2011年2月12日土曜日

地球に一大異変が・・・

どう見ても地球全体が異状を来たしているとしか思えない「気象異変」が続いている。こんな異常事態が続いていては、果たして今8ヵ月を迎えたばかりの初孫レネーが成人するまで、この地球がもつのかどうか、心配でしょうがなくなってきた。杞憂であって欲しいと願いながらこのトピックスを書く。
 まずオーストラリアの現状である。小筆がこの大陸に来着したのが32年と4ヶ月前、ちょうどオーストラリア全体が旱魃の最中で、農産物や牧草が枯れて、飼料のなくなった農家は羊や食肉牛を殺処分していた最中であった。その後、10年まえ前後から微量の降雨が見られるようになったが、基本的には旱魃状態が続いて、主要河川の減水が続き、全国規模でブッシュファイヤー(山火事)が頻発した。
 しかし、3年前から旱魃地帯に異常な豪雨が降り始めて洪水騒ぎに転じた。一昨年には、オーストラリア最大の河川、マレー・ダーリン河が度々氾濫して各地流域に洪水を起こし始めた。昨年12月初旬に降り始めたクィーンズランド州(QLD)の雨は、広大な旱魃地帯を洪水で覆うまで降り続いた。その面積は欧州全域に等しい範囲だそうだ。それに引き続いたクリスマス時期の豪雨は、内陸部の地方都市を鉄砲水で襲い、70名近い死者を出した。ある死体などは彼の村落から80kmも離れた下流で発見された。小田原から東京まで流された計算になる。
 すべてのインフラは止まり、停電は一瞬にして文明生活を野生に戻した。皮肉にも淡水の海の中で「飲み水」に窮する生活が始まった。被害者のほとんどが外界との連絡を携帯電話に頼っていた。しかし、停電は「充電」という機能を奪ったために、文明社会との連絡手段が断たれた。流水に流されてワニや毒蛇、無数の害虫が、人間が避難している高台や屋根に流れ着いた。農地は一面に水没して家畜たちは飢え始めた。オーストラリアの農産地帯、特に砂糖キビ畑は壊滅状態になり、露天掘りをしている炭鉱のほとんどが水没した。世界の70%に近い燃料炭を賄う産地である。日本のみならず世界中の電気代の高騰は間違いない。その上、クリスマスには超大型のCyclone「ターシャ」が襲い、2月3日、4日には超超大型Cyclone「ヤシー」が、瞬間風速165kmの猛スピードで同地方を駆け抜けた。 QLDの首府、ブリスベンの側を流れる「ブリスベン川」も洪水に襲われて、ビジネス街の中心部が完全に水没した。5.6mの増水で川岸にあった有名なレストランがそのまま川流に飲み込まれた。これも史上始めたのことだそうだ。
 この期間、Ⅰ千km南方に位置するシドニーは、連日36度を越える湿度の高い猛暑に襲われ、その酷暑は2週間も続いた。これも観測史上初めてのことだそうた。シドニー西方320kmにあるカウラを流れるラクラン川は、60年余りも川底を晒していたが、今回の豪雨で12m上にある橋桁を流水が洗ったそうである。
 メルボルンも例外ではなかった。一昨年前までは、毎年山火事に恐れおののいていた乾燥地帯が洪水に襲われ、住民はなすすべも無く屋根に上り救助を待った。西オーストラリアでは、異常な大気乾燥が続き、数限りない山火事で多くの住宅が塵灰と化した。
 オーストラリアの主要農産地を襲った洪水は、シドニーにも食料品の高騰で影響を与えた。まず、1kg 、$1.40前後であったバナナが$6近くに暴騰、果物、野菜、食肉の軒並みに4-5倍に高騰した。食パンの値上がりも予定され、ジュース、牛乳等の飲み物もいずれ値上がりするとの予測で、市民生活への影響は計り知れないものがある。

 世界の異常気象の兆候は、20年以上前から顕著になっていた。まず最初に、スイス・アルプスの氷河が後退し始めた。1991年8月、当時付き合っていたスイス人女性ディザイナーが休暇で故郷に帰った時、電話で自分が住んでいた時期には村のすぐ側まであった氷河が消えてなくなったので驚いた、と云ってきた。ちょうどスイスのエッツ氷河の融解で5,600年前の「アイスマン」が発見された年である。翌年1月、出張でドイツのフランクフルトに行った時、アルプスの異常高温で雪が溶けマイン川が氾濫寸前になっていて恐しい思いをしたことがあった。その後も欧州の夏冬を問わない異常気象は続き、今日に至っている、
 以後、アルプスのみならず、ヒマラヤの氷河湖の融解による崩壊が心配され、バングラディッシュとパキスタンは巨大な鉄砲水の来襲に恐れおののいている。シベリアの永久凍土が溶けてマンモスの死体が現れ、北極海の氷が溶け出して15世紀の大航海時代以来捜し求めていた「北極海航路」が利用可能になった、とのニュースが続く。南太平洋の島嶼群の水位が年々上昇して、今では満潮時に生活圏まで海水に浸かるようになったそうだ。南極では雪棚が溶けたために地表が露出して苔が生え始め、氷棚から流れ出した四国くらいの大きさの氷山が、幾つもニュージランドの南端に接近したのも最近の話である。中南米での異常降雨と鉄砲水、地滑りによる大被害も報告され、今冬の北米の異常寒波は史上に例を見ないものらしい。中国南部の異常降雨と洪水の頻発はすでに常態化しており、日本の夏の異常高温もさることながら、今年の大寒波と異常降雪も、世界各地で頻発する地震と津波、地球規模で活発化している火山活動もただ事ではない。
 地球創造以来36億年、無限の星を有するこの大宇宙で唯一の緑の星「地球」、この奇跡の地球にたった5万年前に誕生した人類は、「火」を使うことで文明を育てながら、無数の動植物と共存してきた。そして260年前、人間は蒸気機関を発明して「化石燃料」の大量消費時代に入った。以来、地表の異変が進行しながら今日に至っている。もしかすると、この化石燃料イクオール「CO2」は、人類第二の「禁断のリンゴ」であったのかも知れない。
 エルニョーニョ、ラニーニャ現象、と聞きなれない言葉が新聞を賑わしているが、要するに地球上の異常気象の学者用語で、地球規模の気象変化に変わりは無い。誰が何と云おうと、地球全体の異常化は進行している。その行き着く所は不明であるが、年毎に住み辛い環境になりつつあることだけは確かである。米中両公害大国には関心が無い「CO2削減問題」も、鳩山元総理が国連で25%自主削減の大法螺を吹いたが、世界の指導者も日本の後継総理さえも、まるで興味を示さないで「空手形」に終わった。
 しかし、近来の異常気象の進行は現実であり、実際に多くの人間と動植物に災害を与え続けている。この現象を人類は「神の警告」として、謙虚に、そして真摯にに受け止め、叡智を絞って対策を講じる必要がある。この美しくて掛け替えの無い地球を、子孫のみならず、宇宙の奇跡として、永遠に存続させる努力をすべきである、と思うのだが・・・。
 今回、オーストラリアの全国規模的な大災害を見ていて、オーストラリア人が幸せであると思ったのは、ジラード首相も野党の党首も、QLDの州首相も、災害発生の翌日には連れ添って現地に入り、ヘリコプターで被害状況を実見し、次々と被災者と会話を交わしながら、矢継ぎ早に救済措置指令を出していたことである。真の「ステーツマン」の姿を見て感動したものである。と同時に、「果たして日本では・・・」と無い物ねだりをしてみたが、「所詮、無理な願いだ・・・」と諦めて自棄酒代わりのワインを飲み始めた。

2011年1月22日土曜日

出でよ、英傑!!

 平成23年の元旦を新居で迎えた。シドニーの中心部から電車で30分、閑静な郊外といえる。引越し荷物も片付き、やっと一息着いたら、当然のごとく「憂国の情」が戻ってきた。日本の「財政赤字」である。

 「借金をして贅沢をする」、「他人の金を国民にばら撒く」、「収入を超えた出費を重ねる」、歴代の日本政府は子供でも判るこんな馬鹿げた政策を長年繰り返してきた。
期待されて政権交代を実現した民主党もこの政策を継承して、今では政府と地方自治体の借金総額は一千百四十一兆円を超えているそうだ。それに加えて、集計もされていない行政法人個々の膨大な借金があり、国民一人当たりに換算すると、おそらく一千万円近い金が、当人の了解なしに累積されてしまった事になる。国民個々人では絶対に返済不可能なこの「日本政府の借金」を憂うこと頻りである。

 日本の「財政赤字」が破砕限界に達した場合、まず第一に想定されるのが、日本の対外信用の失墜に伴う「円価、株価の大暴落」であろう。物価高騰による国内経済の大混乱は当然の事ながら、海外からの投資も当然途絶え、資本引揚げも必ず起こる。円安による輸入価格の高騰も、国民生活に重大な被害を与える。100兆円あると云われている「外貨準備金」も、あっという間に支出されて底をつき、1,450兆円に近い個人資産もすべて国債に喰われて「死に金」となる可能性が高い。
全量を輸入原料に頼っているエネルギー料金(電気、重油、ガソリン等)、公共料金、食料品の高騰は当然のことながら、輸入原材料を使用している輸出産業はコスト高で生産を中止せざるを得ないであろうし、知的財産使用料も民間企業の海外活動も当然コスト高になり制限される。 毎年政府が赤字補填で依存している「国債発行」は行き詰まり、当然7%前後とされる外国資本所持の「日本国債」も「利払い不安」から手放されるだろう。必然的に国際金融市場からの資金調達も困難になり、今までの対外債務が膨張する。対外債務の返済延期を申し出た場合、必ず「在外資産凍結」という対抗手段で報復されるのが歴史の常だ。韓国のようにIMF基金に頼る方法もあるかもしれないが、IMFの資金規模から推測して、日本経済の救済は困難であろう。

円価を例にとると、明治4年、為替相場の対米円価は1ドル1円で始まった。昭和16年、太平洋戦争の開始直前まで16円であった。しかし、敗戦後のブレトン・ウッズ協定で360円の固定相場に移行、昭和60年のブラザ合意以降240円であったものが120円になり、現在は90円代で推移している。円高は輸出には不利だが、輸入のメリットは計り知れないほど高い。
小筆が就職したのは昭和37年、当時はまだ360円の固定相場であったが、ドル需要が強く、闇レートでは500円前後で取引されていた。学生時代、中元歳暮期にデパートでバイトをしていたが、日給は270円。同年代で知合いの米兵が新橋の「靴磨き」に1ドルのチップを渡したのでびっくりした事があった。就職前に決まっていた初任給が、税込み月額9,800円($27)前後であったからだ。若くして「円安の屈辱」を痛感した経験を持っている。

日中戦争と太平洋戦争、あれだけの大戦争を戦った結果、敗戦時には国内の産業施設はすべて焼失してしまい、財政赤字は一般会計の9倍、奇しくも現在の財政赤字と同率であった。経済は行き詰まり、円価は暴落して16円から360円になった。必要物資を輸入したくても「外貨」が無かった。国民生活は困窮の極限にあり、すべて米国からの援助物資と金融支援に頼った。円価の凋落は日本経済の破滅を意味している。
それを救ったのは皮肉にも金日成で、朝鮮戦争による「戦争特需」で日本経済は再生できた。
当時、日本の耐乏生活は、現在の日常生活からは想像も出来ないくらい貧しかった。満足な食糧もなく、衣類なぞはすべて「古着」で、下駄や草履を履いて通勤通学をしたものであった。しかし、国民はそれに耐えて懸命に働き、戦後復興に邁進した結果、今日の「世界一豊かな国家」を創造した。
しかし現在の政治と人心の荒廃は、この国家存続に関わる重大問題「財政赤字」に鈍感であるだけでなく、国全体が「目先の幸せ」に眼がくらみ、毎年借金の累積を重ねて行く政府に誰も文句を云わない。この日本政府と国民の「投げ遣り的な神経」をどう理解したら良いのだろう。

国家予算の半分以上を借金に頼り、期待された「埋蔵金」も限界にきている。支出抑制も無駄遣いの排除にも関心が払われず、野放図な支出が続いて「財政赤字額」は鰻上りに増えているが、誰も是正しようとしない。今年度の税収予測はたったの38兆円なのに、国債発行44.3兆円を計上して、一般会計予算、92.5兆円を執行しようとしている。これで国債発行残高は、GDPの1.8倍になるらしい。日本の借金総額は、平均税収の24年分近くになる。「財政赤字」が破砕限界に達していることは、素人目にも明らかである。これが健全な「国家運営」と云えるだろうか?

菅内閣は「増税」を検討しているらしいが、国民に財政赤字の結果責任を押し付けた上に、増税分まで負担させようとしている。いくら増税をしても「支出抑制」をしない限り「財政赤字」の根本は解決されない。
政府が「増税」を打ち出す前にやるべき事は、支出抑制である。最初に、行政組織の徹底的な見直しをして「小さな政府」を作ることである。「小さな政府」には、当然国会議員、地方議会議員定数の「大幅削減」と歳費、議員経費の低減があり、「道州制」を導入して国、地方の官僚数を削減すると共に、行政法人制度を徹底的に見直して特別会計の大削減に踏み切ることだ。政党助成金なんて代物は、第二の小沢一郎を育てるだけだから即中止する。何もしない「野次馬政党」に血税を使うなんてとんでもない話だ。

財政赤字が「安全圏」に戻るまでは、特別会計や、公共事業、文教振興、農業保障等を含むあらゆる予算、補助金、支援金制度を中断し、ODAを含む一切の海外支援も停止する。そして、国民にも協力を求めて、子供手当てを含む社会福祉関連の支給額も最低限に押さえることだ。敗戦直後の社会状況を想い起こせば、国民は少々の耐乏生活には耐えられるはずである。何故なら、日本の財政が破綻したら、すべてがなくなるのだから、改善するまでの間、国民にも外国にも我慢してもらうのは当然だ。日本国が崩壊したら、すべてが無くなるのだから我慢するしかない。

現在の日本は、国家回天の決意で大改革を実施して支出削減を図り、現況の「財政赤字」から脱却しないと未曾有の大混乱が間違いなく起こる。この瞬間にも国家危機は進行しており、「時間切れ到来」もカウントダウンの段階に入っている。現状を放置すれば、早晩日本は財政破綻を引き起こし、五等国以下に位置づけされて、回復不可能な国家になり下がる。すでに贅沢を経験している国民は、敗戦直後の日本人以上の「茨の道」を歩まざるを得なくなる事だけは確かである。

それを防ぐ唯一の方法は、英傑の選出で「救国内閣」を組織して、彼らの改革手腕に期待するしかない。「平成維新」の実行である。
しかし誠に残念ながら、現在の日本政界にはチャラチャラして小細工にだけ長けた輩は腐るほどいるが、真の宰相の器と資質を兼備する人物は見当たらない。この難局に挑むには、腹が据わって蛮勇があり、尚且つ広範な世界観を備えた有能な「ステーツマン」、すなわち「稀代の英傑」が必要だ。
今年も「英傑出現」を待望する日々は続くだろうが、果たして神は祖国に神風を呼び込んで下さるだろうか?

小筆の新住所は、1/3 Reserve Street, West Ryde, NSW 2114, Australia.
Tel/Fax: +61-2-9874-2778. Blog: http://goushutaro.blogspot.com/

2010年12月5日日曜日

若者が消えた国

近年、訪日する度に「何かが違っている・・・」と感じることが多々ある。勿論、バスや電車の中に高齢者が溢れている風景もそのひとつかも知れないが、一番大きな違いは、どうも「若者の数が圧倒的に少ない」ことから来ているらしい。勿論、青年男女、大学生らしい姿も見えるのだが「精神的に溌剌とした若者」が消えてしまったのだ。
 この現実は、日本の将来に関わる重大な問題であるからトピックにした。

現代に生きる若者たちからは、小筆が学生時代、神田周辺に満ち溢れていた若者たちの「燃え上がるような覇気」が全く感じられないのである。当時は、真面目な学生も、バンカラな奴等も頭が空っぽの体育会系の連中も、等しく漂わせていたのが、眼をギラギラさせた、野獣を思わせるような若者特有の「覇気」であり「熱情」であった。
この現象は、学生のみならず、政界にも、会社人間にも、建設現場で働くアンちゃんたちにも、繁華街で働く姐ちゃんたちも、すべての若者たちが発していた殺気のようなものであった。彼らのすべてが、何か気に入らない事でもあれば、所構わず「取っ組み合いの喧嘩」も辞さないという、日本人若者たち独特の気概を持っていたからであろう。だから、酔っ払いの喧嘩などは日常茶飯事で、誰も驚かなかった。

 国民の40%が65才以上という現代日本。それでも「若者たち」は30%以上いるはずなのに、あの懐かしい「覇気満々」、「野生むき出し」の若者の世界が、全く消え去っているのだ。折に触れて、大学生や高校生、若い社会人と話す機会があるが、彼らは一様にこぢんまりしとした紳士淑女であり、多分インテリで優等生なのであろう。しかし、彼らの世界からは野性味が消えただけではなくて、「人生への夢」まで聞こえてこない上に、「大目標」に向ってひたすらに驀進していく覇気が感じられないのだ。 多分、現状に満足しきっていて、それ以上の世界を望んでいないのではないか・・・、と心配である。要するに、ほとんどの若者が「無気力」なのである。
 
戦後も戦前も、いや徳川末期の頃から、日本には自分の信念に従って縦横に働き、死力を尽くした若者が沢山いた。そして、野獣のような彼らの活気が現代の日本を育ててきた。徳川末期、歴史に登場した坂本竜馬や吉田松陰、新撰組や勤皇の志士たちも、すべての若者たちが自分の信念に従って祖国のために生命を賭して戦い、新しい日本を切り開いてきた。明治維新以降の若者たちも「国家のために」、日清、日露戦争で戦い、祖国を守るために戦場で生命を捨てた。太平洋戦争でも、多くの若い兵士たちが、欧米列強の搾取に喘いでいた「アジア植民地の解放」に燃えて戦い、そして死んでいった。日本の敗戦後も、インドネシア独立のために二千名以上の日本人将兵が残留して、インドネシア独立軍を助けてオランダ軍と戦い、その半分以上の日本人若者たちが生命を捧げた。日中戦争と太平洋戦争中、海外で戦った日本人将兵は620万人におよび、散華した将兵の数は240万人を超えている。 

そして敗戦後の日本人若者たちは、国内の「戦後復興」のために瓦礫の中から立ち上がり命がけで働いた。町工場の若者たちは、進駐軍が捨てた空き缶を叩き伸ばして玩具を作り輸出さえした。若き商社マンたちは、外貨を稼ぐために安月給に喘ぎながら、命がけで世界中を駆け巡り、市場開拓に命を捧げて今日の日本経済の基礎を作った。
 日本経済の基盤が整うと、若者たちは国家権力との闘争にのめり込んで行った。「警職法反対」、「安保反対」、「大学紛争」、「全学連」、「革マル」、「赤ヘル」、「安田講堂事件」、等々、何が理想で、何が不満であったのか、さっぱり解らないが、彼らは「自分たちの主張」のために「官権との闘争」に挑み、エネルギーを発散させた。国会議員とてしかり、彼らの幾人かは、今でこそ政界の長老格として乙に澄ましているが、若い頃には「青嵐会」などと称して徒党を組み、国会内で暴れ回ったのである。下町工場の若者たちは、日中は黙々と働き、夜の訪れと共に「暴走族」に変身、夜中の道路を我が物顔で疾走して憂さを晴らした。
しかし彼らのすべてが、一様に自分の本分を守り、学生は勉強を、工場の兄ちゃんたちは技術の修得に、社会人たちは各々の会社で懸命に働いていた。その上での「憂さ晴らし」であったが、彼らの「エネルギー」が日本の国力と経済の底力になった。当時は、社会全体が手を焼く「若者たち」が山ほどいたのである。
この若者たちのエネルギーが沈静化すると、次世代の若者たちは挙って海外放浪に出かけて行った。これもまた、日本人若者のエネルギーの噴出現象であったのだろう。
 
 若者の行動力は、国家将来のバロメーターである。アメリカの若者たちは、人種差別政策を変え、ベトナム戦争を中止させ、ドイツの若者は「ベルリンの壁」を打ち砕き、イスラエルの若者たちは、アラブからの祖国防衛に生命を捧げ、エンテべ国際空港から奇蹟の人質奪回を敢行した。ロシアの若者は「共産主義連邦」を崩壊に導き、韓国の学生は「独裁主義」から民主国家を導き出し、中国の若者たちは「共産党独裁政府」最大の脅威になっている。それに反して、若者の姿が全く見えない北朝鮮は、すでに「死に体」であり、金王朝の崩壊も時間の問題である。
しかし現在の日本には、このように元気な若者はすでにいなくなり、何か悟り澄ましたような、まるで羊のように大人しい「若者の形骸」のみが彷徨しているような社会になってしまった。一体全体、日本の若者たちは、何処へ消えてしまったのか?

 現在、日本を取り巻く政治環境は危機的な状況にある。国内では、打ち続く民主党政権の体たらくも、野党の不甲斐なさも、沖縄の米軍基地の問題も、小沢一郎の資金疑惑も、官僚の無駄遣いも、中井議員の皇室不敬問題もあり、国際的には、北朝鮮の拉致と核開発、続発する南鮮への暴挙も、中国の尖閣諸島への野心も、ロシアの北方領土不法占拠も、韓国が占拠する竹島問題も、不逞の輩が繰り返す捕鯨妨害もあり、若者たちの怒りの対象になって然るべき社会問題が山積している。
しかるに、これらの重大問題に怒りをぶちまける若者の姿が見えない。若者たちが社会の不条理に義憤を感じなくなったら、その国の未来は消滅したのも同然である。
何故、現代の若者たちは、これらの問題に対して「危機意識」をもって抗議し、デモらないのか? 若者たちの政治無関心と抗議行動の沈滞は、民族衰亡の兆候であり、怒りを忘れた若者たちは国家の滅亡を招く。
 
その原因が、昨今の政治に由来するとしたら、これは日本民族の将来に関わる重大問題である。
小泉内閣以降、歴代内閣の無能ぶりは国民の夢を奪い、集票と政治資金集めに汲々としている国会議員たちの浅ましい姿、公約を平気で覆す政党、国際社会で恥も外聞もなく平気で法螺を吹き回った首相たちが続き、その尻拭いさえしない後任首相たちの無責任さ、沈船から逃げ出したネズミたちが、次々と作った新政党が、何ら画期的な新指針も政策も提示できず、全くの無策を露呈したまま、議員歳費のみを貪っている現状、これらに加えて、不法進入漁船問題で大局を見失った小細工で取り繕うとした政府、どのひとつを取り上げても、日本国民の信頼を失ったのみならず、国際社会での信用まで失墜させてしまった。これらのすべてが、若者たちの政治への無関心を招いた主因になっている。国政選挙があっても「投票すべき政党も立候補者もいない・・・」、これほどの悲劇があるだろうか? 現在の日本は、この重大な社会問題に直面しているのに、事態に頬被りしたまま、無策ぶりを繰り返す現政府を憂いている。
この醜態ぶりでは、若者に「夢を抱け」と云うのが、どだい無理なのは充分承知しているが、肝心の政府に危機意識が無く、重大事に鈍感であり、対策さえ打ち出せない現実を何と理解したら良いのであろうか?

時、すでに師走、今年も日本からの明るいニュースを待ち望んだ11ケ月間であったが、国民栄誉賞ものの「はやぶさ帰還」の快挙以外、不幸にも暗いニュースばかりで、特に民主党内閣の無策ぶりには、大いに落胆し続けであった。だからと云って、他の政党が頼りになる訳ではなく、暗澹たる憂鬱さに困惑している。

若者たちよ、元気を出して立ち上がれ、さもなければ「日本の未来は闇だ」。
「俺が行かずば誰が行く・・・」、戦国武将、片倉小十郎、白石城主の言葉を添える。

2010年11月1日月曜日

ハバロスク墓参

 10月18日、三泊四日のハバロスク訪問を終えて成田空港に戻ってきた。すでに冬景色で荒涼としたシベリア上空を飛び、日本海を越えて上空から緑豊かな牡鹿半島が望見できた時はほっとした気分になった。「父の終焉の地」訪問の事のみならず、街全体の後進性が著しく、貧しい住民の姿、特に治安が極度に悪いと云われている極東ロシアでの四日間の生活に緊張していたからであろう。飛行時間、たったの2時間半なのに、なんと遠い国であろうか・・・。改めてシドニー生活に感謝した次第でもあった。
 
 今回の訪ロは、10年前にモスクワまで行って捜し求めたが不明であった「父の埋葬場所」が「ほぼ確定」出来た、という元ソ連邦平和基金、ハバロスク支部書記長、ガリーナ・ポタポバ女史からの連絡が契機であった。

 父、戸倉勝人は、享年46才で昭和24年11月3日、ハバロスクで死亡した事は、モスクワの「歴史文書保存センター」で見つけた父の個人資料とそれに添付されていた検屍報告書で確認出来ていたが「埋葬場所」の記載がなく、その追跡調査をポタポバ女史に依頼していたのだ。それが10年後の今年初頭、女史からメールで「消去法でいくと、ハバロスク第二市民墓地、日本人地区しか無い・・・」とのメールを受けたので、父の「61年忌」にも当たる今秋、墓参を決めたのであった。

 父は、日露戦争の翌年、姫路酒井藩馬廻り番頭(260石、10人扶持)、藩校「好古堂」肝煎り役(事務局長職)、兼漢文教授職を6百余年継承する戸倉家の長男で、明治維新で士族を解かれた祖父勝淑の長男として大連で生まれた。以後、満鉄勤務の勝淑の下で小学校三年生の時まで大連で育ち、青島に移転して青島日本人小学校、青島中学校の二期生として卒業、上海にあった東亜同文書院を卒業後、小倉第12師団歩兵14連隊で「一年志願制度」により「将校教育」を受けて予備少尉になった後、上海に戻り満鉄に就職した。その後、大連本社の調査部に配属されて「満州建国」を研究する「大雄峰会」に所属、関東軍との連携で「自治指導部」を結成後、満州国建国を成しどけた時の基幹メンバーの一人であった。建国後は満州国政府交通部の要職に就き奉天、ハルピン、牡丹江、吉林、新京、海城、等々、高級官僚として各地を巡る中、姉と小筆、妹が生まれた。やがて父は、日、満、漢、朝鮮、蒙古民族等、5民族の調和を図り、王道楽土建設を目的とした官民一体の国民教化組織、「満州国協和会」の幹部となって吉林、承徳、終戦の年は、首都新京(現在の長春)の協和会本部調査第一部長の要職にあった。

昭和20年6月、関東軍の「根こそぎ動員」で軍籍に戻り、鮮満国境の街、延吉で終戦を迎えた。その後、ソ連軍の捕虜となり牡丹江に移され、11月末、極寒のシベリア鉄道を貨物列車に乗せられて、一ヶ月近い旅の末にモスクワ近くのタンボフ州ラーダに移送、6ヶ月後に中央アジア、カザン近くの「エラブカ将校捕虜収容所」に移送されて23年6月末まで収容された。その後、日本への帰還途中、ハバロスクで降車を命じられて16収容所14分所に抑留されて翌年11月3日に死亡した。
モスクワで入手した父の「検屍報告書」によると、死亡2時間前に1893特別病院に運び込まれ、「急性心臓欠陥で死亡」とされ、死体解剖の結果報告が添付されていたが、症状は素人眼にも判る完全な栄養失調による過労死であった。

 当時のシベリアは、ソ連に洗脳された日本人捕虜が組織する「民主委員会」が各収容所の実権を握り、戦前の高級官僚や高級将校の前歴を持ち、洗脳を拒んだ同胞捕虜たちを「極反動分子」として、毎夜の「吊るし上げ」、「反動ノルマ」という過重な「重労働」と過少な「反動食」を与えて嗜虐していた。洗脳、自己批判を拒絶した父もその中の一人にされ、それが原因で死亡した。
青島中学校時代、剣道部主将として日本へ遠征、京都武徳会中等学校剣道大会で全国制覇をなした剣道四段、大学時代も野球、陸上等スポーツで鍛え抜かれた壮年の父が、ハバロスク移送後たった1年3ヶ月間で過労死させられたのだから、想像を絶する過酷な扱いを受けたことは明白であり、小筆が調べた生還者の手記や母への挨拶状等にも、それらしい事情が記載されていた。

 終戦の翌年、我々家族が北朝鮮鎮南浦の疎開先から38度線を徒歩で越えて、母の里、山口県花岡に引揚げて来た時は、父の生死は不明であった。やがて父から「捕虜通信用」とロシア語と日本語で印刷された往復はがきが届き、父の生存が確認できた時の喜びは、未だに忘れられない快事であった。その後、父からの葉書は全部で11通届いたが、どの葉書にも居住地の記載は無かった。父からの葉書はしばらく途絶えていたが、昭和25年5月、下松市役所経由で父の「死亡公報」が届き、「陸軍少尉戸倉勝人氏は、昭和24年10月23日、ソ連、シベリア、ハバロスク14分所にて戦病死を確認」と記された「死亡公報」が届けられ、我々家族は悲嘆の底に叩き込まれた。
その後、母は女手一つで、幼かった姉と小筆、そして妹を育て上げてくれ、寡婦のまま81才で父の元に身罷った。

 母の死後、小筆は父の経歴とソ連抑留時の足取りを調べるために、母や親戚、父の友人たちからの話と自分自身の記憶を辿り、国会図書館の保管資料、一般出版物等を読み漁り、6年余りの追跡調査と裏付け資料で確認出来た結果を「朔北の影」と題して自費出版した。その中で、シベリアにおける日本人捕虜間で発生した醜い葛藤を知り、吹き荒れた「赤い嵐」に巻き込まれ、「極反動」とされた父たちの神々しくも惨めな生活と、「民主化運動」の美名のもとに利己的な醜態を繰り広げた浅薄な日本人捕虜の姿も垣間見ることで、やるせない想いに駆られたものであった。
 ソ連抑留中の父に関する事情は、20代後半までにはかなり理解していたつもりであったが、母の苦悩を思いやって意識的に父への言及は避けていた。しかし、実際に詳細を調べ始めてシベリア移送後の「民主委員会」とその手下のアクチブたちの「反動者」に対する理不尽で卑劣な取り扱いに憤りを感じ、「奴等に何とか復讐してやりたい・・・」と思い、古い新聞のコピーを調べた結果、彼らのほとんどが、昭和24年10月31日に舞鶴に引揚げていた。彼ら6百人余りは、「日本新聞」編集部員、各収容所で威を張った「民主委員」と「アクチブ」たちで、彼らの姓名と引揚げ先も調べた。

スターリンは、一方的に日ソ中立条約を破棄して参戦し、ポツダム宣言に違反して、満州、樺太、千島列島に居留していた日本軍人と民間人男性、60万人余りのすべてをソ連邦各地に拉致して強制労働に従事させ、五年余りの抑留期間中に6万人余りの日本人捕虜を死亡させる大惨事を起した元凶であった。
彼は、日本軍の降伏とともに、日本人捕虜を洗脳し、共産主義教宣のためにソ連政府国際部副部長イワン・コワレンコ赤軍中佐に日本語紙「日本新聞」を発行させた。この新聞は、教育程度が低くて世間知らずの若い捕虜たちの心を捉え、彼らの洗脳に役立った。それを利用したのが、戦前「治安維持法」で検挙されたり、特高に「ぱくられた」経験を持つ左翼思想嫌疑のインテリ兵士たちであった。彼らは、このレッテルをコワレンコに売り込み、日本新聞の編集部にもぐり込んで、同胞が苦しんでいる最中に飢餓と強制労働から逃避した。彼らはソ連に媚びるために「共産主義礼賛」と「スターリン崇拝」の記事を書き続けた。その上、自分たちの忠誠心を見せるために「前歴者批判」と称して、同胞捕虜の前歴を暴き、非道のリンチを加えて多くの同胞を死に追いやり、抑留中の将兵死亡に少なからぬ責任を有している。

彼らの中には、「チタの帝王」として日本人捕虜に君臨した袴田陸奥夫がおり、日本新聞編集長でシベリア天皇と恐れられた浅原正基、日本人捕虜たちに「スターリンへの感謝状」への署名を強制した日本新聞宣伝部長の高山秀夫がおり、編集部員、宗像肇、吉良金之助、土井裕助、矢波久雄、小針延次郎たちと彼らに躍らされた多くの若いアクチブたちがいた。彼らのすべては、この「24年10月末帰還グループ」に前後して日本に生還しているが、あれほど彼らが煽った「日本の共産主義化」実現への努力もせず、安穏とした庶民生活に戻った。日本政府は、彼らのシベリアでの非道を問罪していないが、残された遺族の怒りは決して消えるものではない。「父の死亡日」記録相違の謎も、10月21日にハバロスクを出発した彼らグループの「見越し報告」であり、父を死節に追い込んだ下手人たちである、とみている。

 生前、母が「あの人たちは、生き残るために自分をソ連に売り渡したのでしょうが、お父様は、我が家に相承する清和源氏以来の武士道貫徹のために、師道に殉じられたのだから、誰も恨んではいけませんよ・・」と諭された事があった。
 小筆、齢70を超えた現在、シベリアの扇動者たちを恨む心も癒え、憎かった彼らが幸せな人生を過ごしてくれただろうか・・・、と思えるようになった事を喜んでいる。

2010年10月3日日曜日

国難と憲法九条

やっとシドニーにも春らしい気候が戻ってきた。日本の酷暑に比べて今年の冬は、史上まれなる大降雨と蝗害、強風に襲われた一冬であった。オーストラリアの春九月、何が楽しみといっても、恒例の「カウラの桜祭り」に尽きる。
 22年前、日本庭園の完成により始まった二千本の「桜並木道」建設と「桜祭り」は、年毎に盛大になり、桜木は千本近く、桜祭りには毎年三千人近い参列者が集ってくれて、日本から寄贈された桜木と満開の桜花、それに加えて各種日本文化の紹介を多くのオーストラリア人たちが楽しんでくれている。小筆も日本からの来訪者と共に桜祭りを堪能して来た。

 この素晴らしい「桜祭り」に比べて、日本では憂鬱な事件が連続して、おちおちしていられない暗い気持ちでいる。その第一は、民主党の党首選であった。第二は、証拠改竄隠滅での主任検事、地検幹部の逮捕、その上外交問題にまで介入する検察への不信、第三は勿論、尖閣諸島海域への中国漁船侵犯船長の釈放問題と中国政府の対応である。

民主党党首選での小沢一郎敗北はグット・ニュースで大歓迎であった。彼のような皇室不遜、独断狭量、媚中、媚韓外交を臆面も無く繰り返し、日本の安全保障に関する国際感覚が全く欠如した上に、政治資金疑惑に塗れた人物が「日本国首相」に就任したら、日本の信用はおろか国家滅亡に繋がる舵取りをするに違いない、と確信していたからである。
公金である「政党助成金」累計29億円余りを長年にわたり巧妙に私用し続けてきた小沢一郎への疑惑は、素人の小筆でさえ充分に犯罪性を感じているのに、天下の検察が何故これを「立件起訴」しないのか、未だに疑問に思っている。その推測として、小沢の資金疑惑の「事情聴取」をした検事の一人に、元厚労省局長起訴時の証拠改竄と隠滅容疑で逮捕された元主任検事がいた事実である。四度にわたる事情聴取時に、検察と小沢議員の間で、何か「裏取引」があったのではないか、と疑問視している。それにも増して、70%以上もの国民に疑惑を抱かれている小沢一郎自身が、未だに公職である議員を続けていられるのか、本人の人格と良識も疑っている。東京第五検審の判定に期待する事、大である。

この小沢事件も頭痛の種であるが、それにも増して、国際法を無視した中国政府のアグレッシブで貪欲な「ごり押し」と領海拡大政策が心配の種である。
 近年中国の無法ぶりは目に余るものがある。チベット、新疆ウィグル、台湾、南シナ海の南沙諸島、西沙諸島、東シナ海の海底ガス田問題に加えて、「領海法」という国内法を勝手に定めて、他国の主権に属する「海域」を自国の領海としてしまう非常識と厚顔さが、今回の尖閣諸島海域での密漁問題に対する外交姿勢で顕著になった。中国は、政府までが「パクリをするのか?」と云うことである。中国は、始皇帝の漢民族統一以来、内政が安定すると、一貫して周辺諸国を侵攻してきた。「中華思想」の正体とも云える。現在の中国共産党もその例に漏れず、絶えず周辺諸国への侵略を繰り返してきた。

尖閣諸島海域は、江戸末期から島津藩の支配下にあり、明治12年に「沖縄県」が設置された上に、台湾割譲時に清国が「琉球の日本帰属」を承認して以後も、中華民国も、現在の中国政府も「日中共同声明」発表時に周恩来首相が承認し、鄧小平の訪日時にも、その帰属討議を棚上げせざるを得なかった海域で、250余年にわたり国際的に日本の実効支配が認知された日本固有の領海である。
その海域での中国漁船の違法操業で逮捕された船長の釈放を、こともあろうに外交儀礼を無視して深夜に日本大使呼び出して、再三にわたり釈放を求めるなど、とても国際常識では考えられない態度をとった事は、中国の国家的常識を疑わせるのに充分であるのに、それにかまけて、両国首脳の合意事項であった閣僚交流、青年交流のキャンセル、その上、日本人駐在社員の報復的な逮捕まで加えると、中国が自国の経済力と伸張しつつある軍事力を背景にした圧力で周辺諸国のみならず日本まで恫喝し始めた、としか思えない。
なにしろ、共産党政権を樹立するために三千万人余り、権力闘争のために文革を起こし二千万人以上、自由を求めて天安門でストを張った学生集団に「人民解放軍」の戦車部隊を投入して、平気で自国民を殺戮し、友邦であったはずのベトナムに武力侵攻さえしてきた中国政府である。「何を仕出かすか分からない・・・」と云うのが正直な話である。
小筆は、第二次世界大戦直前、ヒトラーが英国のチェンバレン首相を三度も自国に呼びつけ、チェコに属するズデーデン地方のドイツ併合を認めさせた上、ポーランド侵攻に踏み切った史実を思い出さざるを得なかった。
「中華思想」を信奉する中国人の本性は、「弱者へは居丈高に威圧し、強者には遜る」のが歴史上繰り返してきた民族の性癖である。日本政府は、彼らの民族性を良く理解して対応する必要がある。

 そこで小筆の心配事は、憲法九条の「不戦条項」である。この条項は、日本国から発動する「戦争放棄、軍備および交戦権の否認」であって、他国からの主権侵害から「国家主権と日本国憲法を守る」ことは「平和の内に生存する権利」の範疇であって、「崇高なる理想と目的を達成する責務」の中に存在しているものである。
この不戦条項の前提として、憲法前文二項に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」、「平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と記されているが、この九条はあくまでも「周辺諸国の国際法遵守」を前提としたもので、決して日本国への「主権侵害」を黙視する条項ではない。
日本国政府も日本国民自らも「国家の主権」と「国民の安全」を守る崇高な義務があり、他国からの主権侵害には当然武力を行使しても断固として立ち上がる「権利」がある。「自らは、決して対外侵略はしないが、日本への主権侵害には戦争も辞さない・・・」、この決意表明と体制、それを支える「軍備の充実」に努めることが、すなわち「第九条、不戦条項」を守ることである。

 我々日本国は、第一次世界大戦以後、太平洋戦争の敗北まで「軍部独走」という苦い経験を得て、この九条の「不戦条項」に到った経緯を持つ。しかし、戦後65年間の「国際法遵守」と「国際貢献」は、日本と日本人の「平和遵守国家への変身」を充分に表明し、証明してきたと確信している。
 それに反して日本の周辺諸国は、この日本の自浄努力を認めるどころか、九条の「不戦条項」を良いことに、日本国の「主権」を侵し続けている。ロシアの北方領土、韓国の竹島、北朝鮮の日本国民拉致、中国の尖閣諸島の領有権と大陸棚領有説を理由にした経済領域拡張、台湾の尖閣諸島の領有主張、等々、彼らにとって、日本の「不戦条項」はまたとない「安全弁」である。ただ彼らの主張が拡大、実行されないのは「日米安全保障条約」と「米軍基地」が沖縄を含む日本各地に存在しているからであって、日米安保はまさに「日本の生命線」である。

 近年中国の異常な軍拡と自国権益への主張は、日本が自らに課した第九条の「武力による威嚇」と「国際紛争を解決する手段」としての「武力行使の否定」に抵触し、憲法前文三項の「自国の主権を維持し、他国と対等な関係に立とう」とする日本の責務にも対立する行為である。
 戦後日本は、「太平洋戦争の贖罪意識」から自らの主権の意義を亡失し、因って立つ「国家主権防衛」の責務さえ消失してしまった。
 今回の「中国のごり押し」事件を契機に、日本国民全員が「国家主権の意味」と「国防意識の貫徹」を再認識して、国家防衛のために「生命を捧げる国民」、すなわち自衛隊に憲法上の「正当なる地位」を与えるべく憲法九条二項の改正をして、「日本国家」の安全と持続のために何をしなければならないか、と云う「重要主題」を国家的争点として盛り上げ、万機公論を尽くす必要に迫られている。

 小筆は、シベリアで非業の死を遂げた父の「61年忌供養」のために、今月15日から18日まで、三度目の「ハバロスク墓参」をする。墓石もない荒涼とした墓地跡に日本酒、線香、ローソクと肴を捧げて一人で座り込み、久々に父との「心の交感」を楽しみにしている。日本が太平洋戦争さえ起こさなければ、「父も死ぬことは無かったのに・・・」と、未だに「悔恨の思い」を持ち続けている。

2010年8月14日土曜日

8・15の憂鬱

6月26日から一ヶ月、酷暑の日本へ行って来た。所用を済ませた後、JR Passを使って四国を一周した。
四国南西端の宿毛湾沖は、69年前、太平洋戦争勃発の直前、日本海軍の空母群がハワイの真珠湾に停泊している米国海軍の主力戦艦群を殲滅するため、艦載機の猛訓練をした場所であり、南東端の甲浦は、戦争末期、日本列島東岸の太平洋を我が物顔に遊弋した米軍機動部隊から飛来した艦載機群とサイパン、グアム島を飛び立った「空の要塞、B29」が、日本全土で無差別爆撃と機銃掃射を繰り返した時の通過地点であった。そんな理由で、以前から一度は眼にしたいと願っていた土地であった。 
平和で長閑な四国巡りの随想とは、前大戦のことであり、戦後日本の姿であった。

 昭和14年9月、欧州での第二次世界大戦はドイツ軍の攻勢で始まり、それに刺激された日本陸軍は「バスに乗り遅れるな・・・」とばかりに、なんら国力への配慮もなしに、16年12月8日、対米英蘭豪との開戦に踏み切った。日中戦争の帰趨も不明な折に新たな戦線を開くなどという事は、素人にも判る不条理で理解不能な「戦理」であった。しかし「緒戦の勝利」に、陸海軍首脳のみならず、日本国民までが酔い痴れて、果てしない戦線の拡大に没頭していった。17年6月、海軍は虎の子の空母4隻をミッドウェー海戦で失い太平洋での覇権を失った。しかし海軍は「不沈空母」という不可解な名目で、南太平洋諸島に陸戦隊を上陸させて、次々と航空機基地を建設していった。陸軍も補給さえ困難な遠隔地の無数の島嶼群に部隊を派遣して守備に当たらせた。
しかし攻勢を取り戻した米機動部隊は、日本軍の島嶼守備隊の頭越しに戦線を押し進め、19年7月にはサイパンを落してB29の基地を建設し、日本全土の「焦土作戦」を開始した。
 太平洋を北上してくる米軍を防ぐ手立てを失った日本軍は、「特攻作戦」という「邪道作戦」を採用して、6千人に近い若者を死に追いやった。20年4月には沖縄が陥落したが、軍部首脳は「本土決戦」を呼号して本気で竹槍まで用意した。しかし、8月6日と9日の原爆投下は日本の継戦意欲を奪い去り、天皇の聖断により降伏した。

 これが開戦から敗戦に到る惨禍の過程であるが、小筆が四国周回で考えた事は「なぜ日本人は、軍部の独走を抑えられなかったか・・・」という疑問と、戦後、未だに展開されている「言葉のまやかし」と「融通無碍の非常識」とであった。

 「私見を述べずに、強弁に迎合する」、「長い物には巻かれろ」等が、日本民族の特性で、重大な欠陥である。開戦に到るまでの国民の「軍部支持と熱狂」がそれであり、敗戦を契機に、国民全体が「反戦思想」に傾き、戦時中、軍部に迎合した人たちまでもが「職業軍人」のみならず「召集兵」にいたるまで、すべての参戦者を「戦犯」扱いにして差別したことであった。シベリアに強制収容された日本軍捕虜の一部は、ソ連軍に迎合して「意識的に洗脳」されて捕虜収容所内の権力を握り、同調を拒否した日本人同胞を「反動分子」として過酷なまでの扱いをして多くの死者をだした。
 戦後の日本政府は、連合軍の「押付け憲法」を何の批判もせずに受け入れた。それが「第九条の不戦条項」である。世界の何処に「自国の防衛」を自ら放棄している国家があるだろうか? その上、「軍隊を持たない」はずの日本が、世界でも上位九番目に入る強力な自衛隊を保持している。
国軍を自衛隊、歩兵連隊を普通科連隊、砲兵を特科、工兵を施設科、将兵の階級でさえ「大佐を一佐、少尉を三尉」と国語辞典にも出てこない日本語を使っている。
「非核三原則」なるものを議会決議しながら、平気で米軍の「核の傘の下」で安逸を貪っているのみならず、国際法に則って合法的に締結された被占領国との「和平条約」と、膨大な「戦時賠償金」を支払って清算したはずの「太平洋戦争の傷痕」を、戦後歴代の首相や国会議員たちがアジア各国を訪問する度に、前大戦時、たった四年間弱の占領期間を「日本の侵略」として謝罪し続けてきた。その後も何か問題が発生する度に、地元政府が驚くほどの経済援助を提供し、外務省はODAなる「開発支援資金」を無制限といえるほど与え続けている。中国などは、今までの援助総額が一兆円を遥かに越えているのに感謝の言葉ひとつ無く、国家に殉じた将兵を慰霊する「靖国神社参拝」を批判し続けて、未だに政府主導と思われる反日活動は止まる所を知らない。

欧米のアジア植民地支配は350年近くに及んだが、どの国の首相が自国の植民地支配を謝罪したであろうか? 良い例が香港返還時に、バッテン総督が「英国は、香港住民に近代文明を伝授した・・・」と誇らしげに発言したと云われている。
 欧米社会では、「謝罪」とは自らの罪悪を認める事であり、その謝罪には当然、金銭的な「補償」や「処罰」が付随している。だから英国もフランスもオランダ、スペイン、ポルトガル、アメリカでさえも、自分たちの植民地支配を絶対に謝らないのである。
先日、広島の原爆慰霊祭に出席したルース・アメリカ大使が「謝罪」しなかったのは「けしからん」とマスコミが記事にしていたが、彼は当然の事として、自国の「原爆投下」に罪悪感を持っていない。従って「謝罪する」気持ちなど微塵もないのであろう。それが世界の常識であって、日本人の「謝罪癖」が異常なのである。

テレビのニュースでは、毎回どこかの会社の首脳陣が雁首を揃えて謝罪する姿が映し出されるが、誠に不思議な光景である。それが証拠に、JR宝塚線の脱線事故で謝罪したトップたちが、唇が乾く間もなく、事故調査委員を篭絡しようとさえした、と報道されていた。要するに、日本人の「謝罪」とは、その場逃れの便法に過ぎないのである。

 先日のニュースには驚かされた。管首相が、日本の「韓国併合百年」にあたり談話を発表した内容であった。新聞記事によると、その内容は「多大な損害と苦痛を与えたこと」と「国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけたこと」に「痛切な反省と心からのお詫びを表明する」と公表した。管直人が個人的に遺憾に思うことは自由である。しかし「日本国首相」としての発言は、全く意味が違う。日韓の間では1965年に「日韓基本条約」が締結され、「無償、有償、民間借款」等で、当時の韓国国家予算の三倍近くにも及ぶ合計8億ドル余りの賠償金を支払ったことで、両国間に横たわる問題の「すべては解決済み」であった。
36年間弱の日本の朝鮮半島支配は、五世紀以上にわたった清国支配と帝政ロシアの半島侵略意図に起因する。当時の半島は、現在の北朝鮮以上の惨状にあり、積年の陋習で疲弊しきった李王朝から朝鮮民族を救済する目的もあった。併合後、日本の半島への投資は、国内の法整備、インフラ建設のみならず一般教育の普及から公衆衛生の充実、税制、農政改革から産業投資にまで及び、半島全域の様相を一変させた。台湾の行政と共に、人類史上最も成功した異民族統治であった、と見ている。

確かに「異民族の支配」を受けた人たちの屈辱感には同情出来るが、「併合」以前、李朝が抱えていた「国家的危機と国民の惨状」との比較なしに「日本の植民地支配」のみを論じても意味が無いし、それ以上に、現時代の「社会常識」をベースに百年前の事象を批判したり謝罪したりする事こそ無意味である。
敗戦後の日本は、韓国との国交回復以来、莫大な経済援助を続けて韓国の経済的自立を支援した。その支援には、当然のことながら「植民地時代の無言の贖罪」の意味が含まれている。その解決済みの問題を、管首相は自ら蒸し返そうとしている訳である。「謝れば済む」との考えは、諸外国の常識からすれば、将に「詭弁を弄して、相手を愚弄する・・・」ことに他ならない。

 太平洋戦争の功罪は、積年の「アジア植民地の解放」と「それらの国の独立達成」であり、他方では、今まで彼らが手にした事もない多額な戦時賠償金を日本から貰ったことにより、新興国、政権首脳部の涜職を招いた事実であった。
 以前、村山首相がマレーシアを訪問した際に、マハティール首相に謝罪をしたら、「日本は悪いことばかりした訳ではない・・・」と云われてびっくりしていた、との記事を読んだことがある。日本人は、前大戦のトラウマから脱却し、「まやかし言葉」の乱用を廃して、確個たる自信を持って国際社会と対面する必要がある。
 日本では8月15日を「終戦記念日」と他人事のように呼び慣わしているが、外国では、すべてこの日を「対日戦勝記念日」と呼んでいることを付記しておく。

2010年6月20日日曜日

太平洋戦争について

今、カウラを中心にした日豪関係史を「カウラの桜」と題して執筆している。
大航海時代の末期から始まったオーストラリアと現代に到る日本の関わりが中心である。これを書くにあたっては、どうしても避けて通れないのが日清、日露戦争以降、太平洋戦争の敗戦に到る日本人軍事官僚の思考過程である。
 
明治維新を成し遂げた近世日本は、欧米列強に飲み込まれないように最大の努力をしてきた。いわゆる国政の近代化であり富国強兵政策であった。よちよち歩きの日本が最初に係わった外征が「台湾出兵」であった。宮古島の島民60余人が沖縄への航海途上で台風に遭遇して台湾北部に漂着した。牡丹社部落の原住民が彼らを虐殺したので、日本軍が遠征して処罰した事件であった。その後、朝鮮半島の独立を巡って、清国との勢力争いが拗れて日清戦争が起きた。下関での講和条約締結の結果、日本は台湾、澎湖諸島と遼東半島を手に入れたが、露独仏による三国干渉により遼東半島の割譲を放棄させられた。その理由は、「東アジアの平和のため云々・・・」であった。彼らに抗する力が無かった日本は、涙を飲んで臥薪嘗胆し、国力、軍事力の蓄積に努めた。
しかし三年も経ずして、この三国と干渉を傍観した英米は、清国から遼東半島、威海衛、九竜半島、広州湾、等々をそれぞれが租借していった。
その後日本は、朝鮮半島まで飲み込もうとしたロシアと開戦、南満州と日本海で激戦を繰り広げて、辛うじて勝利を手にした。日露戦争の戦果としては、樺太の南半分と満州での権益を手にした。
この戦争までは、どう見ても「日本の国運」を賭けた自衛戦争であったが、期待以上の「おまけ」が付いたと云える。それが理由かどうかは判らぬが、その後は、太平洋戦争に負けるまでは、どう贔屓目に見ても日本の「侵略戦争」であった、としか云いようがない。

日露戦争までの日本の政治家と各軍司令官たちは、すべて明治維新戦争の体験者であり、欧米列強からいかに祖国を守るかと脳漿を搾った人たちであったが、彼らをサポートした若い参謀たちは、維新後に近代軍事学を修めた秀才たちで「日本の国益」に対する思考に温度差があった。
 この後、日本は朝鮮を併合したが、5年後に起こったのが第一次世界大戦であった。連合国の一員となった日本軍は、青島、膠州湾のドイツ軍と交戦して占領、山東半島とドイツ領中部太平洋諸島を併合した。この大戦の最中、日本政府は中華民国に対して「対華21カ条文書」になるものを突きつけて、ドイツ権益の継承のみならず中華民国の主権に関わる無体な要求を突きつけて山東半島全域に進駐した。
 
どうも、この頃から日本の対外政策が怪しくなってきた。明治維新の苦労を知らない新世代の軍人たちの登場に関係があると思われる。
 彼らの頭の中には、「日本は戦争をすれば必ず勝てる」という誤った信仰のようなものが生まれていたらしい。台湾外征、日清、日露戦争、北進事変、第一次大戦、シベリア出兵、と一連の戦勝ムードが続き、その度に日本の版図を広げてきたために、高級軍事官僚たちが日本の軍事力を過信したに違いなかった。その過信と天皇のみが持つ「統師権」を軍事官僚が乱用することで、満州事変を起こし、北支事変、日中全面戦争、そして米英豪蘭相手の太平洋戦争に負けるまで続いた。 いわゆる「軍部独走」が始まり、政府が陸海軍をコントロール出来なくなったのである。満州事変も日中戦争の理由も、「暴支よう懲」(生意気な中国人を懲らしめる)であった。その後も、中国大陸侵攻に反対された天皇に「今、兵を引けば、今日までに戦死した英霊に申し訳が立たぬ・・・」と云うものであった。他人の国に勝手に攻め込んで行って、相手が反抗したから生意気であり、軍を引けば、戦死した自軍の将兵に申し訳がない・・・、というのであった。

中支那派遣軍司令官、松井石根大将は、士官学校次席、陸大首席で卒業した優秀な軍人であり、蒋介石の友人で中国通としても知られた人物であった。彼でさえ、「南京を陥落」させれば蒋介石は降参すると確信していた。しかし実際は、南京陥落の後、蒋介石は重慶に移り抗日戦を続けた。「何処で矛を収めるか・・・」と云う判定基準もなく、勢いに任せて奥地へ奥地へと兵を進めたのが日中戦争であった。 同じことが太平洋戦線でも起こった。何処まで占領したら休戦交渉に入るのか? と云う「戦の原則」を軍首脳が理解していなかったのだと思う。戦争開始に当たり、彼ら軍幹部に確固たる「国家戦略」があった訳ではなく、ただただ勝ち戦さにのって「戦術的」にだらだらと軍を進めて行ったに過ぎなかった。
陸軍参謀総長であった杉山元陸軍大将が対米開戦の意図を天皇に奉呈した時、「中国相手に苦戦しているのに、その上アメリカまで相手にして勝算はあるのか?」と下問されたらしい。常識として、当然の下問であった。杉山は、「中国大陸は奥が深こうございますのて゛・・・」と応答したら、陛下はすかさず「太平洋はもっと奥が深いではないか・・・」と怒りをあらわにされた、との記録を読んだことがある。戦勝に奢った陸軍の常識とはこの程度のものであったのだ。

 緒戦の華々しい勝利に、大本営のみならず国民全部が酔いしれて、戦争の本質を見失った。「聖戦完遂」、「アジアの植民地解放」を掛け声に、果てしなく戦線を拡大し、貧弱な装備しかない将兵を、補給も困難な太平洋各地に散在する諸島やアジアの遠隔地に送り込んだ。
 政府は、頭脳明晰でもっとも優秀な青少年たちのみを選んで陸軍士官学校と海軍兵学校で学ばせ、その中でもっとも優秀な生徒を陸大、海大で学ばせて、超優等生に戦争全般の指揮を取らせた。その彼らの中でも、せいぜい15名か16名の選らび抜かれた作戦参謀たちが東京の大本営作戦本部で、満州と中国、アジア諸国、南太平洋全域、アリューシャン列島にまで展開した6百万人に近い将兵を動かした。
「将兵の本分」は戦うことにある、しかし彼らの作戦地の決定と軍需物資、食糧等の補給は、当然大本営の責任であった。充分な食糧と豊富な銃砲弾があってこそ将兵の奮戦が期待できるのであって、その補給が続かない地域に軍隊を投入することは狂気の沙汰であった。その作戦を司ったのがエリート中のエリートたちであったのだから何をか云わんや、である。彼らにとって、「将兵の生命」はいかほどの価値があったのか? 彼らの思考方法は、今では想像することも出来ない。

ガダルカナル作戦では、3万6千余の将兵を投入し、戦死が2万5千6百人を数えている。その内、餓死と病死が1万5千人を超えていた。 インド侵攻を目的としたインパール作戦には、厳しい熱帯山岳地帯に9万2千人余りの将兵を投入したが補給はゼロであった。その結果、7万8千人以上の戦死者を出した。もっと酷いのは、作戦目的さえ不明な北部ニューギニアに投入された40万人以上の将兵は、一度の補給も受けることなく、昼なお暗い熱帯のジャングルを彷徨させられたあげく、3万人余りの生存者を残して消滅した。サイパン、硫黄島、その他の諸島では玉砕が続いた。国内は空襲で焼け野原にされ、とどのつまりが広島と長崎の原爆の投下であった。 

満州事変から太平洋戦争の敗戦までの14年間、日本は八百万人以上の将兵を動員、六百万人余りの将兵を海外に派遣して、その内、約240万人が戦死した。その間、国内への空襲、艦砲射撃等で死亡した民間人は、80万人を超えている。 人口9千万人といわれた当時の日本人の内4%近くが犠牲になった。敗戦直前の政府は、国家財政の9倍に近い借金を抱えていた。 国内の主要都市のすべてが空襲で破壊されて焼け野原になり、国内の産業はすべて破壊され、経済活動のすべてが停滞していた。
この惨禍の原因を作り出したのが、「最優秀」であったはずの日本軍高級官僚たちの「恣意」であった。

 敗戦後、最初の国会で、最後の陸軍大臣下村定大将が、敗戦まで暴走し続けた帝国陸軍を代表して、国家と国民に謝罪した。連合国は、ABC級戦犯裁判で日本軍人と民間人若干の「戦争犯罪」を追及し、千余名の刑死者と7千余人の有刑者を出して「日本の戦争責任問題」に決着をつけた。しかし日本は、国家としても国民としても、この凄さましい惨禍をもたらした一部軍人官僚の責任を問わなかった。 彼らは戦後も生き残り畳の上で天寿をまっとうした。この残滓が現代日本の官僚、特に高級官僚の無責任で独善的な体質に継承されているに違いないと思っている。
 奇しくも、現在の日本国の借金が年次予算の9倍で、あの凄惨な大戦争を遂行した時の借金と同じ倍率である。平和時にこれだけの借金を作って平気な顔をしている政府と政治家たちは、まさにA級戦犯なみの罪科を犯しているのではないだろうか?

 戦後65年、あの太平洋戦争を体験した日本人も年々減少、歴史上の事件としてしか捕らえられなくなってきている。8 月15日の終戦記念日をまじかに控えて、また訪日する。今回も靖国神社に参拝するが、改めて前大戦の意味を考えて見たいと思っている。