

現在の日本は、国内に多数の永住外国人を抱える他に、「日本人のボヘミアン」、すなわち「虚無的生活者」、「政治的、社会的な無関心層」を無数に抱え込んでしまっている。自分の権利だけを主張するモンスター・ピアレントや家族のみならず他人の存在さえも無視する若者たちなどがその典型である。

日本の戦後教育の欠陥は、子供たち各個の「能力の差」を無視した事に起因している。基本的に人間には各自が持って生まれた特性があり、頭脳明晰な子供もいれば、当然何

事にも理解度の劣る子供もいるし、特殊な技能にのみ秀でた子供たちもいる。これら人間の本性を無視して、「一束ひとからげ」にする事が民主教育である、とした新憲法下の文部省の間違いが今日の惨状を招いている。

 優秀な生徒の能力を育て伸ばすことをしないで、程度の低い教程に押し留めることで、その子の持つ向上心を削いてきた結果であり、各家庭の経済状況の偏差を考慮せずに、同じ枠の中で教育をすることを最善とした事も間違いの原因であった。

優秀な子供たちで向学心に溢れる生徒だけを学力試験で集めた特殊学校「選良校」を作り、経済的に劣る家庭の生徒たちには奨学金を与えて就学させて、彼らの持つ能力を学年に関係なく際限なく伸ばしていく。その一方、程度の低い子供たちには彼らの特質に見合った技能を身に付ける技術学校へ進学させて社会に送り出す。経済的に恵まれた子弟には、親の経済力に見合った私立校に行かせるシステムが採用されるべきであった。   職業技術を身につけて社会にでた成人たちが、もっと高等な技術や管理能力を身につけたいと希望した時のために、年齢に関係なく通学できる「夜間教育」の場所を用意しておけば良い。このシステムを確立すれば財政難に悩む財務省も、遥かに少ない予算で教育目的が達成されるはずである。

今、民主党政権が打ち出している「高校無料化」なんていうものは無策の極にあり、形式だけ「高卒」の資格を与えても何のプラスにもならない愚策である。

 日本の「教育再生」の基本に、義務教育と高校大学を通して全生徒、全学生が学ばなければならない「必須科目」がある。その第一は、「祖国日本が依って立つ根源」を教えることである。第二は、日本国民として果たさなければならない「義務」を教えることであり、第三は社会の一員としての「責務」である。第四は、自分が属する「日本国についての知識」であり、五番目は、国際社会の構成国家として「国際関係」を学ばせることも大切である。六番目には、将来、国際社会で活躍できるために国際語である「英会話」くらいは身につけさせることである。

日本には、二千七百年にならんしする万世一系の皇室を中心に、絶えず斬新的な政治形態を創設して「新体制国家」が営まれてきた。神社仏閣に見られる独創的な木造建築や、織物、蒔絵、水墨、陶芸等も秀逸なものばかりで、その上、漢字、片仮名、平仮名という世界に類を見ない表現方法で、私小説のみならず短歌、俳句という豊かで繊細多彩な表現力を誇ってきた。これらのすべては、日本の伝統文化であり、それに加えた高高度技術国家である。どのひとつを取り上げても、他国の追従を許さぬものばかりで、日本国民として世界に誇れる知的財産ばかりである。

日本政府は、国防や治安のみならず、曲がりなりにも多くの社会的便宜性と社会保障制度、高度な文化生活を国民に与えている。縦横に網羅された交通網もメディアも通信網も、都市機能もすべてが有料とはいえ、最善の品質のものが供給されている。それらは、日本という国家があって初めて享受できる民族的な文明である。国民には、これらの歴史と伝統、国家機能と自分たちの生命財産を守る義務がある。自分たちの生活環境を安全に保つためには、公共道徳を守るのみならず、一旦緩急有る場合には、身命を挺して日本と国民を守る気概を持たせるべきである。これらを学ばせることが立派な人格形成に役立つ。

 明治政府は、国家の安全を守るために、国費で陸海軍の指導者を育てた。全国から集められた彼らは確かに優秀で、世界に通用する「軍事プロ」として育ち、短期間に世界有数の「軍事国家日本」を作り上げた。しかし、彼らを育てる教育過程に重大な欠陥があり、彼らは政府がコントロール出来ないモンスターに育ってしまった。 結果として彼らは、太平洋戦争の惨禍を引き起こして帝国日本を崩壊させたのみならず、三百五十万人余りの国民と将兵の生命を奪い、諸外国に算出不能の犠牲者をもたらした。

その欠陥とは、教育課程で「地政学」、今で云う「国際関係論」を教えなかったからである。近代史におけるいかなる国家も、自国の地理的な位置と近隣諸国との関係を地球規模の観点から理解し、判断出来る能力を備えていないと生存できない、というのが「国家存亡」の鉄則である。まして核兵器が充満し、長距離爆撃機やミサイルが飛び、遠距離から相手国を攻撃可能な現在、この学問はあらゆる国家指導者にとっても国民にとっても最も重要な必須科目である。

 この重要な教科を「軍事プロ」たちの卵に教えなかったために、モンスターに育った彼らは、国際環境下における「日本の位置」が理解出来なかった。確かに日清、日露戦争は止むを得ない防衛戦であったが、それ以後、敗戦までの戦闘は、すべて国家存亡に関係なく、モンスターたちの勲章のために引き起こされた惨禍であった。

 この誤った教科選択の教訓は、現下の「教育再生」を考える場合に、最も重要な課題であり、日本の将来を誤らぬためにも熟慮実施が必要である。「教育再生」なくして日本の将来は無い。

 次回、「教育再生」-(3)で、オーストラリアの実例を引き、教職者の理想像を紹介したい。

2010年2月9日火曜日

「緊急発信」民主党の命運も尽きた・・・

二月八日夜、小沢幹事長は総理との会談後の記者会見で「幹事長続投」を表明した。この発表を聞いた国民の大部分が唖然としたはずである。理由は、二人の政治資金疑惑に対する姿勢にある。総理は、政治資金報告書の虚偽記載で秘書を解雇し税金の未納分を後払い、幹事長は秘書三人が起訴されて公判待ち、本人は「嫌疑不十分」で不起訴、とはいえ二度にわたって検察から事情聴取をされている。その上での続投表明である。

 そこには、お二人の「道義的責任」のかけらも感じられない。

 幹事長への国民の疑惑と不信は、(1) 有罪で受刑中の建設会社幹部が贈賄を告白している、(2) 三度にわたる新党設立と解党時、累計20億円とも推定される「政党助成金」の処理が不明である、(3)10億円をこえる幹事長個人名義、13件の不動産の存在、(4)現在起訴中の三人の秘書は、誰のために虚偽記載をしなければならなかったのか? (5) メディアの世論調査で「辞任すべき」が70%前後、内閣不支持が支持率を上回り、(6)メディアは、小沢疑惑と民主党政権存続についての報道で沸き返るに到った。これらの疑惑と不信と大騒動を抱えたままの幹事長職の続投決定である。

  幹事長にはこれ以外にも重大な問題がある。それは、北京訪問時に「自分は人民解放軍の参謀長である」と胡主席の歓心を買い、習副主席の天皇表敬時の「天皇の政治利用」とも思われる会見強要と宮内庁長官への食言、韓国訪問時、「竹島不法占拠」問題には一言も触れずに、天皇訪韓や天皇家に朝鮮半島人の血液が流れていると迎合としか思えない発言した上に、永住外国人参政権の問題に触れるなど、日本の国会議員としてあるまじき発言を繰り返してきた。 

 鳩山総理は、これだけ多くの問題を抱えている幹事長を続投させた。その上、良識があるはずの民主党党員からは、ごく一部を除き何ら批判の声が一切聞こえてこない。

 日本人の常識として、「部下の責任」は上司が負い、部下を庇うのが本来の姿であり、男の美徳でもある。ひと昔前までは、「誠」を持つ大和武士は部下の犯した罪を恥じて切腹したものであった。それを、秘書三人の行為を「知らなかった」と責任転嫁をして罪を逃れる浅ましい姿には、政治家としての資質を疑わせるものであり、人間として卑怯極まりない恥ずべき行為である。

小沢一郎民主党幹事長は、政治家としてよりも人間として、これらの疑惑にたいする「説明責任」と「道義的責任」を如何に考えているのか、この説明は政権与党の幹事長職にある者の責務である。その責務を果たさなくて良いと考えている理由があるのなら知りたいと思っているのは小筆だけではないであろう。

 検察の小沢追及は必ず継続されるものと信じている、それこそが「日本の正義」だからである。しかしその前に、日本国民が小沢疑惑と民主党の姿勢、それにも増して鳩山内閣の存続に審判を下すはずである。

今回は「緊急発信」につき、「教育再生」―(2) は、次回にします。  

2010年1月28日木曜日

教育再生(1)

 学校では学級崩壊、校内暴力、いじめ、登校拒否、家庭では幼児虐待、閉じこもり、自閉症、自殺、モンスター・ピァレント等々、シドニーで流れ聞く日本の教育界と家庭で発生している諸問題は、国家危機にも値する異常事態としか思えなく唖然としている。

 現在の日本人は、世界諸国から比べると遥かに教養があり、民度も高く、より豊かな文化生活を享受しているのに、何故このような社会現象が発生しているのか? そして日本政府はこの惨状をいかに理解し、いかなる対策を考えているのか、果たしてそこには教育行政再生の対する「百年の大計」があるのか? この祖国の悲惨な現状を「国家最大の危機」と見て心配する毎日が続いている。

 かつて自分が育った子供時代の日本は、戦後間もない昭和20年代。当時日本には何も無かった。街は米軍の空襲で焼け野原、大人たちは栄養失調で痩せ細った体を貧しい服で包みながら仕事や食糧を求めて闇市を徘徊する毎日であった。どの家庭にも、お金も食糧も生活物資も無く、焼け残った学校では、教材はおろか教科書、文房具さえ満足に無く、ましてや玩具や電化製品なぞは夢にも浮かばなかった時代であった。しかし、大人も子供たちも欲しい物は山ほどあってもそれに耐え、「明日の日本」を信じながら懸命に働き、あるいは勉強に熱中していた。貧しくて何も無い家庭でも、溢れるほどの愛があり、隣近所からの隣人愛がこれらの困窮生活に耐える力を分け合っていた。

 しかし、今からは想像も出来ない貧困生活が克服され、日本は未曾有の経済大国になり、「豊饒の社会」が出現した。収入が増え社会保障が実施されて、インフラの整備と共に国民の生活が向上した。大部分の国民が快適な住宅に住み、車を乗り回す街にはすべての品物が溢れ、子供も大人も欲しい物すべてを手にできる社会になった。しかし「精神の荒廃」としか云いようの無いこの惨状の出現である。

訪日する度に日本社会の変調の兆しは見えていた。最初に気になったのは、若者たちが自己中心の行動を取り始めたことである。若い娘が電車の中で夢中になって化粧や携帯電話に専念し、お年寄りが目の前に立っていても席を譲ろうとしない事、それを叱りもせずにただ傍観する大人たち。学校からの帰宅途中と思われる男女生徒たちが大声で傍若無人に話し合い、奇声を上げているかと思うと、男の子が通学用の鞄から鏡とブラシを取り出して、無心に自分の髪型を直し続ける、少しだけ席をずらせば、もう一人座れることにも気づかない様子、等々、自分たちが「社会の一員」であることの自覚が全く見られないことである。社会人になったばかりに見える若者たちが、バックから分厚い漫画雑誌やマンガ本を取り出して読み耽ける姿、どのテレビ局も、ゴールデン・アワーの馬鹿騒ぎとしか見えないバラエティー番組の氾濫、無意味としか思えない料理番組、タレントを集めただけで低質なニュース解説、どの局も揃って同じような低俗な番組を終日流し続けている、等々、全く異常な姿が当然としてまかり通っている日本社会にしばしば愕然とさせられている。

江戸末期、日本人は西欧列強の侵略から国を守る手段として明治維新を断行した。国家統合の頂点に天皇を戴き、議会政治と教育行政を整備して義務教育制度を採った。さらに国政近代化のために「高等学校」と「帝国大学」を設立して官僚を育て、国防を担わせるために陸海軍士官学校を設立して、ともに全国から優秀な青年を集めて国費で育成した。その一方、江戸時代からあつた職人育成のための「徒弟制度」を残して社会を支える技術者群を確保し、彼らの質的向上のために小学校への登校を義務化した。

学校では学問のみならず、天皇の名前で教育勅語を発し、日本人としての矜持と社会規範を教え、日常生活を潤滑化させるための公徳心を醸成する徳育教育「修身」とその実践を点検する「操行」を必須科目とした。さらに政府は、全国民に「普遍の愛国精神」を求めて皇室崇拝、国歌、国旗への忠誠心を教えるために、神代から綿々と続く「日本史」を教えた。青年男子には徴兵制を敷き、自分たち自身で国防をまっとうさせるために「軍人勅諭」を発して軍人としての在るべき姿を示した。

家庭では、祖父母、両親、兄弟が日常生活を共にしながら「躾」と「惻隠の情」(老幼への労わり)を身につけさせて、これらの制度を補っていた。

このようにして明治、大正と昭和前期の日本は、「国家形成」と「日本人育成」に「国家が望む国民の姿」を大前提とし示し、その実行に努めてきた結果、日本は世界一識字率が高く、清廉潔白な国民を持った上に、最も安全な国であるという評価を得た。

日常生活は貧しくても、社会の安寧秩序は維持され、国民のすべてが「日本人としての誇り」を持ち、国家の将来に夢を抱き、自己の利益のみならず「国に尽くす」ことの喜びを感じながら日常生活を送ったために、家庭には常に家族愛と敬老精神が溢れ、巷にはいつも礼譲精神が行き渡っていた。

この日本固有の社会が変貌し始めたのは、日本の敗戦が契機であった。進駐してきた連合軍司令部は、軍国主義に走った「帝国日本」の牙を抜くために「新憲法」を押し付け、「民主教育」の美名の下に、戦前の教育方針の大転換を命じた。これに同調した左翼系政治団体が便乗して、教育の根本を覆して「反戦教育」を徹底し、天皇制と国歌、国旗さえも否定した上に、民主的自由教育として公徳心、修身科目も教科から外させた。「愛国精神の扶植」は侵略戦争に通じる、とした教育を実施しさせてきた。日本政府も文部省も一般大衆までもが、悲惨な敗戦体験から、「教育の本質」に立ち入ることなしに、この「新しい民主教育」を「善」として受け入れた。終戦初期には、戦前に教育を受けた教師たちが、新教育方針に戸惑いながらも公私に渡り生徒たちを指導してきたが、彼らが教育界を去り、戦後教育しか知らない教師たちが主流を占め始めてからすべてが変容してしまい、のちには「ゆとり教育」とかで、生徒への授業時間さえ短縮してしまった。その結果、教師たちは生徒をコントロール出来なくなり、親たちは子供の学力を補うために塾へ通わせねばならなくなった。

このような環境の中で育ったのが、現在日本の教師たちと問題児たちの親である。まともな教育環境を知らない彼らには、この問題の根幹が理解出来ずに、共にただオロオロしているだけで、お互いに責任の転嫁をし合っているのが現状である。

彼らと同様に政府も文部科学省も、この国家的危機状況にある「問題の根幹」が認識出来ないために、対処方法が見付からずに未だに「根本的な改善策」を示せないまま今日に至っている。

国際社会で公約した大言壮語を、口元が乾く前に政権を投げ出して反故にする宰相たちが続き、「トラスト・ミー」という「信用できない言葉」を平気で繰り返す首相を育ててきた戦後の教育行政の欠陥を「日本将来の問題」として真剣に考える時期が到来している。

次回、その解決策について私感を述べたい。

2010年1月9日土曜日

「民主党政権の怪」 9-1-2010.

 昨年九月の衆院選では、民主党が予想以上の大勝をした結果、国民は新しい政治の始まりに大いなる期待感と多少の不安感を懐きながら百日余り新政権を見守ってきた。

 戦後60余年続いた自民党政権の果たした役割は、敗戦の灰燼の中からの「奇跡の復興」を成し遂げ、「日米同盟」の確立と「世界第二の経済大国」を創造して、それなりに政権与党としての役割を果たして来た。しかし、過去数年間の自民党の体たらくは、国民全体に限りない閉塞感と政治への諦観を植え付けたのみならず、国民の審判を仰がない総理大臣職のたらい回しと無責任な投げ出しの連続で、国民の徹底的な不審と批判を買った結果が民主党政権の出現であった。民主党の大勝は、決してマニフェストへの共感でも指導部への期待感でもなく、ただ「嫌自民票」の集積の結果であった、と見ている。

 そして新政権が発足したが、国民はまず最初に、鳩山首相の優柔不断な態度と曖昧な指導力、それに加えて意味不明の「友愛精神」とやらを奉じている姿に不安を抱かされた。それに加えて小沢幹事長の「数の力」を絶対視した姿と、強引ともいえる政策介入と党員の引き締め、漏れ聞こえてくる党内の言論統制の実態、等々に「はてな?」との疑問符を感じた。それに加えて、民主党の枢軸たる党主と幹事長に共通した政治資金疑惑、共に公設秘書が起訴される異常事態を招いている現実は、国民の期待を完全に裏切った。その上、この最高幹部二人に対する疑惑について、民主党議員団はおろか地方党員からも何ら批判の声も聞かれないという異常事態をどう判断したら良いのであろう。優秀な若手議員や党員が当然いるはずの党内から、この党幹部の異常事態に抗議や批判のの声が聞こえてこない状態は、民主国家日本にあっては、まさに異常としか表現出来ない状況である。

 国民は「新鮮で清廉潔白な政権党の誕生」を期待して民主党に投票したはずであった。しかしその期待は、すでに百日余りで裏切られようとしている。特に幹事長が率いる六百人余りの訪中団の胡主席表敬は、朝貢外交と比喩される醜態であったし、その直後に来日した習副主席の天皇陛下表敬訪問の強要が発覚し、それを批判した宮内庁長官への生半可な憲法論を振りかざした幹事長の発言は、政治を超越する天皇に対する不遜不敬の表明であり、与党幹事長としての品性のかけらも見られず、皇室崇拝を国是と考える国民の顰蹙を買った。

 外交面では、日本自立の基盤である「日米同盟」に対する鳩山政権の曖昧な姿勢は、米国の対日不信感を醸成し、日本経済の生命線である中近東シーレーンを守るインド洋給油活動の中止は、その理由さえ意味不明であった。その対価として決定されたのが、アフガン政府に対して4千5百億円にものぼる民生中心の経済的支援をする、という決定には唖然とさせられた。これも鳩山総理のみが唱える「友愛精神」の発露なのかも知れないが、汚職疑惑にまみれたカルザイ大統領のみならず閣僚の六割近くが国民から不信視されているアフガニスタン政府に、どうして公正な支援が可能なのか・・・、その辺の説明も無いままである。

 沖縄の米軍基地に関しても、軍備強化に邁進する中国と核装備を進めつつある北朝鮮の危険性が消えた訳ではなく、まして彼らの脅威に対抗出来るだけの抑止力が日本に装備された訳でもないのに、駐留米軍の移転を求めている政治感覚を心配せざるを得ない事態が到来している。
 沖縄と日本各地に駐留している米軍の存在は、いまだに台湾併合を目指す中国と南侵攻の野心を捨てていない北朝鮮軍への抑止力であり、米軍の存在が東南アジア、中近東、アフリカの平和維持に貢献している現実を認識するならば、日本国内の事情、まして連立政権与党の反対論に耳を貸して、国際政治の大局を見誤っていること自体が異常であると云わざるを得ない。筆者は決して自民政権の再登場を望んでいる訳ではない。しかし、この民主党政権の異常性にだけは、より多くの日本人に注目して欲しいと願っている。

 新年早々の「明るくあるべきブログ」が不満たらたらの内容になってしまったが、南十字星の下、ワインを楽しみながら祖国日本を心配し続けている豪州太朗の小言に、「このような意見もあるのか・・・」と一考して戴ければ幸甚に存じる次第。皆様からの賛否両論の意見をお聞かせ下さい。

2010年1月2日土曜日

日本の皆様、謹賀新年。

 本日、平成二十二年元旦より私のブログを開設、シドニーから日本の皆様に、オーストラリアから見た日本の社会現象、特に政治に関する色んなコメントを定期的にお送りしたいと思っております。
 海外在住40年、シドニーではすでに31年目に入りました私には、日常の日本に関する情報に接して、日本の皆様が「常識」として感じていられる社会、政治現状に多々「異常性」を感じることがあります。中には日本独特の、日本ならではの良い点も沢山ありますが、どうしても理解不可能な不思議な現象を大部分の皆さんが常識として認められている事が沢山あります。それらの相違点を述べると共に、皆様が不感症になっていられるポイントを、私個人の意見として述べさせて戴くと共に、皆様のご意見を伺いながら意見の交流の場所にさせて戴きたいと思っております。私見を大いに述べさせて戴くと共に、皆様の盛大なご意見を拝聴させて戴きたく存じております。私の職業は国際交流関連、年齢は壮年過ぎ、身分はバツ一、一人暮らし17年目の独身です。では、宜しく、豪洲太朗(ペンネーム)